最終話
森の朝は、思っていたよりずっと静かだった。
鳥の声。
木々の葉を揺らす風の音。
どこか遠くで、小川が流れている。
――さっきまで、命のやり取りをしていたなんて嘘みたいだ。
「エリシア様、スープできました!」
ぱっと顔を上げると、小さな焚き火の向こうで、ミラちゃんが胸を張っていた。
「今日はですね、昨日の携帯食糧をちょっと工夫して……“戦場でもできる簡単ポトフ”です!」
「名前が長い」
レオンさんが、木の根っこに座ったまま、呆れたように笑う。
「でもいい匂い」
私のお腹が、正直に鳴った。
戦場で治癒を続けたあと、転移でさらわれて、王城で変な儀式に巻き込まれて、脱出して、巨大な黒豹さんに乗せられて――。
考えてみたら、ちゃんとご飯を食べたのって、三日前の朝が最後だ。
「カインさんも、どうぞ」
鍋を覗き込んでいた黒い影が、少しだけ眉をひそめた。
「……味見はしたか」
「失礼な! しました!」
ミラちゃんが、すかさず抗議する。
「いつもの三倍は慎重に味見しました!」
「それはそれで怖いんだけど?」
レオンさんのツッコミに、思わずふふっと笑ってしまった。
その笑い声に、カインさんの肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「……もらう」
素直に受け取った木の器を、優しい視線で眺めているのを見て、胸の奥が温かくなった。
(生きてるんだな……本当に)
昨夜、森の中で泣きながら言った言葉が、改めて胸の中でもう一度こだまする。
生きててよかった。
それはやっぱり、何度思っても同じくらい嬉しい。
ーー
簡単な朝食を終えると、すぐに出発の準備が始まった。
といっても、私にできるのは、みんなの小さな擦り傷を治したり、荷物をまとめるくらいなんだけれど。
「これから、どうするんですか」
聞きながら、私は空を見上げる。
木々の隙間からのぞく空は、もうすっかり青い。
遠くの方角――リュミエールの城がある方向には、まだ薄い煙が立ち昇っている。
「ひとまず、国境まで下がる」
カインさんが短く答えた。
「ゼクス兄上たち本隊と合流する」
「ゼクス様、怒ってますよ、将軍」
レオンさんが肩をすくめる。
「『弟が英雄的な無茶をしに行ったらどうするつもりだ』って」
「……あとで好きなだけ説教させてやる」
少しだけそっぽを向きながら言うその姿が、なんだか可愛くて、笑いそうになる。
(うん、いつものカインさんだ)
戦神とか修羅とか呼ばれている人なのに、こうしてみんなに心配されて怒られている姿を見ると、余計に「人間らしい」と思ってしまう。
「エリシアには、このまままた帝国の保護下に入ってもらう」
カインさんの赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。
「……嫌か」
「まさか」
首を横に振る。
「カインさんの所が、私の“帰る場所”です」
きっぱり言うと、彼の睫毛が、ほんの少しだけ揺れた。
「……そうか」
低い声。
それだけなのに、胸がじんと熱くなる。
「というわけで――」
レオンさんが、ぱんっと手を叩いた。
「帝国への“お帰りなさい作戦”開始ですね、将軍」
「……そんな名前はつけていない」
「いいじゃないですか、ちょっとくらいロマンがあっても」
「ロマンというより、ただのネーミングセンスの問題です」
ミラちゃんまで突っ込んで、思わず吹き出した。
笑いながら、ふと気づく。
塔の中にいた頃の私だったら、こうやって冗談を言ったり、人のやり取りを見て笑ったりすることなんて、想像もしなかったかもしれない。
今ここにいるのは――。
(あの時、銀霧の森で、手を伸ばしてくれた人がいたからだ)
ちらりと、隣の黒髪の人を見る。
彼もまた、私を見ていた。
一瞬だけ、視線が重なる。
なんだか恥ずかしくなって、慌てて荷物の紐を結び直した。
ーー
森を抜けて半日ほど歩くと、遠くに黒い旗が見えた。
ガルゼイン帝国の紋章。
国境線近くの丘に布陣している本隊だ。
「止まれ」
見張りの兵士に声をかけられ、私たちは歩みを緩める。
その兵士さんの目が、カインさんの姿を認めた瞬間、まん丸になった。
「せ、戦神将軍!? 本当にご無事で……!」
「あとで詳しい話はする」
カインさんは軽く頷くだけで、真っ直ぐ丘の上の大きな天幕へと向かう。
中に入る前から、低い声が聞こえた。
「――遅い」
黒いマントを肩にかけた男が、腕を組んで立っていた。
漆黒の髪に、鋭い灰色の瞳のイケオジだ。
カインさんとよく似ているけれど、どこか雰囲気の違う男性。
ゼクス・ヴォルフガルト。
カインさんの血のつながったお兄さん。
「……ただいま戻りました」
「おかえり」
第一声は、それだった。
ゼクス様は一度だけ小さくため息をついたあと、弟の肩を拳で軽く小突いた。
「お前が死んだら、誰が北方軍をまとめるつもりだった?」
「兄上が」
「冗談を言うな」
呆れたように眉をひそめてから、ふっと片方の口角を上げる。
「まあ、よくやった」
そこでようやく、ゼクス様の視線が私たちに向けられた。
エリシア・ルヴェリアス――いや、今は、エリシア・ヴォルフガルトだった。
正式な結婚式の日から、名前は変わっている。
口に出して呼ばれることは少ないけれど。
「初めまして、ではないが」
ゼクス様は、穏やかな笑みを浮かべて頭を下げた。
「弟の妻殿。ようこそ、再び帝国へ」
「あ、あの……ただいま戻りました」
慣れない言葉に、少しだけどもってしまう。
そんな私を見て、彼はくすりと笑った。
「今回の一件、リュミエールは完全に形勢を崩した」
ゼクス様の声が、天幕の中に落ちる。
「聖女誘拐、兵器利用の証拠は、こちらに有利すぎるほど揃っている」
「セラフィナ殿からの報せも届いた。王城で何が行われていたか、詳細な報告つきでな」
「セラフィナ様……!」
胸の奥が、じんとした。
(やっぱり、無事だったんだ)
あの人は、口で言うほど無茶はしない。
でも、自分にできることを最大限に使ってくれる人だ。
きっと今も、リュミエールの中から、何かを変えようとしている。
「帝都からの正式な通達だ」
ゼクス様が、一枚の文書を掲げた。
「エリシア・ヴォルフガルトは、“帝国が守る聖女”として、正式に保護対象とする」
「リュミエール王家からの返還要求は、今後一切受け付けない」
はっきりとした言葉。
胸の奥が、ほどけていく。
「さらに――」
ゼクス様が、少しだけ愉快そうな目をした。
「帝都とアクアリア連邦の間で、この件の情報共有が進んでいる」
「“聖女を兵器として扱った王家”として、リュミエールの名は、大陸中に広まるだろうな」
ミラちゃんが、ほおぉ……と感心したように息を漏らす。
レオンさんは、口元をゆがめて笑った。
「ざまぁ、ってやつですね」
その言い方があまりにもあっさりしていて、思わず吹き出しそうになった。
(……本当に。よかった。)
塔に閉じ込めたことも。
力を奪おうとしたことも。
今度は兵器として使おうとしたことも。
全部、見られてしまえばいい。
「呪い」と呼んで、私を苦しめていた。
(あの頃の抵抗できずに、苦しんでいた私はもういない。)
静かにそう思うと、不思議と怒りより先に、すっと冷めた感覚が広がった。
もういい。
これ以上、あの国に、あの城に、縛られる必要はない。
私は、私のいる場所へ帰るだけだ。
ーー
数日後。
ノクティルム要塞の石壁が見えた時、胸の奥がじんとした。
冷たい灰色の石でできた高い塔が聳え立ち、
雪の匂いのする風が吹いている。
こんなにも無骨で、堅苦しくて、
それなのに温かい場所を、私は他に知らない。
「将軍が戻ったぞ!」
「聖女様も一緒だ!」
門の上から、あちこちから声が上がる。
走り寄ってくる兵士さんたち。
泣きそうな顔の人もいれば、安心したように笑っている人もいる。
「ただいま戻りました」
深く礼をすると、「おかえりなさい!」の声が一斉に返ってきた。
(……帰ってきた)
本当に、戻ってきたんだ。
胸の奥がいっぱいになって、危うくまた泣きそうになる。
そんな私の手を、そっと誰かが握った。
振り向けば、赤い瞳。
「お帰り、エリシア」
「……ただいま、カインさん」
今度は、はっきりと。
何の迷いもなく。
そう言えた。
ーー
その夜。
要塞の塔の上には、静かな月が浮かんでいた。
満月より少しだけ欠けている。
でも、その光はどこか優しい。
私は城壁の上に座り、膝を抱えて空を見上げていた。
冷たい風が、髪を揺らす。
塔の部屋の窓から見上げていた月と、今、こうして外で見ている月は、同じなのに全然違って見えた。
「寒くないか」
背後から、低い声がした。
振り向くと、黒いマントを肩にかけたカインさんが、ゆっくりとこちらに歩いてくるところだった。
「少しだけ」
「ほら」
隣に腰を下ろすと、マントの片側を私の肩に回してくれた。
そのまま、自然に距離が近づく。
心臓の音が、妙にうるさい。
「……ありがとうございます」
「お前はすぐ風邪を引きそうだからな」
「そんなにひ弱じゃないです」
「そうだな」
即答。
でも、その声には、少しだけ笑いが混じっていた。
しばらく二人で黙って月を眺める。
静かな沈黙。
この沈黙が、嫌じゃない。
むしろ、心地いい。
「エリシア」
「はい」
「これから、どうしたい」
唐突な問いかけに、少しだけ考える。
「……カインさんの、隣にいたいです」
まず、最初に出てきたのは、それだった。
「それと」
胸の奥で、ゆっくりと言葉を探す。
「わたしの力が、“呪い”じゃないってことを、ちゃんと証明していきたいです」
「ここで、帝国で」
「カインさんたちと一緒に、助けられる人を、助けたい」
「体だけじゃなくて、心も……」
塔の中で、誰にも届かなかった声。
それを、今度は、届く場所で。
届いてほしい人たちに、届けたい。
そう思った。
ちらりと横を見ると、カインさんは、少しだけ目を細めて月を見ていた。
「……欲張りだな」
「すみません」
「いや」
首を横に振って、彼は静かに言う。
「そのくらいでいい」
「むしろ、それくらいでなければ困る」
それはきっと、戦場で何度も命を懸けてきた人の、実感のこもった言葉だった。
「お前が、自分の力を自分のものとして使う。
そして幸せになる。」
「それが一番、あいつらへの仕返しになる」
「……ですね」
思わず笑ってしまう。
リュミエールの王城。
アルフレッド殿下。
父様。
あの人たちがどんな顔をしているのか、正直、少しだけ見てみたい気もするけれど――。
今はそれよりも、ずっと大事なものが、ここにある。
「カインさんは……」
今度は、私から聞いてみた。
「これから、どうしたいですか?」
「俺か」
少しだけ考えてから、彼は短く答えた。
「お前を守る」
「んん?」
あまりにもシンプルすぎて、思わず変な声が出る。
「それだけですか?」
「それだけで、十分だ」
あまりにも迷いのない声音に、胸がどくんと鳴った。
「戦場でも、ここでも」
「一度守ると決めたものは、二度と失わない」
遠い昔の戦場。
村を救った夜。
きっと彼は、あの時からずっと、そうやって生きてきたのだろう。
私も、その中のひとつに、入っている。
「……はい」
それが、ただ嬉しくて。
私は、そっと彼の袖をつまんだ。
「わたしも、カインさんを守ります」
「あの、こう……戦場のど真ん中に飛び込んだりはしませんけど」
「それはやめろ」
ピシャリと言われた。
「でも、カインさんの背中が、少しでも軽くなるように」
「聖女としてじゃなくて」
「エリシアとして」
「戦神将軍の妻として」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
カインさんの赤い瞳が、わずかに大きくなった。
すぐに、ふっと口元が緩む。
「……悪くない肩書きだ」
「でしょ」
胸を張ると、彼は小さく息を吐いた。
「エリシア」
「はい」
「愛してる」
唐突なひと言。
でも、何度聞いても、胸の奥が熱くなる。
「……わたしも、愛してます」
これも、何度でも言いたい言葉。
塔の中で、一度も口にできなかった言葉。
今は、いくらでも言える。
そのことが、ただただ嬉しかった。
ふと、空のずっと向こうを見た。
遠い遠い空の上。
まだ見たことのない竜たちの国。
セラフィナさんに別れ際に教えてもらった国。
ドラグニア。
あの場所には、私の力の“本当の意味”を知る人たちがいるらしい。
いつか、行くことになるのだろうか。
竜王と、運命の絆を結ぶ者がいるらしい。
無属性の“真の力”ってなんだろう。
自分が、その渦中にいるとは、今はまだ、実感がないけれど。
(でも――)
隣には、この人がいる。
背中を預けられる人がいる。
それだけで、きっとどこへだって歩いていける。
「エリシア」
「なんですか」
「眠い」
「子どもですか」
思わず笑ってしまう。
「じゃあ、部屋に戻りましょう」
立ち上がって、手を差し出す。
カインさんは少しだけ目を細めて、その手を取った。
指先が触れ合った瞬間、胸の奥で、静かに光が揺れた気がした。
呪いなんかじゃない。
これは、私の願いと、一緒に生きると決めた人のためにある力だ。
月の光が、二人の影を細長く伸ばしていく。
これから先、どんな道が待っていようと。
二人なら、きっと――。
(大丈夫)
そう、胸の中でそっと呟きながら。
私は、戦神将軍の隣へと、一歩を踏み出した。




