【おまけ】ザクザク
前回の「小さなお嬢さんとウォーカー兄弟」の続きです。
魔術訓練中に全身びしょ濡れになってしまった〈沈黙の魔女〉師弟は、びしょ濡れのまま隣の家に謝罪に行き、家に戻って着替えを済ませたところで、緊急会議を始めた。
会議の議題は、アイザックの呼び名をどうするか、である。
夏物の外出着に着替えたモニカがテーブルの前に着席し、キリッとした顔で言う。
「というわけで、会議ですっ、アイクの呼び名ですが……」
「ザックで良いんじゃないかな」
緊急会議は五秒で終わった。
モニカはこの議論が長くなると思っていたらしい。肩透かしをくらったような顔で、丸い目をパチパチさせている。
「ザック、ですか?」
「うん。それなら君も言いやすいだろう」
実を言うと、アイザックには数え切れないぐらいの偽名がある。
夜遊びをしていた時や、秘密裏に情報収集をしていた時など、偽名を名乗る機会が多かったからだ。
なので偽名を考えろと言われたら、過去に使ったものと重複しない名前を即座に挙げられるのだが、モニカに呼んで貰うなら少しでも本名に近い方がいい。名前で呼んでもらえる幸福を、簡単に手放す気はないのだ。
師弟緊急会議! と張り切っていたモニカは、眉を下げて机の上で指をこねる。
「……数学的に覚えやすい名前を、いくつか考えていたんですけど」
「数学的に?」
「アイクの今の顔の数字を文字に置き換えて……あっ、数式で書きますねっ」
「ザックで」
アイザックの言葉に、モニカは腕組みをして、「ザック……ザック……」と提案された名前を繰り返す。
すると、日当たりの良い窓辺で丸くなっていたネロが尻尾を振りながら言った。
「つまり、ザクザクか。分かりやすくていいな。食感も良さそうだし」
食感。思わず、アイザックは真顔でネロを見た。
「……君が言うと洒落にならないね?」
なにせ猫の姿をしていても、その正体は、かつてリディル王国を震撼させたウォーガンの黒竜である。
アイザックは苦笑しつつ、立ち上がって新しい布を用意した。モニカの髪がまだ乾いていないのが気になっていたのだ。
「以前からアイクと呼ばれているところは、何度か見られているかもしれないからね。こっちの顔の名前を新しく考える方がいいだろう?」
そう言いながら、アイザックは椅子に座るモニカの背後に回り、乾いた布でモニカの髪を丁寧に拭いた。ゴシゴシと擦るのではなく、水分を布に吸わせるように丁寧に。
モニカはされるがままになりながら、まだ「アイク、ザック」と二つの呼び名を繰り返している。
「傷が無い方がアイク……傷がある方がザック……アイク……ザック……アイク……ザック……」
ネロが机に飛び乗り、モニカのそばでボソリと囁いた。
「ザクザク」
「……ザック、ザクザク、ザック、ザクザク……もうっ、ネロっ!」
膨れっ面でネロを睨んだモニカは、ハッと背後のアイザックを仰ぎ見た。
申し訳なさそうにアワアワとしている様子が、アイザックにはもう、可愛くて可愛くて仕方がない。
「あの、あのですね、アイクの名前を覚えられないわけじゃないんです。ただ、どんな顔でもアイクはアイクで、いつもアイクって呼んでたから、急に呼び方を変えるのが難しくて……」
(それは、すごい口説き文句だね)
胸の内で呟き、アイザックはモニカの肩を押す。
「うん、分かってるよ。ほら、前を向いておくれ?」
「うぅ、はい……」
モニカはきちんと前を向いて座り、膝の上で指を捏ねる。
しばし、無言の穏やかな時が流れた。
明るい日差しの差し込む部屋、窓辺には猫、目の前には愛しい人。なんて幸せな時間だろう。
「アイク、あのですね……」
「うん」
「わたし、アイクのことは、ちゃんと耳の形も身長も肩幅も腕や足の長さや太さも体の厚みも靴のサイズも、研究内容や魔術の習熟度や作ってくれたご飯のことも、全部覚えてますから、ねっ」
熱烈だなぁ、とアイザックは頬をゆるめる。
今の彼はモニカの髪を拭くために、背後に立っているから、表情を見られることはない。だから、どんなにゆるんだ顔をしていても良いのだ……と思ったら、机の上のネロと目が合った。
表情豊かな黒猫は、人間じみた呆れ顔だ。その顔が、こう言っている。
──お前は、それが嬉しいのか。
(勿論、嬉しいとも)
フフン、と得意気な笑みを返し、アイザックは濡れた布を置いてブラシを手に取る。
「魔術のことだけじゃなくて、ご飯のことまで覚えてくれてるんだ?」
「アイクが作ってくれたものは、全部覚えてますよ?」
そうなのだ。モニカはアイザックが作った物は、魔術式も論文も食事も、全部覚えてくれている。
この家に押しかけ弟子になったばかりの頃、モニカはそれほど食べることに興味がなかったように見えた。
だけど最近は、アイザックの作るご飯を楽しみにしてくれているのが分かる。これは絶対に自惚れじゃない。
(あぁ、どうしよう。嬉しいなぁ)
アイザック・ウォーカーは表向きは第二王子フェリクス・アーク・リディルとして、堂々と振る舞っているが、実態は世話を焼いて、尽くしているのが好きな性分である。
尽くしていると安心する──という依存じみた執着が、全く全然これっぽっちもないとは、まだ言えない。
それでも、依存だけじゃないのだ。好きな子が喜んでくれたら、素直に嬉しい。
胸の奥から込み上げてくる温かな喜びを噛み締めながら、アイザックはブラシでモニカの髪を梳く。
「僕のお師匠様の、最近のお気に入りのメニューは?」
「四日前の夕ご飯に出た揚げ物。あの、サクッとしてフワッとした衣の、美味しかったです」
即答ということは、よほど気に入ってくれたのだろう。
モニカは膝の上で、手をニギニギさせている。
「あの衣は、お肉もお魚も野菜もキノコも、何でも美味しくなる素敵な衣です」
「オレ様、揚げ物はザクザクしてる方がいい。あと肉な。断然、肉だ」
この国の魔術師の頂点に立つ〈沈黙の魔女〉と、その使い魔のウォーガンの黒竜が、揚げ物の衣はサクフワか、ザクザクかで議論している。なんて平和な光景だろう。
さて、そろそろ、ノールズ夫人のお茶会に持っていくお菓子の用意を始めようか。
丁度、レモンのケーキを焼いて冷ましてある。そろそろ、砂糖衣をかけるのに良いタイミングだ。
──砂糖衣は硬めに仕上げて、食感良く。
砂糖衣がドロドロに溶けていると、モニカがションボリすることをアイザックは知っている。
アイザックはブラシを片付けるとエプロンを手に取り、モニカに声をかけた。
「ところで、モニカ」
「はいっ!」
「今の僕を呼ぶ時は?」
モニカはキリッとしたお師匠様の顔で答えた。
「ザクザク!」
元気な即答だった。
「…………」
沈黙するアイザックの前で、ネロがゲラゲラと笑い転げ、モニカが「……あ」と硬直する。
アイザックはモニカの正面に立つとニコリと微笑み、お師匠様の柔らかな頬を両側から抓った。
「えい」
「アイヒュ、ごめんにゃはい、アイヒュ!」
「ザック」
「ザッフ、いひゃいでふっ!」
「わぁ、よく伸びる」
肉の薄いモニカの頬は、引っ張ると意外とよく伸びるのだ。
その手触りを楽しんでいると、ネロがジトリとアイザックを見上げて言った。
「お前、時々それやるよな」
「親しみのある相手にだけだよ」
「にゃるほど、甘噛みみたいなもんか」
アイザックはモニカの頬から手を離すと、机の上のネロを抱き上げる。
そうしてネロの前足の肉球で、赤くなったモニカの頬をフニッと押した。
「とびきり美味しいケーキを焼いたんだ。楽しみにしていておくれ?」
モニカの考える「数学的に覚えやすい名前」は大体ろくなことにならないので、没にしたウォーカー氏は賢明だったと思います。




