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朝焼色の悪魔-第4部-  作者: 黒木 燐
第4章 翻弄
32/33

7.グッバイ ブルースカイ

 まだ幼い少女が父と母と手をつないでて、楽しそうにショッピングセンターを歩いていた。裕福な両親の許に生まれた少女は幸せ一杯の笑顔を浮かべていた。

 この日はクリスマス・イブ。

 少女はこれからプレゼントを選び、その後、いつもは忙しくて一緒にいないことが多い両親とレストランで水入らずのディナーをとる予定だった。

 少女はショウウインドウに煌びやかにディスプレイしてある有名な着せ替え人形を指さした。クリスマス商戦に合わせたニューヴァージョンだった。両親は笑顔で答え、少女が喜んで父親に飛びついた。父親は笑いながら少女を抱き上げた。全てがキラキラと輝いていた。

 その時銃声がとどろき人々の悲鳴と共に次々とショウウインドウが割れた。人形たちはガラスと共に無残に砕け飛び散った。父親は咄嗟に娘を母に託し母は反射的に娘をかばい床に伏せた。父はその上にさらに覆いかぶさった。母は娘を抱きしめ阿鼻叫喚の声を聴かせまいと娘の両耳をしっかり塞いだ。

 遠くに銃声や怒号そして悲鳴を聞きながら、少女は何が起きたか理解せずにいた。しかし、事態は少女に容赦しなかった。母親の手の向こうから聞いたこともないような鈍い音が聞こえそれと共に、身体に幾度か振動を感じた。ふいに母の身体から力が抜けた。母の体重が少女にかかり、その上にさらになにがしかの重さが加わった。少女の耳を塞いでいた母の手に力が抜け、ぱたりと落ちた。遠くの音がいきなり間近の音となって少女にせまった。

 聞いたことのない言語をしゃべりながら男たちが近づいてきた。彼らは少女のそばで足を止め、両親の顔を確認したらしく何か大声でわめいていた。少女のそばに手が伸びて彼女の襟首を掴み、母親の身体の下から引きずり出した。少女はかすれた悲鳴を上げたが、殺気立った男に頬をひっぱたかれ痛みと恐怖で人形のように動けなくなった。口の中に錆びた鉄の味が広がった。猫の子のようにぶら下げられた少女の視界に飛び込んできたのは、無残に血に塗れ孔だらけになった両親の遺体だった。


 紗弥は悲鳴を上げて飛び起きた。飛行機の快適な椅子に座り、緊張が続き疲れ果てていたためにいつの間にか眠っていたらしい。

「どうした! 大丈夫か?」

 横に座って新聞を読んでいた長沼間が驚いて声をかけた。

「申し訳ありません。大丈夫です」

 紗弥はすぐに取り繕ったが、汗と震えが止まらなかった。


 由利子はギルフォードの病室の窓の前にずっと座っていた。そこに「由利子さん!」と叫んで葛西が駆け込んできた。

「葛西君、病院だよ。大声や走るのはやめて」

 葛西は由利子にたしなめられて、少しばつが悪そうにしながら由利子のそばに立つと、ギルフォードの様子を見ながら言った。

「眠っているようですが、大丈夫ですか?」

 葛西の問いに由利子は彼の方を見ずに答えた。

「うん。でも時々うなされて、うわごとでジュリーの名前呼んでる」

「無理もないです」

「熱が高いんで念のためここに入ってるけど、おそらく風邪だろうと。ただ、雨にずっと濡れていたせいで体が冷え切ってて、肺炎の可能性もあるから絶対安静だって」

「由利子さんは?」

「私は大丈夫。というより、正直なんか現実味がないんだ」

「僕もです。それに、増岡さんが発症されて、もう、なにがなんだか……」

「増岡さんが?」

 由利子が驚いて葛西を見た。葛西は憔悴しきった由利子の顔を見て一瞬驚いたが、努めて平常に答えた。

「ええ、ここにきてすぐに山口先生から聞かされました。もうすぐ隣の病室に運ばれてくると思います」

「そんな、信じられない。あの飄々とした増岡さんが……」

「手に瓦礫が刺さったらしい小さな傷があったそうです。ほんとに見逃すくらい小さな」

「刺し傷……」

「でも、河部千夏さんは快方に向かていることだし、絶望するには早すぎます」

「そうだね。千夏さんはレベル2の病室に移れそうということだし、希望はある」

 由利子は自分に言い聞かせるように言った。

「でも、富田林さんは落ち込んでいるだろうね。仲良かったから」

「実は、ここに来る前に富田林さんに会って来たんです。平気そうにしていましたけど、あれはカラ元気ですね。声が少し裏返ってました」

「富田林さんは正直だからね。だから信頼できるんだよね」

「今、九木さんが残って色々話を聞いているはずです」

「そう。九木さんも最初の印象は最悪だったけど、けっこういい人みたいね」

「一緒にいるとまだ少し緊張するので、ちょっと疲れますけどね」

「まだ苦手なんだ」

「はい、実は」

 由利子が思ったより落ち着いていると判断して葛西が言った。

「由利子さん、ちょっといいですか?」

「何よ、改まって」

「こんな時にこんなところで申し訳ないですが、写真を確認していただけませんか?」

「写真?」

「はい」

「ひょっとして?」

「はい、レイヴェンスクロフトの写真です。長沼間さんから由利子さんに確認していただくようにと言われまして」

「どこからそんな写真を?」

「ネットからだそうですが」

「あ、そうなの?」

「ですから、かなり前の写真です」

「当の長沼さんは?」

「現場のアメリカに移動中ということです」

「早っ! そういえば、紗弥さんもアレクのお父様の命令でアメリカに向かったけど……」

「おそらく一緒の便だと思います」

「アレクの実家ってなにげにすごいんだな。でも、よくアメリカが許可したね」

「米国もそれだけ事態を重く見ているということでしょう。もはやアメリカと日本それそれの問題ではないと」

「そりゃあ、ウイルスがアメリカ発ということが本当なら洒落にならんどころか、国際問題だよ」

「現大統領がテロ対策に真剣な方で良かったです。下手すりゃまた隠蔽されるところだった。とはいえ、まだ極秘事項ですのでご内密にお願いします」

「わかったから、とりあえず写真を見せて」

「ああ、すみません」

 葛西は慌ててスマートフォンを出して操作し、由利子に手渡した。

「こいつがジュリーを……」

 由利子はまじまじとそれを見たが、見る見る顔色が変わった。

「この人は……!」

 由利子は危うく葛西のスマートフォンを取り落としそうになった。

「どうしました?」

「私、この人見たことある!」

「え?」

「ジュリーと大学の図書館に行った時、彼が調べ物をしてて……」

「え? 由利ちゃん、ジュリーと図書館とか行ったの?」

「そうよ。アレクに頼まれただけだからね。アレクが行けなくなってジュリーがぶすくれちゃったから代わりに行ってくれって頼まれただけだから」

 由利子はなんでこんな時にこんなことの言い訳をせねばならないのだとぼんやりと思いながら答えた。その時ギルフォードの過去話を聞いたことはもちろん言わなかった。最もそんな余裕もなかったが。

「すみません、余計なことを言いました。で、ジュリーが調べていた本でこの写真を見たということですね」

 しかし、由利子は葛西の質問に答えずにつぶやいた。

「そうか、そうだったんだ」

 思えばあの頃からすでに、ジュリアスは恩師がこの事件に関わっているのではないかと憂慮していたのだ。そしてここで調べたことで確信をもったのだろう。あのシャープペンシルを挟んでいたページにあった写真の年配の男性、彼がジュリアスの命運を決めようなどど、その時の由利子に予測など出来る筈がない。

「ジュリーが館内放送に呼び出されて、待ってる間にジュリーが読みかけのところにシャーペンを挟んでたんで、興味本位でそこを開いたら、年配の白人男性の写真があって、でも全部英語で何が書いてあるかわからなくて、すぐに本を閉じちゃった」

「由利ちゃん?」

「私、見ていたんだ。見ていたけど、大したことないと思ってスルーしちゃったんだ」

「由利ちゃん!」

「どうしよう、私、知ってた。その本覚えてて、あとでアレクに教えてたら、いいや、その時居たのが私じゃなくてアレクだったら、ジュリーは死ななくて済んだのかな?」

「由利ちゃん、しっかりして! そんなこと、僕だってわからなかったですよ。アレクがいたってどうだかわかりません。悔やんだって仕方ありません」

「ごめん、アレク、ごめん、ジュリー」

 その時、ギルフォードがまたジュリアスの名前を呼んで顔をゆがませ、その頬を涙が伝った。由利子は震えながら両手を組んで祈るよう目をつぶった。由利子にできることはもはや見守ることしかなかった。由利子も辛そうに顔をゆがませていたが、その頬を涙が伝わることはなかった。葛西は由利子の肩に手をそっと置いた。本当は抱きしめたいと思ったが、そんなことで今の由利子の心が休まるようなことがないのを、葛西自身が一番わかっていた。葛西は自分が由利子の支えになれないことを痛切に思い知っていた。


 富田林はベッドに腰かけては立ち上がりを繰り返した後、ベッドにごろんと寝ころんだ。

 九木はしばらく富田林と話していたが、時間だと言って帰ってしまった。九木が相手では気を遣うばかりなので気疲れするだけなのだが、それでもなんとか気持ちくらいは紛れた。しかし、一人残されると増岡のことが気になって仕方がない。ベッドに寝ころんで何度かゴロゴロすると、むっくりと起き上がってまたベッドから降りて室内をウロウロした。

「あのバカ、怪我に気付かないなんてどんだけ鈍いんだよ! おかげで俺の隔離期間も伸びちまったじゃないか!」

 富田林はそういうと、ガンとベッドの脚を蹴飛ばした。思い切り蹴飛ばしたが目測を誤ってくるぶしを思い切り打ち付けた。

「うおーっ、痛て、痛ってぇーーーー!!」

 富田林は打った足を抱えてうずくまりうなった。

「増岡、死ぬな。頑張ってくれ……」

 うずくまったまま、富田林はしばらく動かなかった。肩が小刻みに震えていた。


 教主は、母をなだめてようやく眠らせると、教母の部屋をでた。その後ろを白スーツの女性が1mほど離れて歩いていた。女性は教主に言った。

「教母さまは本当に長兄様のことを頼っておられるのですね」

 教主はそれに反応して振り返って彼女を見た。その眼には一瞬鋭い光が宿ったように見えたが、女性は気づいていない様子だった。教団の信者たちは言われない限り教主の目を見ることを禁じられているからだった。教主はすぐに前を向くと、そのまま女性に優しい声で言った。

「黒岩さん、あなたが率先して母の世話をしてくださるからですよ」

「そんな、もったいない」

「ところで、あれで満足されましたか?」

 黒岩と呼ばれた白スーツの女性は、恐縮しながら答えた。

「はい。あの女がこの世から消えてせいせいしましたわ」

 教主は立ち止まると『黒岩』の方を振り返って言った。

「あなたの御夫君にに横恋慕して略奪婚した女性だということでしたが、あなたは離婚後も姓を変えなかった。もちろん諸事情を踏まえ、旧姓に戻らなければならないという決まりはありませんが」

「私にも意地がありましたし、体裁もありました。旧姓に戻せば離婚したことが友人たちに丸わかりになりますもの。それに、あの女だって私が黒岩のままであることに、内心穏やかではなかったはずです」

「そうですか。てっきり前夫に未練があるものとばかり……。では、るい子さんが旦那さんのところに行って冥府でまた一緒に暮らすことは大丈夫なのですね」

 そういわれて『黒岩』は、声を荒げて言った。

「二人とも今頃地獄で苦しんでいるのでしょう? 長兄様はそうおっしゃった。不倫をしたものは地獄でも愛別離苦に苦しむと!」 

「そうです。その通りですとも」

 教主は穏やかに言うと、歩みを止め振り返り、彼女に手を差し伸べながら言った。

伊都江(いとえ)さん。名前は元来『(しゅ)』であり、それは人を縛ります。もうあなたは黒岩という呪から解放されるべきです。近いうちに私が新しいお名前を考えて差し上げましょう」

「ああ、あり難き幸せにございます!」

 黒岩伊都江は跪いて教主の手をとり、涙を流しながら言った。

「伊都江さん、そんなことはなさらずに、さあ、お立ち下さい」

 教主は伊都江の手を取り立ち上がらせて言った。

「さあ、一緒に参りましょう。並んで歩くことを許します」

「は、はい!」

 伊都江は光栄さに再び涙ぐんで言った。教主は微笑みながら優しく言った。

「これからも教母様のお世話を頼みますよ」

「はい、お任せください」

 伊都江は誇らしげに答えたが、教主が一瞬浮かべた恐ろしい笑みに気付くことはなかった。


 ---------


 梅雨末期の雨は祭りが中止になったあの日から数日の間、日本中を暴れまわり各地に被害をもたらした。F県下でも数か所の自治体に甚大な被害を記録した。森の内知事は各対応に追われたものの、何とか時間を作ってギルフォードの様子を見に来たが、彼が目を覚まさないのでがっくりとして去っていった。森の内もH駅自爆事件に続く豪雨甚大災害に見る影なく憔悴していた。特にH駅は九州最大のターミナル駅でありただでさえ自爆事件で混乱していたところに豪雨が襲来し、その混乱は日本各地に及んだ。

 ギルフォードの熱は四十度を超えるほどのものだったが、三日目には下がる兆候が見え四日目にはかなり熱は下がり皆を安堵させた。五日目には一般病棟の個室に移り、車いすでの移動を許された。しかし、増岡の病状は一進一退を繰り返し、富田林は隔離病室で不安を募らせていた。

 一般病棟に移ったギルフォードは、意識を取り戻してはいたものの、ほとんどしゃべらず窓の外をぼんやり見て過ごした。食事もろくに食べない状態で、病院のスタッフを心配させていた。

 週末には天気の方は快方に向かい、豪雨による電車の運転停止や各道路の通行止めなどで混乱していた交通網もなんとか復旧した。それによって自宅に足止めされていた由利子もようやく感対センターへ行きギルフォードを見舞うことが出来た。


20XX年7月20日(土)


 由利子は部屋のドアの前で深呼吸してからドアをノックした。返事がないので思い切ってドアを開けた。

「アレク、こんにちは。ようやくお見舞いに来れたよ」

 由利子は部屋に入ると声をかけたが、ギルフォードはこちらを見ただけで何の反応もしなかった。由利子は出来るだけ明るくふるまうよう努めた。

「いい天気になったよ。まだ梅雨は明けてないそうだけど、中休みだって。そりゃあ中休みもしたいよね。すごい雨だったもんなあ。ノアが箱舟を作り出すレベル?」

 由利子はなんとなくジョークを挟んでみたが、やはり反応はない。由利子はため息をついて、リュックを背負ったまま椅子をベッドの横に持ってきて座った。ギルフォードはまた窓の方をぼんやり見ていたが、しばらくしてぼそりとつぶやいた。

「ノアは……」

「な、なに?」

 由利子はギルフォードがしゃべったので喜んで聞き返した。

「あれだけの動物たちの世話はちゃんとできたのでしょうか?」

「へ?」

「つがいの全生物ですよ。人間に有用な生物だけでは生態系を維持できません。草食動物も肉食動物もいる。鳥だって爬虫類だって両生類だっているし、水中の魚はともかく虫だって生物だし、ハチやアリみたいに巣単位で生きる生物とかどうしたんでしょう。共食いさせるわけにもいかないからエサだって調達しないといけないでしょ? どんだけ大きな箱舟が要ると思いますか? 一週間やそこらで出来ると思いますか? それに世話人や食料だって膨大な……」

「アレク、わかった。わかったから、いきなりまくしたてないで」

 由利子はギルフォードがいきなり堰を切ったように話し始めたので驚いて腰を浮かせながら言った。

「すみません。以前から疑問に思っていたので」

「神話に突っ込んだって仕方ないやろ。ほとんどはメタファーなんだろうし」

 椅子に座りなおして由利子が言った。どう反応して良いかわからなかった。それで、話題を変えることにした。

「あのね、美月のことだけど」

「すみません。自分で預かるとか言っておきながらこんなことになってしまって。今どうしていますか」

「如月クンの大家さんのご夫婦がね、半年前に愛犬を老衰で無くしていたそうで、寂しいから次に買う犬を探していたんだって。それで、彼らに交渉してくれて、美葉が見つかるまでの間面倒見てくれることになったそうよ。幸い、そこは豪雨被害が出なかったので、元気にしているって」

「そうでしたか。良かった……」

「ごめんね、私たちで勝手に決めて。でも、その方がいいって思ったの」

「そうですね。僕といるより安心です」

「学校には如月クンが時々連れてくるそうだし。でも、アレクがうちに帰った時一人になって寂しいよね……」

「そうですね。ジュリーが帰ってこなくなった今は」

「アレク、ごめんね。本当にごめん。あのね、あのね、私……、図書館でジュリーが恩師のレイヴェンスクロフトのこと調べてたの見てたの。でも、気が付かなかった。葛西君から写真を見せてもらって初めて気が付いたの。私が気づいてたら……」

「ユリコ」

 ギルフォードは由利子の言葉を遮り、厳しい表情で由利子を見て言った。

「いちいちIF(アイエフ)を考えてはいけません。起きてしまったことは変えようがありません」

 由利子はそう言われて返す言葉がなかった。

「ごめん、ユリコ。責めたんじゃありませんよ。これは僕に対しての戒めでもあります」

「うん、わかってる……」

 由利子はそう答えたものの下を向いたまま、黙ってしまった。

 しばらく沈黙が続いたが、ギルフォードの方から口を開いた。

「外に出て空が見たいです。車いすを押して屋上まで連れて行ってくれますか?」

「うん、わかった。看護師さん呼ぶね」

 ギルフォードから頼まれて由利子は喜んで立ち上がった。


 感対センターの屋上に出ると、梅雨合間の青空が広がっていた。綿雲や巻雲などが何者かが青いキャンバスに白い絵の具で自由に描いたように流れていく。眼下には緑の木々が広がりさらに向こうには街並みが無限のように続いている。昼下がりの日差しは強いが風は若干強く、梅雨前線が南下しているせいか肌にあたる風は湿気が少なく心地よかった。

「ほんっとにいい天気! いい景色! ……高いフェンスが邪魔だけど」

「仕方がないですね。危ないですから」

 由利子はフェンスから少し離れたところで車いすを止めた。

「この辺にしよっか。アレク、暑くない?」

「大丈夫です。ユリコこそ、紫外線は大丈夫ですか?」

「日焼け止めをしっかり塗っているから平気だよ。アレクこそ大丈夫?」

「短時間なら大丈夫です。ここからの風景も綺麗ですね」

 ギルフォードは青空を見上げて眩しそうな眼をして言った。

「ジュリーはあそこへ行ったのでしょうか? あの綺麗な青い空へ……」

 それを聞いて由利子は何も答えることが出来なかった。

「僕もいつかあの空に向かうことが出来るでしょうか?」

「アレク……」由利子の顔がまた辛そうにゆがんだ。そしてまたしばらくの沈黙。 それを破ったのはギルフォードだった。

「ユリコ」

 ギルフォードは由利子の方を向かず、空を見ながら言った。

「君にだけは言っておきます」

「え? いきなりなに?」

「僕は、僕はジュリーのことを忘れるつもりです」

 ギルフォードの口から信じられない言葉が出たので、由利子は驚いてしばらく頭の中が真っ白になった。あんなに仲が良くてお似合いのパートナーを忘れようなんて、いくらショックだからって、あんまりだ。

「アレク正気? ジュリーのことを忘れるなんて! また彼から逃げるつもり?」

 ようやく由利子が絞り出した声はそのままギルフォードへの非難となってしまった。 しかし、ギルフォードは青空を仰いだまま穏やかに言った。

「そうです。でも、これは現実から逃げるためではありません。前を向かなければならないからです」

「前を向く?」

「そうです。この事件はまだ解決していません。それどころか敵の正体もウイルスの正体も未だわかっていません。だから、この事件が解決するまでジュリーのことを封印するつもりです」

「アレク……」

「そうしなければ、もう僕は自分を保つことが出来ません。だから、ジュリーの雪辱を果たすためには彼のことを忘れなければならないのです。ジュリーはきっとわかってくれます」

「アレク、そんなに……」

 由利子は、ギルフォードが思った以上に追い詰められていることを知って、これ以上彼を責めるようなことは言えなくなった。片翼を失ってしまった彼の苦悩と悲しさは想像を絶するものだろう。二度も愛する人を運命に奪われた彼の苦渋の決断を誰が責められようか。

「ユリコ、わかってくれましたか?」

「わかるわけない! 第一そんなこと出来るわけ……」

「僕には出来るのです。それをやらなければ僕は生きていけなかったから……」

「アレク、もういい。わかった、わかったから……」

 由利子は答えたがそれ以上声にはならなかった。

「そろそろ顔がヒリヒリしてきました。帰りましょうか」

「うん。じゃあ、行くね」

 そういうと由利子は車椅子をゆっくりと動かした。

 屋上から塔屋に入る時、ギルフォードは青空を振り返り何か小さくつぶやいた。しかし、由利子はそれに気づくことはなく、エレベータのボタンを押した。


 由利子は、葛西に送られて家に帰ったが、車の中でもため息を付きっぱなしだった。葛西が心配して理由を尋ねたが、由利子は自分自身でも完全に納得できたわけでもないので上手く説明できる筈もなく、今度ねとはぐらかして答えた。葛西は幾分か不満そうだったが、「絶対ですよ」といった後、その件には触れないでいた。本当は由利子一人で抱えるには重すぎたのだが。

 部屋に帰ると真っ先に走って迎えに来た愛猫のはるさめを抱き上げぎゅっと抱きしめた。その周りを遅れてきたにゃにゃ子がうろうろと歩き回った。あたかもどうしたの? 何かあったの? と言わんばかりに。いきなり抱きしめられたはるさめは、驚いて暴れると由利子の手から逃げ出した。その時腕を軽く引っかかれた。由利子はその腕の傷をしばらく見ていたが、そのまま玄関の壁にもたれて座り込んだ。はるさめがすまなさそうに寄ってきて、由利子にすり寄った。遅れてにゃにゃ子も来て膝の上に乗ると心配そうににゃあんと鳴いた。

 由利子にはこのところずっと精神的なダメージが続いていた。しかし今日のショックは今までと異質のものだった。悲しくて悔しくてやりきれない。たった一週間の付き合いだったが、ムードメーカーで屈託のないジュリアスは由利子も大好きだった。ジュリーが死んだなんてみんな夢だったらいい。

「ジュリー、会いたいよ……」

 彼の死は由利子にも暗い影を落としていた。


 気が付くと、由利子は欅の下に座っていた。Q大裏ビオトープ奥の林を抜けた場所にある小高い丘にひときわ大きく生えたあの欅で、今は悲しみのシンボルとなってしまった場所だった。

 ふと横を見ると、ジュリアスが座っていた。天気はあの時と同じく穏やかな晴天で時折爽やかな風がそよいでくる。由利子は悲しそうに笑うと言った。

「ジュリー、あんたが居るってことは、これは夢なんだよね」

「ああ。意外と冷静だな、由利子」

 ジュリアスはいたずらっぽく笑うと答えた。変わらない笑顔だった。

(会いたいって思ったから、こんな夢をみてるんだ)由利子は思った。

「帰れんくなってごめんな」

「それは、私にじゃない、アレクに言って。アレクにはあんたが必要だったのに。あんたは帰ってこなきゃダメだったのに」

 由利子に責められて、ジュリアスは悲しそうに言った。

「返す言葉もにゃーわ」

「アレクね、あんたのことは忘れるって言ったんだよ。事件が解決するまで封印するって……」

「しかたにゃーわ。だがね、翻って考えたら、それはあいつがこのテロ事件を必ず解決するという意思表示をしたってことだ」

「意思表示?」

「そう。それだで由利子、おみゃあさんにもいろいろ思うこともあるだろうが、あいつのこと許してやってちょぉよ」

「許すって、そんな、私……」

「あいつを頼む。親友としてあいつを支えてやってくれ」

「親友じゃない、戦友だよ。支えるよ、もちろんだよ。そしてあんたの仇を必ず討つから」

「そうか。頼もしいぞ、由利子。じゃあ、そろそろおれは行かにゃぁとな」

 そういうとジュリアスは立ち上がった。

「じゃあな、由利子、息災でな。おみゃあさんに会えて良かった」

 ジュリアスはそう言いながら由利子に微笑みかけると背を向け歩き始めた。

「ジュリー、待って!」

 由利子は慌てて立ち上がろうとして態勢を崩した。


 ハッとして目が覚めると、暗い自分の部屋のベッドに居た。体を起こすと枕元にはにゃにゃ子が、足元にははるさめがすやすやと眠っている。

 悲しい夢……。

「私を心配して、約束通り帰ってきてくれたんだね、ジュリー」

 そうつぶやくと、由利子は両手で顔を覆った。

 由利子は声にならない声を上げて泣いた。あふれる涙が両頬を伝い、顔を覆った手に滴り落ちた。


 

 涙が戻ってきた。


 

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