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こんにちは、赤ちゃん

春を待つななし荘に、赤ちゃんが出来たという報告が舞い込んだ。

妊娠したというその人物は……?

「ハルくん、私、妊娠したの」

「へえー」


「……」

「え?」


風も暖かくなって春めいてきた頃。

俺は、久々に千明さんのアシスタントをしていた。


「え、え、ちょっと待って!」

「妊娠!? 誰が!? 梅ちゃん!?」


「だから、私がって言ったじゃん」

「ちゃんと聞けよ」


千明さんは慌てふためく俺を、呆れたような眼差しで見る。

近頃、千明さんからはよくこんな目で見られている。


「なあんだ、千明さんか……」

「そうだよな、俺、ちゃんとしてますもん」

「ええっ、妊娠!?」


「ハルくん、ちょっと最近梅子っぽいよ」

「人の話聞いてないとことか」


梅ちゃんに似てきたと言われ、俺は複雑な気分になった。

それって、悲しい?

それとも、喜ぶべきなのか?


「それ、本当?」

「うん、ほんとー」

「この前ね、妊娠検査薬で分かったの」


何てことはないという顔をして、千明さんはいつものようにペンを走らせている。


「あの、聞いていいか分からないんですけど……」

「相手は?」


「私の担当編集で、矢島(やじま)って子」

「5つも年下で、デビュー以来の付き合いだから……こんなことになって意外と驚いてるんだよね」


「んでさ、結婚しようって言われたの」

「そんで、OKしたよ」

「私も、もういい年だしね」


「そっか……おめでとう」

「ありがとう」


千明さんのお腹に子どもがいて、それで結婚なんて。

いつかはそうなると思っていたけど、突然起こったその事態に、俺の心臓はドキドキと脈打つ。


「それでね、来月にはここ出て行こうと思ってる」

「退去の知らせは、1か月前でいいんだよね?」

「うん、大丈夫……」


「ところで、つわりは平気なんですか?」

「避けた方がいい食材とかある?」


「うーん……今は自覚症状ないんだよね」

「まだ2か月くらいだと思うし、これからかな」

「そっか……」


ばあちゃんが生きていた頃からの付き合いだから、俺と梅ちゃんと千明さんが過ごした時間は長い。

どこか姉のような雰囲気のあった彼女がいなくなるのは、とても寂しく感じられた。


「と、いうわけで!」

「デキ婚してここを去ることになりました」

「皆さん、どうもありがとう!!」


数日後の晩、千明さんのお別れ会を催した。

タローくんとモッコさんも、突然の報告には面食らっていた。

あらかじめ話を通しておいた梅ちゃんも、ウルウルとしている。


「何ベソかいてんのよ、梅子!」

「一生の別れじゃないんだから」


うつむく梅ちゃんの背中を、千明さんが強めに叩く。

場の雰囲気を少しでも明るくしようと、モッコさんも張り切る。


「そうよ、梅子ちゃん」

「こんなガサツでうるさい女がいなくなるのよ」

「たまーにどっかで会うくらいで、ちょうどいいって」


「うっせーよ、ブス」

「誰かブスだ、ゴラァ!!」


いつものやり取りを始めた2人に、梅ちゃんも笑い出す。

楽しさや可笑しさをメインに、寂しさはほんの少しだけ。


こういう会は、それでいい。

そう、死に別れるってわけじゃないんだから。



ななし荘を去ることになっても、千明さんは何も変わらなかった。

いつものように漫画を描き、俺が時々それを手伝い、モッコさんとケンカもした。

もちろん、お酒は飲まなくなったけど。


「千明さんが、いままでお世話になりました」


引っ越しを1週間後に控えたある週末、千明さんの旦那さんになる矢島さんがうちに顔を出した。

千明さんよりほんの少し背が低くて、眼鏡をかけた優しそうな男性だった。


「僕は、千明さんがデビューしてからずっとファンで……」

「憧れの先生と、まさかこんなことになるなんて」


嬉しいながらも恐縮しきりといった様子の矢島さんに、千明さんは照れたようにブツブツ言っていた。

何だ、お似合いの2人じゃないか。

矢島さんの人となりを見て、俺はとても安心した。


この頃になると、千明さんは少し体調の優れない日も増えてきていた。

引っ越しを翌日に控えたこの日も、気分が悪くなって寝込んでいた。


この日は、昼食も食べていない。

何か食べられそうなものはあるか、俺は千明さんに聞こうと部屋を訪ねた。

ノックをしようと思った時、中から梅ちゃんの声が聞こえてきた。


「気持ち悪い?」

「うん……だいぶマシになったよ」


梅ちゃんは、千明さんに付き添っているらしかった。

ベッド際にしゃがみ込み、心配そうな顔をしている梅ちゃんの顔が目に浮かんだ。


「ねえ、千明ちゃん」

「ん?」

「赤ちゃんがお腹にいるのって、どんな感じ?」


俺はつい、よくないと思いながらも立ち聞きをしてしまう。

梅ちゃんは、どうしてそんなことを聞くんだろう。


「どんなっていうか……まだあんまりよく分からないな」

「お腹が大きくなって、胎動を感じたりするとまた違うのかも」


「ただね、何となく、ここに誰かいるんだって気はするよ」

「自分の中に、自分じゃない何か大切なものがいるんだって」

「時々、急に愛おしくなる」


「そうなんだ」

「不思議だね」


「不思議って……あんただってすぐにそうなるわよ」

「ハルくんだって、子ども欲しいんでしょ?」


梅ちゃんの返事は聞こえない。

こういうことについて、俺たちは今まで話し合ったことがなかった。


「あのね……わたし、すごく心配なの」

「何が?」


「わたし……子ども出来ると思う?」

「え?」


梅ちゃんの言葉に、ドアの前で俺は息を飲む。


「何それ、どういうこと?」

「ハルとこういう関係になって、今まで考えもしなかったこと、真剣に考えるようになっちゃって」

「うん?」


「わたしは人間で、ハルは半分オオカミでしょ?」

「そんなカップルの間に、子どもが出来るのかなって……」


「でも、あんたたちのお母さんは、オオカミとの間にハルくんを産んだんでしょ?」

「そうだよ」

「でもそれって、かなり奇跡的なことじゃない?」


「ハルは半分は人間だけど、わたし、彼の子ども、産めるのかなって……」

「千明ちゃんに赤ちゃんが出来たの聞いて、何かすごく不安になっちゃって」


梅ちゃん。

俺は、部屋の外で思わず頭を抱えた。

そんなこと気にしてたなんて、全然気が付かなかった。


「そうだね……」

「そればっかりは、なるようにしかならないよ」


うんと返事をした梅ちゃんは、きっと泣いていた。

俺はいたたまれない気持ちになって、静かに階段を下りた。



「また遊びに来るからね」

「梅子も、うちにおいでよ?」


「うん!」

「赤ちゃん産まれたら、きっと知らせてね!」


こうして、千明さんは引っ越していった。

今は心にぽかっと穴が開いたような気がするけど、それもゆっくりと癒えていくだろう。


ここはアパートなんだ。

死ぬまで一緒ってわけには、なかなかいかない。


タローくんは卒業したら出て行くだろうし、モッコさんもいつまでいてくれるかは分からない。

家族が減るのは悲しいけど、一生会えなくなるわけじゃない。

母さんとばあちゃんを亡くした俺たちは、きっと乗り越えられる。


「あーあ、千明ちゃん行っちゃった」


梅ちゃんはすねた子どものように呟いた。

つっかけを履いた足で、庭の地面をほじくっている。


「赤ちゃん、楽しみだね」

「男か女か分かったら教えてもらうんだー」


へらへらっといつもの調子で笑う梅ちゃんの、その腕を取る。


「梅ちゃん」

「何?」


「俺も、出来たら梅ちゃんとの子どもがほしい」

「でもさ、ダメだったらそれでいいんだ」


「梅ちゃんはきっと、いつまで経っても子ども並みに手が掛かると思うし」

「だったら俺は、それでいいんだ」

「梅ちゃんだけで」


そう言って俺は、手を繋いだ梅ちゃんの顔を見た。

一瞬、彼女は今にも泣きそうな顔をしたように見えた。


「何それ、軽くディスってるの?」

「そうかもね」


俺が笑うと、梅ちゃんはぶーっと頬を膨らませる。

俺の胸を、緩く握ったげんこつでぼかぼかと叩いてくる。

最後にはぎゅっと張り付いて、ただ一言。


「ありがとう、ハル」


その言葉は、柔らかな春の風に運ばれていった。

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