4-7.懸念
牙琉レンはとぼとぼと帰路についていた。
彼が思うのはただ一つ。
なんでシャンプーを買って帰るだけの道中が、ここまで辛くなっているのか。
……いや、それは単なる不満か。
それも彼が思っていることに変わりはないが、そんな能天気な考え方ではなく、深刻に考えていることもある。
それはもちろん、先ほどのアコンの話に直結することだ。
何事もサラリと言ってのけるので、記憶する前に滑りすぎて行ってしまいそうになるが、アコンはかなりの情報を、レンにもたらした。
まず初め――これが一番懸念すべきことなのだろう。
『九位、八位、六位もこの世界に来てるよ』
軽く放った彼女ではあるが、この言葉はつまり――今この世界には四人の序列十位が存在している、という解釈で概ね間違っていないだろう。
「意味わからねえ……マラリス以上が四人って、考えられねえよ……」
無論、その一人と接触してまだ生き長らえているレンを見てもわかるように、彼らに不意打ちで決着をつけようという意思は感じられない。
アコン。
彼女からは、敵意すら感じることができなかったが――。
「他の三人がどうなのか、それは誰も保証できてない」
もしかすると、レンがアコンと会話をして時間を稼いでいる間に、ヴィンフォースが三人から奇襲を受けているのではないか……?
三人程度では引けを取らないだろうが、思い出してみると、ヴィンフォースは先ほど寝ていた。
寝首をかかれるなら、力の差など関係ないだろう。
レンは今にでも走り出そうとしたが、それをするのは躊躇われた。
どちらにせよ、アコンと話している最中に行われたのだから、奇襲は終わっている可能性が高い。成功しているかもしれないし失敗しているのかもしれない。
レンとしては失敗の方に懸けたいところだが――楽観視はできまい。
とはいえ、天使の回復力から見て、ワンパンということもありえない。『相違』という反則技を授かったレンではあるが、それでも一撃で仕留められることはないだろう。
つまり、その後に戦闘になっているはずだ。
そこまで考えて、レンはため息をついた。
安堵の色が濃いものだ。
鋭敏になった聴覚を極限まで澄ませても、何か衝突の音は聞こえてこない。
どうやら、レンの考える最悪の事態は、起こってすらいないようだった。
と、いうか、衝突が行われていたら是非もなく周囲に力の波動が撒き散らされているはずである。
「ひとまずは、安心して、いいんだよな……?」
そんな懸念を抱きながら、レンは心なしか早足になって自宅を目指した。
彼の家は何の変化もなく、もちろん崩れ落ちていることもなく、今もなお健在だった――人の営みが感じられた。
ひと安心して、脱力し、たどり着いた家の中に入る――前に。
立ち止まった。
早足で家に一直線だった彼の足は、あと十歩というところではたと止まってしまった。
買い忘れただとか、置き忘れただとか、そんな可愛らしい理由からではない。彼の手には今もシャンプーの入ったビニール袋が握られている。
となれば立ち止まったのは外的な理由しかない。
正面――十歩ほどのところ。
ちょうどレンの自宅の目の前で――その様子を窺う影があった。
目を凝らせば、二十代半ばの好青年だった。凛々しい涼し気な顔と、澄ましたような真顔。どこか取っ付きにくさを感じさせる風貌である。何というのか、一匹狼なイメージをこれでもかと連想させる印象だ。
それで、その男が牙琉家を凝視している。
「……んん?」
そういえば、俺には可愛いかわからないが、とにかく女の妹がいるのだったか、というか妹なら女なのは当然か――などとレンは家族構成を確認した。
その上で、目の前の光景。
……怪しい。
怪しいと思い始めたら青年の何もかもが怪しく思えてきた。
レンは悩ましげに呆然と突っ立っていた。
最近はそういう、性犯罪やストーカーなども増えている、とレンは関連のある事柄を思い出す。
さて、どうする。
ルンに言われるがまま出てきたので、残念ながらスマートフォンは家に置いてきてしまっている。即座に一一〇に通報することはできない。したくても、あの男の前を通って、よりにもよってガン見されている建物の中に、入らなければならない。
……なんとなく、生理的にレンは嫌だった。
それならば、どうするべきなのか――レンは腕を組み、うーむ、と唸り声を上げる。
――と、そんな中二病ならではの妄想タイムはさておき。
レンはスタスタと、軽い足取りでその青年へと近づいていく。
用心は欠かさない。『偽物』によりレンの完全な幻覚を、向かわせる。その上で、自分の気配をあやふやに偽って誤魔化す。
そうして、幻覚からそれがまさしく本物であるかのように、発言させた。
「……で、どういう了見で人の家をまじまじと観察してるんだ、序列十位」
と。
サラリと言いのけた。
さながら、先ほどのアコンの真似事みたく、大事なことを大事でないかのように。
「……む。それは余のことか?」
それが自分に向けられたものだとは思わなかったらしく、かなり遅れて、やっとレンに振り返った。
「それ以外に誰がいるんだよ。お前の後ろに誰かいるか?」
「確かに、その通りであるな。これは失敬」
青年は後ろを振り返って確認すると、清々しい謝罪をし、軽く頭を垂れた。
もっとも、その対象はレンではなく幻覚なので、本当の位置にいるレンには、その光景がなんとも滑稽なものに映った。
そしてこの事実は、『偽物』による幻影が、序列十位にも通じるということを示唆していた。とはいえ、これは初撃を放てるだけのことであって、一度攻撃したら居場所はバレてしまうのだろうが。
いや、幾重にも重ねがけしたならあるいは……? とレンは頭の中でシミュレーションを試行錯誤しながら、幻影に問わせる。
「……で。何か用なのか。俺はさっき、アコンに会ったばかりなんだが」
「それはそうだろうな。そういう手筈だった。実をいえば、余は此度、牙琉レン――うぬに会うつもりは毛頭なかった。それにも重ねて謝罪をせねばならんな。余はただ、視察をしに来ただけだ。なに、すぐに去るさ」
「はっ、そんな言い分が信じられるかよ。俺はただでさえナーバスになってるんだ、視察といっても、敵情のじゃないのかよ」
「ふむ。そうだな、敵情視察――場合によっては、その表現が正しいのかもしれん。だが安心しろ――余も一応はアコンと同じ考えだ。殴り込みなどという無粋な真似はせんよ」
今さっきの状況を見る限り、それは信じることが難しいことなのだが――というか、妄想とはいえ、実際本当に不審者のように見えなくもなかったのだが、それは黙っておいた。
……天界のそれだとわかるような完全性を持っていなかったなら、即通報を実行していたところだった。
その言いたい衝動を押し殺したのをどう勘違いしたのか、青年は「おっと」と思い出したように居住まいを正す。
「紹介が遅れたな――そもそも、この予定は余にはなかったものだったが。しかしそちらが牙琉レンという名前だと知っているのに名乗らないとは礼儀がなっていないだろう」
「……おい待て。たしか、アコンは俺の名前を知らなかったぞ?」
それに、レンという名前の方しか教えていない。天界の認識がそうなのだとすると、青年のこの言い草は気にかかった。
「なに、どうということはない。アコンから聞いたまでであるし、そこの表札にうぬの苗字が書いてある」
「……まあそう言ってしまえばそうなんだが」
「どちらにせよ、もうここに長居するわけにもいくまい。単純明快に済ませよう。余はソファイア=ノーム。序列は六位である」
「……マジかよ」
九、八、七、六と言われていた四人のうちの、最上級がこの目の前の青年らしい。
一筋縄では行かない、ということは否が応でも理解ができた。
となると、レンと面識がないのは九位と八位に絞られる。
「……いや、いくらなんでも四人は多いな」
「然り。余もそれは思ったのである。しかしまあ、ちょうどいいと言えばちょうど良かったのかも知れぬ」
ふん、と鼻で息を吐くと、ソファイアはくるりと回れ右をした。
「それでは、余はお暇させてもらう。さらばだ。……ああ、そうそう」
今にも闇に紛れて消えてしまいそうなところで、ソファイアは首だけでレンを振り返った。
「これはアコンからも聞いたのかもしれないが、念の為。うぬが戦闘を心配する必要はない。不意打ちなどで勝負を決するなどという卑怯な行為はせん。それに、今はまだ――準備期間だ。何の気負いもせず、今まで通りに日々を過ごすがいい」
そう言って。
ソファイアはその場を後にしたのだった。




