8.理想へ向かうステップ
「何言ってるのか、わからないよ」
一方、教室の片隅。
ナツメは首をゆるゆると振って否定した。
「そうか」
頷いた直後のことだった。
バサァッ!! とヴィンフォースがその肩に抱える漆黒の片翼を広げたのは。
ナツメの瞳が大きく見開かれる。
それを見てニィ、とヴィンフォースは笑んだ。
「最初からこれを見せていれば手っ取り早かったか?」
「……なるほど、歪みの正体はこれだったの」
もとより底知れぬ何かはビシビシと感じていたが、その正体がわかったところで特に認識が変わることはなかった。
これには、逆らってはいけない。
勝てるだとか、そういう次元ではなく、そもそも勝負になるのかすらあやふやである。
「堕天使、か。これはまた厄介な」
「その通り、わたしは堕天使だ。だがおそらく、貴様は勘違いしているぞ」
「?」
首をかしげるナツメをよそに、ヴィンフォースは隣の椅子ではなく机に腰を落ち着かせた。
「逆に、違うんだよ、わたしは。一言に収めるならばこの世界ではない場所の元天使、あたりが妥当だろうな」
「???」
「……まさかとは思うが、わたしが言っていることがわからないのか?」
「そ、そんなことないよ、あれでしょあれ。えっと、その、堕天使だから天使の悪い奴バージョン。それからヴィンフォースちゃんは違う世界から来てってあれ?」
さんざんな有り様をみて堕天使は肩を落とした。
また最初から説明に入らねばならないのか。
相棒は人間のくせにすんなりと状況を把握してくれたのだが、どうやら目の前の人外、人間ではないくせに察しが悪いらしかった。
人間でこの反応ならまだわかる。というかレンが異常な理解力を持ち合わせているだけであってこちらが当然なのだ。
だがこいつは違う存在、よって一言で説明が完了するとばかり思っていたのだが……。
「……はあ、面倒だ」
失望を隠そうともせず丸出しにヴィンフォースは天を仰ぐ。
「ちょっとーあたしそんなにおかしいの? そこまで?」
(別格の怪物――いや、堕天使か。いやいやそんなのどうでもよくて。とにかくヤツの機嫌を損ねちゃったけどどうなっちゃうのあたし!?)
口調こそ平静を装ってはいるが、内心心臓バックバクのままナツメはおどおどした。
が、そんなことは知る由もないヴィンフォースは、やがて割り切るように髪をかきあげた。
「……ま、しょうがないか。どこかで齟齬が発生しても仕方がないし。正確な情報を共有するのは正しい判断のはずだ。少しの手間は受け入れるか」
ぶつぶつ呟く言葉の中に、渋々可哀想だしやってあげよう的なニュアンスを込めて。
いかにも不機嫌そうなヴィンフォースにナツメは肝を冷やしさらには目まで回していたが、目の前の机に着弾した堕天使のかかと落としによって全ては無に帰す。
頭に真っ白な空白ができたところで、堕天使は情報開示を始める。
「まずは天界そのものから説明した方がいいか――」
✤
驚きの事実だった。
「……え、天使?」
意外にも意外が意外すぎてさっきまで考えていたことが全て吹っ飛んだ。
てっきり吸血鬼だったり妖怪だったり、そんな感じのを想像していたのだが。
だがまあ、ナルミの姿から鑑みてもそれは間違いないだろう。光輪に羽根はお約束である。
そういえばヴィンフォースの光輪は見たことがないな、なんて逃避気味の考えに入ったところで、レンはやっと正常な思考を取り戻した。
「え、天使?」
同じ言葉を繰り返しただけだったが、その脳内にはあらゆる可能性が垂れ流されていた。
(待ってヤバい天使ということはヴィンと同系の存在ってことでこいつ黒くないし堕天してないのは明らかだけどそれならヴィンの敵ってことでそれはつまり俺の敵でもあるってことでそれなら翼を持っている俺も即処断ってこともありえるわけだけどさっきヴィンが怖いってわかったしでも天使ってことはヴィンを捕えに来たんじゃ――!?)
処理しきれずに同じような問いがループし始めていた。
「ん。どしたの、いきなり。今まで追い詰めて勝利は確定的だと思っていたら逆に追い詰められていた、みたいな顔して」
そんな顔があるのかは知れないが、だいたい図星である。
みるみるうちに弱気が伝わってくる相手の衰えに、この生徒会長が嗜虐心をくすぐられないわけがなかった。
邪魔だったので光輪と翼をその場から消すと、レンの頬に指をぐりぐり押し付け、瞳を覗き込む。
「ねえ、どしたのどしたの? 腰でも抜けちゃった? まさか、天使サマだったなんて、って?」
生き生きとしたサディスティックな笑みであった。
その意地悪そうな生徒会長を見て、多少なりともイラついたことにより、やっとこさレンは冷静になることができた。
あくまでさりげなく、重要なことを聞く。
「……天使って、天界の?」
「んー? 天界ってなあに?」
瞬く間に氷解した。
レンは一度深呼吸をし、すっくと立ち上がる。正確には、立ち上がる瞬間にほんの少し宙に浮く。今となってはこの微調整はすっかりお手の物となっている。
「ははん、そういうことか」
尊大な態度に腕まで組む始末。先ほどまでブルブルしっぱなしだったとは思えない。
どうやら立ち直った、となんとなくわかったナルミは虐め甲斐のなさに頬を膨らませた。
「何かわかったの?」
不貞腐れたようにナルミが聞くと、
「ぼちぼち」
とレンは完全に使い方の間違った言葉を使ってから完全に強気な態度を取り戻して、
「一つ、頼みがある」
と、高圧的に要求した。
「な、なにかにゃ?」
あまりにも短時間での態度の変わりように動揺したナルミは噛んでしまった。
(なんだろこの余裕感。許してやる代わりに言うことを一つ聞けよ、でその命令はそっち方面的な?)
さっきとは打って変わって、絶体絶命の大ピンチで切り札を引き当てたかのような。そんな自信がありありと伝わってくる。
実際、現時点で戦力的にナルミが勝っているはずなのだが、なぜか気圧されてしまう。
まさかこれがシミュレーションにシミュレーションを重ねた末編み出した妄想上の『めっちゃ最強感のあるヤツ』のオーラを汲み取って、実践しているだけだとは、夢にも思わなかっただろう。
そして鋭い上目遣いでナルミを射抜いたレンは、ビシリとナルミを指さし、有無を言わせぬ調子で頼みを口にする。
「一週間後、決闘してくれよ」
「……え、あ?」
雰囲気だけに押されていた生徒会長は言葉の意味を吟味するのにしばらくかかった。
「……ええと、それって、私と戦うってこと?」
「その通りだ」
「そういうこと。ふんふん、……ってなるかい!」
ナルミはノリツッコミをしてしまうくらいには困惑中であった。
「なんでさなんでさ。今さっきまで私たち、戦わないようにしようって話をしてたんじゃなかったっけ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
大声の肯定に、あー、とレンは気まずそうに頭をかく。
「すまん、これ決定事項」
「…………、」
気づけばタメ口になるわ凄んでくるわ意味不明なことほざいてくるわで生徒会長は言葉を失う。
なんなのだコイツは。
ナルミには目の前にいる存在がなんなのかわからなくなってきていた。
「えっと、キミ、人間だよね?」
「どこからが人間かはわからないが……たぶん、まだ人間」
まだ、という言い回しが気になったがこの際棚に上げておくことにする。
「私に殺されかけてたよね。あのおかしいやつに助けられなければ呆気なく死んでたと思うけど」
「……ああ。認めてやる、そうだよ」
苦虫を噛み潰したような顔で悔しそうに認めるレンを見て、なおさらわけがわからなくなった。
「なのに、なんで私に挑もうと? 死ぬかもしれないよ。実力の差はあの時証明したよね?」
ギリ、と向かいの少年が歯ぎしりしたのがわかった。
そんなことはわかっている。言葉にせずともその身体が語っていた。
それでも彼はなおも戦いを望む。
なぜか?
理由は至極単純。
馬鹿みたいな。正気を疑ってしまうような。
足でまといになりたくない。
ここまで関わってるのに戦力外なんて以ての外。
逃げの道なんてものは見渡せばいくつもあるのに、彼は脇目も振らずに目的だけを見据えていた。
「そうしねえと、俺がいつまでも前に進めないからだ!!!!!!」
ビリビリ、と。
この世界の天使は肌に電撃が走ったような感覚に襲われた。
ここまで一直線で。
真っ直ぐで、必死な意志は初めて見た。
「……だから、頼む。乗り越えなきゃ、俺は舞台に上がることすらできない」
頭を下げ、絞り出す声は震えていたけれど、しっかりと芯は通っていた。
多くは聞かなかった。
だが、端々から感じられることはある。
おそらく、異常と関わっているこの少年は多くのものを抱えているのだろう。そこには目を背けたくなる困難もあることだろう。
しかし、彼は。
彼は、必死に乗り越えようとしている。その先にある何かを掴むために。
きっと、一線を超えてまで突き進むのだろう。
どういう事情があるのかは知らない。
それでも、見事なまでに一途な少年を目の当たりにして。
天使として、やるべきことなど決まっている。
「いいよ。一週間後、戦おう」
全力でぶつかり合い、真摯に受け止める。それがこの世界に生きる天使の使命だった。
「ありがとう」
どこか安心したように、レンはもう一度頭を下げた。
☾
「――というわけだ」
一度話し始めると止まらないもので、ヴィンフォースはノンストップで一通り語り終えた。
この世界にいるものが別世界のことを語られたので途中大いに混乱したが、辛うじて要点は押さえることができていた。
「……つまり、ヴィンフォースちゃんはこの世界の住人ではないってこと?」
「ざっくり言うとそれだ。……最初に言ってたはずなんだがな。こんなに話す必要あったか?」
「あ、あったよあった。あたしが納得するには具体例が必要だったんだよ」
ふうん、と相槌を打ちながら、ヴィンフォースは偉そうに組んだ脚を逆に組み直す。
「……ともかく、わたしは語り終えた。次は貴様の番だ。何者か、から包み隠さず全てぶちまけろ」
「ら、乱暴だなあ」
言いつつも、自分に拒否権がないことは承知の上である。
観念して、ナツメは自分の正体を明かした。
「うん、人間ではないんだよ。でもね、生徒会長みたく天使のような大それた存在でもない。だいたい中間あたりの存在だよ」
卑下するように言うと、ナツメの双眸が紅に染まった。どこか、八重歯が鋭く飛び出しているようにも見える。
「……へえ」
合点がいった。そんな反応だった。
ナツメは眼と歯を元に戻す。
「ね? あんまり大したことなかったでしょ」
「いいや、そうでも。貴様、かなりのやり手だろう。吸血鬼か。うん、使えそうだ」
頷き、種族名をいいながら何か思案していた。
「天使の生徒会長、と言っていたが、貴様あいつと関わりがあるのか?」
「うん。ソリ合わないけど、腐れ縁ってやつかな」
どこか遠くを見つめて、ナツメは昔を思い出しているようだった。
「ちっちゃい時からね。この世界って基本人間が中心になってるから、あたしたちは紛れて生きてかなきゃダメだったんだ。まああたしたちは特に不自由なく楽しく過ごせてきたんだけど。それでね、人間じゃない種族にはある一つの使命があるんだよ」
「ほう?」
堕天使は興味が湧いた、と言わんばかりに食いついた。この世界の法則性に関係が出てきそうな言い分である気がしたのだ。
「それは?」
問うことによって、ナツメに先を急がせた。
ナツメは一つ頷いて、しっかりと自分の役職の内容を言う。
「それは――この世界の秩序を守ること」
その瞬間。
すう、とヴィンフォースのまぶたが力をなくしたように下り、その漆黒の瞳を隠した。
「……そう、か」
(結局のところ、そうなるのか。秩序だなんだと普遍性を重んじて、正常ではない異端は許さない。それは、どこでも同じなのか)
軽い絶望を感じたが、それでもここはマシなのだろう。
曖昧ではっきりしない世界では、まだ救いようがある。今ここにイレギュラー以外のなんでもないヴィンフォースが存在できているのがその証拠だ。
だが、何もかもが完璧で完全だった場合……。
「いや、よそう」
ゆるゆると力なく首を振って、堕天使は暴走しかけた思考の手網を握る。
「……念のため聞いておくが、わたしを消そうという意思はないのだな?」
「少なくとも、あたしには絶対にないよ」
そこだけは揺るがないようで、即答だった。
そんな素直さにヴィンフォースは思わず口もとを緩めながら、
「では、次の設問へ行こう。この世界の中に人外の勢力はどれくらいいるんだ?」
「妖怪とか妖精とか、色んな人がいるんだけど……、結構ローカルで分かれてて、あんまり全体図はあたしでも掴めてないの。周辺だと十人くらい、ここ近辺はあたしと生徒会長の二人だよ」
「……ふむ」
「だから、あたしたちの所轄にいる限り襲われることはないと思うよ。……昨日は別として」
「貴様も知っていたのか……」
もはや呆れ顔であった。
協力しているなどとは思われたくないナツメは慌てて弁解を開始する。
「狩りに行くって通信が来てさ。止める暇もなく。まあ、結局ヴィンフォースちゃんを倒すなんてことは不可能だったんだけど……というかさ、そんなに強いんだったら何も心配することないと思うんだけど」
なんだか、この堕天使はさっきから石橋を叩きまくって安全ばかり確かめているような、そんな感じである。
なにか、理由でもあるのか。
疑問に思った吸血鬼は訊ねてみる。
「……他に心配なことが?」
「ああ。よくぞ聞いてくれた」
堕天使は心底深刻そうな顔をして、吸血鬼のことを見た。
強気だった堕天使がここに来て初めて弱い心を見せたような、そんな感じ。
わざと。
「実は懸念が一つ。わたしは異端者がられて天界を追放された、ということは言ったか?」
「うん。辛かったよね」
ナツメに話したヴィンフォースの経緯は、レンに話したものと少しばかり異なる。
生まれながらにして異常だった、ということは同じ。しかし、天界を出るまでの過程が違った。
レンに話したのは復讐を決意し自分から進んで出てきた、という真実を話したのに対して、
ナツメに話したのは異端は排除という迫害の果てに追放までされた、という虚実。
つまるところ、堕天使はナツメを信用していないのである。過ごした時間も少ないし、当然のことではあるのだが。
そして、その話の方が色々と都合がよかった。
「近々、わたしのいた天界から、追放だけでは満足せずにわたしの抹殺を策謀した天使どもが、侵略のために攻めてくるかもしれない」
「……えぇっ!?」
聞き捨てならないぼやきに、ナツメは目をひん剥いてヴィンフォースを見る。
「っていうことは……その、つまり、ヴィンフォースちゃん級の存在がいっぱいこの世界に……?」
想像するのもはばかられる悪夢だった。
そんなことになったなら、この世界の文明や法則はことごとく破壊され、完全と完璧、ただそれだけの場所である第二の天界ができあがるだろう。そこまでに幾許の犠牲が起こるかはわかったものではない。
神妙な顔で「そういうことになるな……」と不安を煽る表情をしたヴィンフォースは、そのまま懇願するようにナツメの方を向く。
「だが、わたしとてそんなことはさせないさ。阻止し、駆逐し、撃退する。だから、できるだけでいい。ヤツらを倒す協力をしてくれないか」
「…………、」
これから起きるであろう波乱を前に、状況をイマイチ整理できていないのか、ナツメはこの申し出には沈黙で返した。
ふう、とため息をついて、ヴィンフォースは忘れてくれ、と手を振る。
「別に、できないならいい。わたし一人でできることをしよう。しかし、もし協力してくれるならば、勝率は格段に上がるだろうことは確実だ」
ここまで煽り立てて、瞬時な反応がないところを確認すると、ヴィンフォースは「話はここまでだ。協力は得られなかったのは残念だが、わたしはわたしで作戦を練る事としよう」なんて突き放すようなことを言い、席を立ち上がり教室をあとにしようとした。
「待って、待って!!」
片足が教室から外に出たあたりで、必死な声を聞くとヴィンフォースは動きを止める。
「……なんだ?」
「協力します! というかさせてください!」
「……わたしの提案を黙殺したんじゃなかったのか?」
「違うよ! そもそもヴィンフォースちゃん級の存在が来るんなら対策のしようがないし選択の余地はなかったし。それなら少しでも可能性のあるヴィンフォースちゃんにつくのが一番でしょ。さっきの空白は少し現実感がなさすぎて途方に暮れてただけだから!」
「……そうか。では、話し合いの末然るべき対応を検討しよう。……が、今日は頃合いだ」
橙の空はもう影を潜め、とっくに闇が呑み込んだ外の映った窓を眺めながらヴィンフォースは今日という日を締めくくる。
「明日から放課後のこの時間、未知の脅威対策会議をしようではないか。それでいいか?」
「う、うん」
近々という曖昧な予想しがたい時間を設定しておきながら取る行動はかなり悠長でルーズという、一種の矛盾というべきこの言動にナツメも気づいていないわけではなかったが、この計り知れない堕天使のことだ、迫り来る日時などとっくのとうに突き止めてしまっているのだろう、と無理矢理に納得した。
堕天使は横目にナツメが首肯したのを確認してから、
「……ではな。また明日。一緒に頑張ろうじゃあないか」
といって、礼儀正しくも教室から出た時に後ろ手でピシャリと閉め切ると、廊下を歩いていった。
その顔には、
人目にはそうとは気づかないくらい薄らと。
だがたたえるのは微笑みではなかった。
あまりにも邪悪がすぎて、それでいて美しさを醸し出す、そんな笑みを貼り付けていた。