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「話聞いてました?」

 


「ああ……大丈夫、……ないように言ってるから……」



 薄く目を開くと、カーテンの隙間から零れる光が眩しかった。

 ぼんやりとした意識の中、ここは自分の部屋ではないな、と考える。


 ベッドよりも遥かによく沈むソファに横たわっていることを自覚し、昨夜は映画観賞をしていたのだと思い出した。

 先輩がギャーギャー騒いでいたのは何となく覚えている。ただ、途中から記憶がさっぱりだ。


 恐らくあのまま寝てしまったんだろう。

 だけれど、自分の体にかけられたブランケットには首を捻った。自分でかけた記憶はないし、そもそも私のものではない。



「そっちは、……ちゃんと……てよ」



 上半身を軽く起こし、先程から断片的に聞こえる声の方を窺う。

 言うまでもなく先輩の声だった。どうやらこんな朝早くから、誰かと電話しているようだ。


 しばらくして、声が止む。

 静かに彼の部屋のドアが開いて、顔を上げた彼が私を見て固まった。



「おはようございます。早いですね」



 壁掛け時計の短針は五を指している。


 彼の反応に訝しみながらも、私は口を開いた。



「……ああ、おはよう」



 どうもぎこちのない挨拶だ。

 部屋から出て早々、私が起きていて驚いたのだろうか。それにしては少々怯えすぎな気もする。



「華、その……」


「はい」



 先輩は何やら、言い淀んでいた。彼らしくないな、と思いながらも続きを待つ。



「……聞いたか?」


「何をですか?」


「電話を」



 よく分からないけれど、ともかく聞かれたくない内容を話していたようだ。

 彼が電話だなんて珍しいとは思ったものの、流石の私だって努めて盗み聞きしてやろうと思うほど性根が腐っているわけではない。


 心外だ、と胸の内だけに留めて、私は首を振る。



「起きてすぐに部屋から先輩出てきたので、何も聞いてないです」


「そうか」



 私の答えに、彼はあからさまに安堵したようだった。


 何とも言えない沈黙が流れる。

 私はブランケットを掴んで掲げ、彼に視線を投げた。



「これ、ありがとうございます」


「ああ……」


「今日もジョギング行くんですか?」


「そうだな」



 むしろ、そうして欲しい。

 時折先輩は物凄く難しい顔をする。そうなるのは決まって私が踏み込めない事情が絡んでいる時で、今だってそうだ。



「朝ご飯作っておきますね」



 そこまでして守りたいものは、一体何なのだろう。





 ***





「あはは、それは華が悪いわねえ」



 陽気な母の声が耳朶を打つ。

 私は部屋の喚起をしながら、反射的に抗議した。



「何で私!? だって、コンビニ行こうとしただけだよ!」



 一週間に一度、電話をするのが私たちのルールだった。日曜日の穏やかな午前。母にとっては、土曜日の夜。


 先輩は、いつもは起きてすぐにジョギングへ出かけて、比較的短い時間で済ませて帰ってくる。でも日曜日だけは気を遣ってくれているのか、朝食をとってから出かけて、少し長めに走っているようだ。


 連休が明け、五月も半ばに差し掛かった今日この頃、私はアパートの掃除に訪れていた。

 一緒に行くと駄々をこねる先輩を振りきり、一人で清々しく空気を吸い込んでいるところである。


 母に話しているのは、連休中のあれこれだった。

 険悪ムード、とまではいかないけれども、若干喧嘩のようなものをしてしまったこと、そして「家出か」と引きとめられたこと。



「分かってないわねえ、華は」



 どこか愉しげともとれる声色の母に、思わずむっとする。

 私だけが悪いと言われるのも癪だ。そもそも、先輩のために色々提案しただけなのに。



「一太くんが怒ったのは、女の子が夜に一人で出歩くのが危ないからでしょ」



 予想外の回答だった。

 咄嗟に返す言葉が見つからず、目を瞬かせる。



「家出なんてたかが知れてるしねぇ。まあ、仲良くしてるみたいで安心したわ」


「仲良いわけでは……」



 ないと思うんだけど。

 しかし母が嬉しそうなので、断言するのは憚られた。


 代わりに別の話を始めることにする。



「ねえ、お母さんの部屋にある洋書、借りてもいい?」


「いいけど……何かに使うの?」


「ちょっと英語の勉強しようかと思って」



 また先輩の気が向いたら、洋画を観ることになるかもしれない。

 私自身も英語が嫌いじゃないし、もっと分かるようになりたいと思っているのは確かだ。


 ちょうど母の部屋の整理整頓もしようといったところだった。

 本棚にびっしりと詰め込まれている本たちを見回し、少々げんなりする。


 デスク横の小さい棚の上、一冊の本を見つけて手に取った。

 ブックカバーは他のものよりぼろぼろで、頻繁にページを捲られていたのが想像できる。でもそれは決して、粗雑な扱いをされていたわけではないのが分かった。



「……『lonely lovers』?」



 恋愛小説だろうか。

 タイトルを読み上げると、通話口越しに母が反応した。



「ああ――それね、すごく素敵だから読んでみるといいわ。あまり有名じゃないけれど、私はそれが一番好きなの」



 懐かしむように、慈しむように。しかしどこかあどけなく、母は告げる。


 きっと、何か思い出のある本なのだろう。

 表紙を優しく指先で撫でながら、私は頷いた。



「……ねえ、お母さん」


「うん?」


「お母さんは、知ってるの?」



 母が彼を当然のように「一太くん」と呼ぶことに、時々どうしようもなく違和感を覚えることがある。

 彼の本質を分かりたいと思うのは、ただの好奇心、興味本位なはずだ。彼は絶対にそれを許さないし、許されるだけの要素が私にはないんだろう。



「先輩のこと――『一太くん』のこと、色々、知ってるの?」



 聞いて何になるのか、それは私にも分からない。

 ただなんとなく、母が知らないのなら、私も割り切れそうな気がしたのだ。



「そうね」



 明快で、簡単で、正直な三音。



「知ってるわ。……華は、知りたいと思う?」



 知りたいか、知りたくないか。端的に表すのなら、知りたい、に分類されるんだろうけれど。



「ううん。知らなくていいや」



 答えて、その後の空白に耐え切れず、「そろそろ切るね」と早口で言い逃れる。


 伸ばした手の先にある一冊の本だけが、証人かのように佇んでいた。





 ***





「お弁当ってさあ、やっぱり鈴木先輩の分も作ってるの?」



 私の方をじっと見つめ、チョコが問う。何を今更、という気持ちだった。



「そうだけど、なん……」


「やっだぁ! 愛妻弁当じゃーん!」



 なんで、とは、言わせてもらえなかった。

 思い切り肩を叩かれて、思わず顔をしかめる。



「よくよく考えてみれば、あの鈴木先輩と――国宝級のイケメンと同居とか、もうドリームでしかないわ!」


「チョコ、声おっきい」



 こうなるから、学校では秘密にしておいた方がいいと思ったのに。一応誤解は解けたけれど、またいつ変な人に絡まれるか気が気でない。


 大体、ドリームってなんだ。私だって最初は一ミリくらい考えなくもなかったけれど、そんな夢は初日で見事に崩れ去った。



「だぁって、寝起きのぽやぽやした鈴木先輩が見られるんでしょ?」


「いや、全然。寝起き良いし」


「じゃあじゃあ、『食器洗いは俺がやっとくから、お前は休んでろ』とか、言ってくれるんでしょ?」


「先輩がやったら割れるから、任せられない」


「ううーん……」



 どうやら彼女の夢を壊してしまったようだ。

 険しい顔で唸るチョコに、少しだけ申し訳なくなった時だった。



「でも顔が良いから全て良し!」


「ろくでもない男の人に捕まらないでね」



 脊髄反射的に彼女の将来を案じたところで、私はようやくお弁当箱の蓋を開けた。

 二段弁当の上の段には、いつもおかずを詰めている。はずなのに、白米がお目見えした。



「……あ、」



 やってしまった。

 下の段の中身を確認して、間抜けな声が出る。――両方ご飯だ。



「あ~~やっちゃいましたねえ」



 私の手元を見たチョコが、声を上げる。



「ふりかけいる?」


「何でパンなのに持ってるの」


「いや、ポケットに入れっぱなしにしてて」



 彼女がスカートのポケットから、しゃかしゃかと小袋を取り出した。

 それを貰うにしたって、ご飯だけは流石に味気ない。


 購買に行って何か買ってこよう。そう思い、立ち上がった。



「ハナコ――――――!」



 教室中、否、廊下中に響き渡ったであろうそれ(・・)。まず脳裏に浮かんだ感想としては、最悪だ、だった。



「え、何? 鈴木先輩の声じゃない?」


「いや、気のせいだよ」



 チョコが背筋を伸ばして視線をさ迷わせる。

 私は即座に否定して、白米二人分を平らげる覚悟だった。


 そういえば、彼に私のクラスは教えていなかった気がする。

 きっと彼のお弁当は両方おかずだ。私を探しているのだろう。もう本当にやめて欲しい。絶対に見つかりたくない。



「ハナコ、どこだ――――――!」



 どうしよう、近付いてきてる。

 学校でこれ以上注目を浴びたくないというのは勿論、あんな狂った人と親密だと思われるのが嫌だ。もう今更かもしれないけれど。



「ハナコって、華のことじゃないの?」


「犬の名前だと思う。ハナコっていう、柴犬」


「柴犬」



 焦りからか、犬種まで限定してしまった。違う、そんなことを言っている場合じゃない。



「ハナコ、ここか!?」



 がた、と荒々しい音を立てて、教室のドアが揺れる。

 自分の机の下にしゃがみ込んだ私を見下ろして、チョコが首を傾げた。



「何してるの?」


「避難訓練」


「意識高いのね」



 こんなことをしている時点で、クラスメートには奇異の目で見られるかもしれない。いや、もう見られている、多分。


 ドアのところにあった彼の長い足は、教室に踏み入ることを決定したようだった。

 窓側の前方、私とチョコがいる方へ近付いてくる。それも、かなり迷いがない。



「ああ、グラニュー糖。ハナコを見なかったか」


「佐藤です」



 どんな覚え方だ、それは。

 普段先輩に沸いているチョコですら、至極冷静に自身の名前を訂正する始末だ。



「華なら、この下で避難訓練してますよ」


「そうか。ありがとう」



 こいつ、友達を売った――――――!

 一瞬の躊躇もなく机の下を指さしたチョコに、恨みがましく内心叫び倒す。


 先輩の手が机の脚を掴んだかと思えば、覗き込むようにしてきた彼と正面から目が合った。



「華、俺の弁当どっちもおかずだったぞ」


「いやなに普通に覗いてきてるんですか」


「避難訓練と聞いたが、俺もそこに入っていいか」


「駄目ですよ。何でそうなるんですか」



 何の話をしているんだ、一体。自分含め、まともな会話をできている人が一人もいない。



「華、交換しよう」


「勝手に持って行って下さい」


「飯は一緒に食うと決めただろ」


「家での話でしょう!? 学校では無効ですから!」



 私の頑なな返事に、先輩は「分かった」と腰を上げる。



「俺もここで一緒に食っていいか」


「話聞いてました?」



 盛大に疲れた。結局振り出しに戻った会話に、観念して立ち上がる。

 ああ、確実に教室内での私の立場はなくなったな、と嘆いていると。



「一太」



 まるで自分のクラスかのように、平然と入ってきた勇者。タカナシ先輩だ。



「廊下は走っちゃ駄目だよ」


「ああ、悪い。ついな」



 違う。注意すべきは絶対そこじゃない。


 彼の登場で、教室内の喧騒は大きくなったような気がした。

 私の机を中心にして腰を下ろした先輩二人に、最早抵抗する気力も起きない。



「嗚呼……推しCPが目の前にいる……」


「ご褒美……? 私明日死ぬ……? 神よ恵みをありがとう……」



 後ろから苦しそうな声が聞こえてきたけれど、私が振り返ると目を逸らされてしまった。

 それに首を捻りながら、渋々自分の席に座る。ようやく食事を始めようと、一息ついた時だった。



「あ、あの!」



 同じクラスの女の子――唐突に声を上げた彼女は、先輩たちに用があるらしい。頬を赤らめて、震える手でスマホを握りしめている。



「お二人の写真を! 撮らせて頂けないでしょうか……!?」


「ああ、いいぞ」



 請け負った鈴木先輩に対し、タカナシ先輩は無表情だ。……いや、ピースをしている。ちゃっかりしている。



「あ、もうちょっとくっついてもらって……」


「こうか?」


「いい感じです! ええと、鈴木先輩がタカナシ先輩の肩を抱く感じで! ああ、すごくいいです! 最高です!」



 正面、横、斜め、あらゆるアングルから撮影を行う様は、さながらプロカメラマンだ。

 いつの間にか教室外からもギャラリーが集まり、芸能人の宣材撮影のようになっていた。


 なぜか二人とも乗り気だし、ポージングまでし出すしで、こっちが居たたまれない。



「良かったね。みんな華に泣きながら感謝すると思うよ」



 盛り上がる現場を横目に玉子焼きを頬張っていると、チョコがそう呟いた。


 感謝。……感謝?

 疎まれはすれど、感謝なんてとんでもないと思っていた。というか当事者である私が、平穏な昼休みを邪魔されて泣きたくなっている。



「何で?」


「突然の推し供給」


「推し……え?」


「そっかぁ~華ちゃんにはまだ早いかなぁそういうお話は~」



 わざとらしく取り繕ったチョコに、私は不機嫌を隠さず口を曲げた。

 そんな様子を見かねてか、彼女はちょいちょいと手招きをする。身を寄せろ、ということらしい。



「だから、つまり――」



 耳元で彼女の講義が始まる。

 かくかくしかじか、知らなかった世界の扉を開いてしまったその日。何だか罪悪感が胸を突いて、家に帰ってからも先輩の顔をまともに見られなかった。



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