4-8.帰宅
「……なんか疲れたな。おつかいってこんなに疲れるものだったか?」
ソファイアが去ったあと。
疲労によるため息を深く吐き出して、レンは中に入った。万全を期して、『偽物』は解かずに、だ。
その心がけは大変素晴らしいのだが、それならどうして買い物に行く時もそれができなかったのか。おそらくアコンにも、『偽物』は効くはずだから、あんな切羽詰まった空気にならなくて済んだだろう。余裕を持って、対話することができただろう。
もっとも、全てが結果論だが。
さすがに今日はないだろう、というレンの見積もりの甘さの時点で、もう結果は分かっていた。
「けど……さすがに詰め込みすぎじゃないかこれ。コアのやつが来てから半日と経たずに序列十位が四人って」
しかもその内二人は交戦意欲がないと来た。
「どういうつもりなんだろうな、本当」
これは警戒すべきなのか。警戒するに越したことはないが、もし、もしも彼らの言ってることが本気だとしたら……?
「まあ、それこそヴィンに一蹴だろうな」
ヴィンフォースに追従することを行動理念とするレンには関係のない話だった。あのヴィンフォースが、そんな甘い誘いを一刀両断しないわけがない。むしろ一層火がついたようにやる気を出し始めるかもしれない。
「まあ、あいつに話すとするなら、さりげなくが吉だろうな……下手にやったら暴走しかねない」
一人で呟きながらレンは靴を脱ぎ、自宅へ上がる。
手洗いに洗面所へ向かう間に、ふとリビングを覗いてみるが、
「……あれ?」
誰もいなかった。
本来ならばこの状況、どこへ行ったのか、と慌ててもおかしくないところなのだが、レンはもうちょっとやそっとじゃ驚かないハートをさっき獲得していた。序列十位と立て続けに会えば、誰だってこうなるだろう。
あくまで冷静に、感覚を研ぎ澄ませる。
「……やっぱり上か」
ヴィンフォースとルンのものであろう気配が階上から感じ取れた。
異常がないことに一応安堵しつつ、レンは手を洗うと、買ってきたシャンプーを取り替え、今度は自分も一風呂浴びようと、着替えを部屋に取りに行く。
ついでに、自分の部屋にいるらしいヴィンフォースと、さっきの話をするか――などと考えながら、レンは部屋に入る。
睡眠中だった。
仮死状態さながらに安眠中だった。
「って。なんで人のベッドを自分のもののように扱ってやがるんだこいつは」
死んでいるように眠っているヴィンフォースを横目に恨めしく睨みながら、レンは着替えを取り出す。
どうやら話はできそうもない。
仕方がない、明日にでも話すか、と考えて(先ほど先送りは良くないと肌で感じたレンだが、さすがに、さすがに今日はもう事は起きないと確信していた――したかった)、レンは一人風呂に向かった。
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「……ん――うーん」
悪夢から覚めた時のように苦しげな表情で、この世界の天使――加玖ナルミは目を覚ました。
ぱちくりと瞬きを何度かして、周りの風景を確認する――ここはどこだ。
と、考える前に、それが見慣れた景色なのだと理解した。
ここはナルミの暮らしている家の寝室だ。
しかし、だからこそ、ナルミの脳内は疑問符で埋め尽くされる。
「あれ……私、外にいたような……どっかから記憶がないな」
果たして、テレポートでも暴発してしまったのだろうか。それなら、記憶が途切れているのも、寝室にいることにも説明がつくのだが。
だが、ナルミはテレポートが使えない。というか、使える者すら見たことがない。
ということはどういうことか。
考える前に答えはあった。
「……ふう、良かった。目、覚ましたんだ」
寝室の扉から、盆に温かい飲み物を載せた吸血鬼――新谷ナツメが入ってきたのである。
夜目を利かすためか(部屋に電気はついていなかった)瞳は吸血鬼らしく真紅に染まっている。
ナルミが起きていることを確認すると、その瞳を通常のものにし、明かりをつけた。
「うん。今起きたところだけれど……えっと。ねえ、ナツメちゃん。私に状況を説明してくれませんかね」
「ああ、うん。そうだね――気を失う前から意識は危うそうだったけど、どこまで覚えてる?」
「覚えてる……って、言われると……」
ナルミは自分の記憶を呼び起こす。そう、文化祭当日に行われた魔物の討伐が、あろうことか静観に徹していたヴィンフォースの独壇場で前例にない早さで幕を閉じ、とにかく厄介事が終わったので祝勝会をしようと話になり、ささやかなお祝いをした、そのあとの帰り道――
「で、なんだかとても気持ちが悪くなったことは覚えてるけど、あまりにも気持ち悪くてそのあたりからの記憶は曖昧になってるや」
「気持ち悪くなったのはしょうがないよ。あんな環境にいたら、感受性の高いナルミちゃんは――」
「あっはっは。早食いと食べ過ぎって掛け算しちゃダメだよね、おかげで極限まで吐き気が止まらなかったよ」
空白の時間にあったことを説明しているはずのナツメが、ポカン、と目を丸めた。
「えっと……あれ、気分悪そうにしてたのって、食べ物のせい?」
「うん。というか他に理由ある?」
ルリとリルの放つ、尋常でないオーラに当てられてのことだと早合点してしまったナツメは、再びキョトンとしてしまった。
と、いうことは、あのシリアスな雰囲気はナツメが勝手に感じていたもので――結局的にはシリアスな雰囲気になったのだが、ナルミにとっては自業自得で苦しんでいただけ、ということか。
何やっているんだ、この天使は。
ナツメは今まで心配げに穏やかだった眼差しを、いくらか鋭くした。
「はあ……心配したあたしの気持ちを返して」
「え、なんでそんなに怒ってるの、ナツメちゃん」
「知らない。結構緊迫した空気だったから、あたしも頑張ったのに。路上に捨ておいてくればよかったな」
「なになに、私の何がそんなに気に障ったのか知れないけれど、サラッとそんな怖いこと言わないで!?」
ナルミはガバッと起き上がり、今にも襲いかかって来そうなナツメから距離を取るべく、部屋の隅に後じさりした。
どこか弛緩してしまった空気。
それに怒る気も失せたナツメは、「はぁ〜」とガス抜きをするように息をつき、徒労感を滲ませた。
「どちらにしろ、重要なシーンにあたしは遭遇しちゃったからね。仕方ないから話すよ――ナルミちゃんの空白の時間にあったことを」
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「……そういや」
髪と身体を洗い終え、湯船に浸かって今日一日の疲労を癒していると、レンはふと考えた。
「俺が使える魔術は『フライ』、『エア』、『偽物』、あと有効なのか判別しがたい『相違』の、四つしかないんだよな。複合が二つに増えたのは僥倖だけど、果たして本当に歯が立つのか?」
思い出してみれば、『エア』も複合ではあるものの、マラリス戦のために仕込まれたものの、実際有効打になったことはない。
序列十位に、起源より一段階下の複合では、手も足も出ないのではないだろうか。
アコンやソファイアとの遭遇で、レンはそんな不安感を抱き始めていた。
あの余裕綽々の態度は、レン一人ではどうにもできないことがわかっているがゆえのことなのでは?
「って考えていくと、際限なく自信が崩れ去って行くな……さらなる魔術を、と言いたいところだが、きっとこの場合は、数少ない技を極めていくのが筋だろうな」
なんてブツブツと呟きながら、中二病は色々と実験してみることにした。
まずは『フライ』の対象変更。
なんだかんだ、一度も試みたことがないことだった。が、さすがは簡潔といったところか、案外容易に思い通りになった。
自分にかかっていた飛ぶ、あるいは浮くという現象を、自分の浸かっている湯に向ける――すると、湯船の形のまま、水滴になることなく浮遊した。
「おっと、予想外」
てっきり、諸々の法則によって無重力状態でのように、球体の水の姿になると思ったのだが、まさかのそのままだった。
何もなくなった湯船では寒いので、半分ほどを『フライ』を解除して元通りにしてから、次の実験へと移る。
演出も兼ねて、レンがその湯の塊に手を差し出し、ぐっと拳を握ると。
ブワァ……と白い煙が浴室一面に広がった。
「なるほど……さすがは複合、使い方が多様だな」
今のは『エア』による現象である。
言うまでもないことだが、気体状態の水は空気である。
そして『エア』は空気という概念を使うことができる魔術だ。
それなら、もとは空気と言っても差し支えない水の液体でも、操れるのではないかと考えたのだ。
視界が白しかない浴室の中、レンが拳を緩めて開くと、白い煙は収束し、先ほどと同様の水の塊となった。
パチン、とレンが指を鳴らすと、その水も浴槽に戻る。
……ちなみに、レンのモーションは、魔術行使には全然関係がない。あくまで魔術を使うというポーズで、それっぽく中二病のようにやっているだけだ。
というか、中二病そのものなのだが。
「……ふむ、概念から抽出できるギリギリまで攻めれば、強力なのが引き出せるかもしれないな」
『偽物』に関しては無限大の可能性があるだろう。何せ、本物ではない全てという概念なのだから。
そのバリエーションを増やし、威力の増量、順列組み合わせ、できる限りのことを尽くせば、あるいは匹敵ができるかもしれない。
そうと決まれば、試行錯誤を繰り返してみるか――とレンが決心したところで。
ガチャリ、と唐突に扉が開かれ、誰かが中に入ってきた。
ルンはさっき入ったばかりだから、消去法で答えにはたどり着ける。
その人物はヴィンフォースだった。
「……あ」
堕天使はレンに気づくと、動きを止める。
「……いや、何この雰囲気。俗な展開のラッキースケベみたいになっているが、お前が何の確認もなしに入ってきたのが完全に悪いから、暴力はなしな」
レンがここからの動きを予測して、先を制した。
もっともヴィンフォースが女の子らしく顔を真っ赤にして恥ずかしがり、甲高い悲鳴を上げ、手もとにあった桶をレンにぶん投げる、なんてことはあるはずもなかった。……そんなことがあれば、ヴィンフォースの尊厳など無に帰すだろう。
実際、堕天使は何の恥じらいもなく腕を組んで、鼻で笑い飛ばした。
「はん。貴様は面白げがないな。この曲線美の肉体、それも裸体を見て、何も感じることがないのか」
「自分で言うと魅力が半減するぞ……」
というか、先ほどからヴィンフォースの裸体は、彼女を加護するような光の反射や湯気が組み合わさって、よくわからなくなっていた。
さすがはご都合主義である。
「……まあいい。わたしは普通に湯を浴びに来ただけだ。気にするな」
「そうかよ。じゃあ俺は上がるぞ」
対してやはりレンも恥じらいなど何もなく、男性としては失格の非常に面白みのない反応ではあるが、これはこれでレンらしさが強調されていた。
そうして浴室を出て、着替えて部屋に戻ったところで、そういえば、と気づいた。
「……あ、どうせなら風呂で話せば良かったな」
それも今さらだった。
まあいい、明日にするか――と結論を下したレンは、さっきまでヴィンフォースに独占されていたベッドを取り返して、一人悠々自適に、眠りについたのだった。




