第一章⑨
「早速だが、仕事の話をしよう。わが社の明日からのスケジュールだが、まず朝六時に空港へ向かえ。大事な取引がある。そして……」
と、頭を上げる前に声をかけられた。
「ちょっと、あのえっと……くろさきさん」
確かリリが言っていた名前は玄崎さんだったよね。
すると、その言葉に反応し、そして激高した。
「私の名前はくろざきだ! ざき、二度と間違えるな」
右手で制服のネクタイを引っ張られた。本日、三度目なんですけど。そろそろ死ぬよ、僕。
「す、すみません……」
リリとは違いそっと掴んだネクタイを離してくれえた。
くろざきなの? リリは完全にくろさきって呼んでましたけど。
「お嬢だけだ。くろさきと呼んでいいのは。それに黒糖の黒ではない。玄人の玄だ」
いや、黒糖って。甘党なの? 色とかでいいだろ。余計わかりにくいよ。
そんな理不尽な初見殺し止めてくれ。僕と同じ立場なら、誰もがくろさきって思うよ。だって、主人がそう呼んでんだもん。
僕は気を取り直して、問いかける。
「あの、玄崎さん……というか……さっきの仕事というのは、なんなのでしょうか?」
しっかりと濁点を忘れずに言う。すると、この世が静止したかのように玄崎さんは止まった。
「貴様……今朝の言葉を忘れたのか?」
瞳孔の開いた目。切れる一歩手前だ。声に殺意を感じる。
「いえ、あのそう言う訳じゃないんですけど、仕事というのは何か法に触れるようなことなんでしょうか?」
これはとりあえず話に乗っておかなくては殺されそうな勢いだ。慌てて半分容認したような返事をしてしまう。
何でもする。取引……麻薬や人身売買なんてなってきたらシャレになんないよ。何でもすると言ったものの、未だにこの人たちの素性がわかんないし。
「何を想像している」
寡黙に想像を巡らせていると、玄崎さんは考えを見透かしたように眉をしかめる。
「あ、いえなんでもありません」
なにかさらに怒らせそうな感じがしたので口にするのを止めた。
お互いが黙り、二人の間に沈黙が生まれると玄崎さん一息ついて言った。
「八五〇万円。この数字がなんだかわかるか?」
「え?」
えっと、なんだろう。八五〇万円あれば、コーラがえっと……七万本近く買える。
普通の男子高校生には到底想像できない額に頭がついていかない。単純に一万円札が八五〇枚なのだが、現物が手元にないとやはり現実的な理解に苦しむ。
「えっと……それは」
導き出した答えを伝えようとすると、玄崎さんは僕の言葉の上からかぶせるように言った。
「今日、貴様が出した、私たちへの損害だ。車の修理費、入院費。正直そちらはどうでもいい。こちらも加害者の立場にあるのだしな。ただ取引が破棄になった分もある」
一瞬、身体の芯から凍りついた感覚に陥った。僕は冗談めいて軽々しく言おうとした言葉に反省と罪悪感が生まれた。
は、八五〇万円? ドラマとかで百万円の借金が人生を狂わせたりしているのに……え?
八五〇万円というのが、自分の出した被害総額だと知り、悶絶する。言葉も出ない。
今朝、事故の後、僕は何事もなかったかのように学校へ行き半日とはいえ普通の学校生活を過ごしていたが、今思えば、この人が超人なだけで、人が死んでもおかしくないほどの事故だったことを忘れていた。ことの重大さを今になって実感する。
「貴様にはこれを払ってもらう」
「え……そ、そんな大金……持ってないです」
八五〇万円など一端の高校生が貯金で持っている額ではない。むしろ、持っていてはいけない額だとも思う。
不安、焦燥、恐怖の三つが入り混じった何とも言えない奇妙で吐き気を催す感覚。寒気と悪寒で身体が震えてしまっている。
僕の深刻的な状態を見た玄崎さんは呆れた顔をして言う。落ち着いた声で。
「そんなことはこちら側としてもわかっている。私もいち高校生にこの金額を払えるなどとは思っていない」
その言葉でさらに不安になる。
ま、まさか、親まで取り立てる気ですか。家を担保にかけるとか。勘弁してください。
表情と身体から音を立てるように血の気が引いていくのが自分でもわかる。玄崎さんは自分の言葉でいちいち顔色が悪くなる僕を見て、回りくどい話し方をやめた。
「はぁ、まあいい。貴様はリリアンヌというブランドメーカーを知っているか?」
脈絡のない話に一瞬、思考が停止する。脱線どころか急に違う路線に移動した感じ。でもその質問には答えられる。
「それくらい知っていますよ。今世間じゃ話題もちきりですし。フランス発祥のブランドですよね。日本でも先月、解禁されて大人気なんですよね」
当然知っている。というより今朝知ったんだけどね。杏奈がテレビで見ていてよかった。
「そこまで知っているなら話が早い。お嬢はそのブランドのデザイナー兼社長だ」
「ふーん、だからお嬢とかって、言っていたのか……社長なんだ……しゃちょう!!??」
「あぁ、社長だ」
「社長の娘じゃなくて?」
「あぁ、社長だ」
その事実に驚きを隠せない。僕にとってはLが死んだときくらいの衝撃だ。
どっからどう見ても、十代の女の子だったぞ。それが、世界的に有名なブランドの社長!?
「では、本題に戻そう。貴様には明日からお嬢の元で働いてもらう。もちろんこちらは雇う側だ、お金を払う。だが、その金は全て借金返済のためにあてられる。額はその働きの貢献度によって、お嬢が一日の額を決める」
玄崎さんは細かいことを省き、重要な部分だけを伝えた。
「つまり、借金の分を働いて返せってことですね」
「働いた分の給与をまとめて月末に私たちが払う。貴様はその金で借金を返済していくのだ」
「それって早い話ただ働きじゃあ……」
「何を言っている。こちらは働いた分の金額は払うんだ。そして、貴様はその額を借金返済のために払う。貴様にとっても悪い話ではないだろう」
「いや、確かに自分でも返済できる手段ではあるけども……」
「それに貴様には拒否権などない。こちらは依頼しているのではない。命令しているのだ。受けるのは得策だと思うがな」
「…………」
おそらく仕事というのは本来、玄崎さん自身がやるはずだった仕事だというのは容易に想像ができた。 そして、僕が起こしてしまった事故によって、その仕事ができなくなってしまったので、代わりに僕を働かせようとしているのだろう。
「ならば他の返済方法を……」
玄崎さんは返事のない僕に、小さく下唇を噛んで別の案を出そうとした。
「やります」
「なに?」
「その仕事やります。いえ、やらせてください」
玄崎さんの失望していた瞳が急に明るくなってきた。
すぐに返事をしなかったのは、正直完全には決断できなかったからだ。事故に対しての罪の意識はある。それに自分のせいでここまで怪我をさせた人物が目の前にいれば、簡単にノーとは言えないだろう。日本人特有の反応だと言われても仕方がない。
「よし、それなら話が早い。まず貴様のタブレットを出せ」
「はい?」
玄崎さんは先ほどまで使用していたタブレットを目の前に置くと僕に手を差しのべる。
タブレット? それって画面付きの機械みたいなやつですよね。そんな身分証明証出せみたいな感覚で言われても、普通の高校生は持ってないです……普通持ってないよね。
戸惑いを隠せずそっと目をそらす。
「貴様、まさか持っていないのか?」
目を細めて言う言葉に冷気を感じる。
「あの、見たことはあるんですけど、その……結構高価な品じゃないですか」
両手を大きく広げ、身振り手振りで必死の言い訳をする。自分を貧乏だと主張するのが言い訳とか悲しすぎる。
「貴様、今までどうやって仕事をしてきた!」
「いえ、仕事してません。ただの高校生です」
「む、そうだったな。まぁいい、その件はこちらで手配しておく」
玄崎さんの言葉はすべて聞いているつもりだが、未だに話の全貌が見えてこない。仕事をするとは言ったものの、ブランド名を聞く限り、かなり飛躍した話の気がするんだけれど。
仕事という話の中で、最も重要なことを聞いていなかった。
「あの、僕は何をすればいいんでしょうか」
玄崎さんは自分のタブレット画面をタッチすると、流れるように言った。
「貴様にやってもらうのはお嬢の付き人だ。私がやっていたことをやってほしい。今お嬢は一人で行動している。臨時のボディガードを付けてな」
「ボディガード付けるって、そこまでの人なんですか?」
「ボディガードと言っても海外に行くときにだけの臨時だ。それに小さい会社の社長じゃあないんだぞ。
お嬢が右を向いて行動すれば、大きいときは数千万円の金が動くこともある。それほどまでに影響力のあるお方だ」
初めて会ったときから生意気で節度のない女だと思ったけれど、そこまで凄い人だったとは。
リリはここへ来る間、ずっとタブレットを操作していた。あれは仕事をしていたのだろうか。それを僕はゲームしているなんて、思ってしまっていた。
「今、お嬢は海外で仕事をされている」
「え、今さっきまで一緒にいましたけど」
「あぁ、貴様をここに連れてくるために海外便を一便遅らせたんだ」
世界ブランドの社長ともなると飛行機一便遅らせるとか、そんな簡単にできるんですか。
「それで、どうすれば」
「お嬢は明日の午前六時三〇分に日本へ到着する。六時には空港についておけ」
「六時!? どうやって、早すぎますよ」
「五時にはじいやが、貴様の自宅まで迎えに行く」
「五時…………」
まるで家で害虫を見たかのような、ぞっとした表情をしていたに違いない。朝には弱いんだよ。老人じゃああるまいし。
そんな表情も無視して玄崎さんは話を進める。
「お嬢は七時に製糸工場での取引があるから、初日は見ることが仕事だ。貴様は一日お嬢に同行しろ。それが終わればお嬢も学校へ向かうようだ」
「それが終われば学校に向かえばいいんですね……っていうか学生!?」
さっきリリアンヌの社長って言ってましたよね。その社長が現役高校生なんですか!?
「今どき高校生社長など珍しくもない。誰でも会社を設立できる時代だ」
いや、普通に言ってるけど、それでも限度ってものがあるでしょ。どう考えても世界的有名な会社の女子高生社長は珍しいわ!
「話を戻すぞ。十二時半からイノンモールで会議がある。お嬢と一緒に参加しろ。十一時半には学校にじいやを向かわせる」
玄崎さんは、僕の驚きなど無視して話を進めていく。
「え、あの学校が……」
「腹痛で早退しろ」
「ふ、腹痛ってなんかうんこ我慢してるみたいじゃないですか」
「そんなものなんでもいい。頭痛でも、吐き気でも構わん。とにかく、十一時半には校門で待っていろ。基本的にお嬢と行動するときは最低でも二〇分は先の行動をするんだ」
「は、はい」
説得力もない強引な言葉だが、玄崎さんの熱意が伝わってくる。いつの間にか肯定の意を示してしまっている。
「本来なら、付き添って教えたいところだが、何分この姿だ。直接手助けできることはない。だから、なにかあればすぐ私に連絡しろ。そして、仕事終わりには必ず報告を入れろ。メールでも電話でも構わない」
「は、はい。わかりました」
玄崎さんそこで初めて寂しいような、悲しいような表情を見せた。僕と違い真摯に仕事と向き合っていたのだろう。本来なら人に任せるには不安なんじゃあないだろうか。
初めは乗り気ではなかったこの話も真面目に受けることにした。僕の責任でこうなってしまったのだ。責任を取るくらいはやってやる。
玄崎さんはこめかみを一度触ると元の表情へと戻る。
「手配したタブレットと電話に今後の日程と仕事内容を送っておくから、必ず確認しておけ」
手配ってそんなものすぐにできるんだろうか。




