ハーゲンティという悪魔
「お久しぶりです、我が主」
「……へ?」
てっきり顔を近づけてきた悪魔に食べられると思っていたオルドは、あまりにも想定外なその言葉に呆けてしまった。
隣にいるルベアが笑いを噛み殺している気配もあるが、今はそれどころではない。
「……おや、どうされました? 我が主」
「主……えーと、ハーゲンティさん? 俺はあなたの主なんかじゃないんだ。あなたが言っているのは多分、俺の曾祖父の事だと思う」
「曾祖父? つまり、そなたはラウバー様の曾孫にあたる?」
「ああ。曾祖父は……ラウバーはもう亡くなっているんだ。もう四十年以上は経っている」
「ほう……あのラウバー様を倒すことができる者がいるとは……にわかには信じがたいが……」
怪訝そうに眉を顰めるハーゲンティに、オルドは両手と頭を振って急いで否定する。
「そ、そうじゃない。曾祖父は若くして病気で亡くなったと聞いている。もちろん呪いの類ではなくて、熱心な研究がたたって体を壊したんだ」
「……いやはや人間とは不思議なものだ。我よりはるかに高みにいた者が、病気一つ勝てんとは」
オルドの顔から自分の顔を遠ざけ、ハーゲンティがしみじみと呟いた。それは異形の割には随分と人間染みた姿で、現れた時のような威圧感が幾分かは和らいでいた。
だからだろうか。
「ほら見ろ。こいつの力は、あの偉大なる魔神、ラウバー様の力じゃないか。この使い魔だって、ラウバー様の使い魔なんじゃないかっ!」
今まで腰を抜かしたようにへたり込んでいたセドリスが、立ち上がって猛然と周囲に訴えた。
どうやらハーゲンティが道理のない怪物ではなく、それなりの知性を有しており刺激しなければ危害を加えてはこないと判断したらしい。
「……なんだ貴様は?」
「ひっ……」
ところが立ち上がったセドリスを、ハーゲンティは煩わそうに見下ろした。和らいでいた威圧感もセドリスに集中するように向けられ、今にも「邪魔くさい」と踏みつぶされてしまいそうだ。
蛇に睨まれた蛙のような表情で冷や汗を流すセドリスは、しかし保身のためになんとか舌を回し始める。
「は、ハーゲンティ様っ。あなた様が主と認めた魔神ラウバー様はもういません。こいつは曾孫だと言うだけであなた様を悪戯に呼び出したのです。こいつの言う事を聞く必要はありませんっ!」
「……黙れ」
「は、はいぃぃっ!」
全てオルドが悪い事にしようと言葉を紡いだものの、ハーゲンティがセドリスを見る目は一層鋭いものになってしまった。どうやら気に障ってしまったらしい。
「ラウバー様の曾孫殿が何の才能もない? たわけ。そのような者が、『インフェロス』にて位階序列48に座すこの我を呼び出せるものか。それも限定召喚ではなく真正召喚。才無くしてこの世界の者に起こせる事象ではないわ」
「で、ですが、その魔導書があれば誰にでも――」
「黙れと言ったのが、聞こえなかったか? 小僧」
この期に及んで愚かにもハーゲンティに反論を試みたセドリスの勇気は大したものである。オルドであれば絶対にそんな無茶はできない。
だがそれは、やはりハーゲンティの更なる怒りを買ったようだ。
目の前の異業から発せられる威圧感は濃密な魔力となり、『リザーウドの林』に群生する木々を揺らす。
今まで怖れゆえか飛びたてずにいた樹上の鳥が、すぐ傍に迫る命の危機に我を取り戻したように一斉に羽搏く。
おそらくここにいる人間達も、飛べるのであればそうしたかっただろう。無論オルドだってできればそうしたかった。
「あ、ああ……」
ハーゲンティの威圧に、再び腰が抜けたようにへたり込むセドリス。そんなセドリスを見下ろしながら、怖ろしい牛の化け物は少しずつ顔を寄せていく。
「このラウバー様の認めたグリモワールは、我らを呼び出すきっかけにすぎぬ。この書を用い、我らの名を呼んだとて孫殿と同じことができる者がこの中にいるとは思えんな。いや、迂闊な名を呼んでみよ。忽ち消費魔力が致死量を超え無駄死に間違いなしだ。そんなことも分からんか?」
「も、申し訳ご、ございませんっ」
平伏し、涙を流しながら許しを請うセドリスに、しかしハーゲンティはその視線を緩めない。
それどころか左手を伸ばし、セドリスよりも巨大な掌を彼に向けた。その手にハーゲンティの魔力が集中していくあたり、何かするつもりなのは明白だ。
――これは不味いだろう……
オルドはこの場で唯一、大人であり教師でもある薬術学のロビソーを窺う。だが、彼もハーゲンティの威圧感に呑まれているのか息すらできずに固まっている。とてもではないが、ハーゲンティを止めることなどできないだろう。
他の生徒たちだって皆座り込んで立ち上がることすらできなさそうだ。オルドだってルベアが傍にいなければ座り込んでいたかもしれない。今だって膝が笑って止めようとしても止まらないのだ。
しかしそれでも――だ。
「は、ハーゲンティさん」
オルドは何とか足を動かし、異形の牛の怪物とセドリスの間に立ちはだかった。
セドリスは嫌な奴だ。嫌な奴ではあるが、こんなところでオルドの呼び出した悪魔なんかに殺されていい人間ではない。オルドなんかよりもずっと魔法の才能があって、きっとこれから冒険者として世に貢献していく人間なのだから。
「なにか? 曾孫殿」
「ハーゲンティさん。特に用もなくあなたを呼び出してしまったことはお詫びしよう。ただ、一時的にもあなたが俺の曾祖父を主と認め慕ってくれていたのであれば、曾孫にあたる俺の顔を立てて、このまま穏便にお引き取り願えないだろうか」
オルドの何とか震えを隠した声に、ハーゲンティは巨大な顔を傾げて眉を顰めた。
「その者はそなたに害意を持っている。庇う価値などないと思うが」
「それでもあなたを呼び出したのは俺で、誰かに危害を与えるために呼び出したのではないのなら……俺が責任を取るべきだろう?」
迷いなく、真剣な目で見上げた巨体へそう紡ぐ。
圧倒的な強者を前に揺るがないその姿勢は物語の主人公のようで、ただ膝がすこぶる震えていたために何とも格好がつかない。
だがそれでも、オルドの言葉は向けられたハーゲンティの掌をどかす力はあったようだ。
魔法を行使しようとしていた雰囲気が消え去り、同時に身体からにじみ出ていた魔力も抑えられていく。最悪の事態は避けられたのだ。
「……ふん、愚かしい。やはり、人間と言うものは全くもって理解不能だ。何を考えているのかさっぱり分からんな……貴殿もそこに惹かれたのか、ルベア殿?」
「なっ! 我輩は単純にラウバー殿に借りがあるだけだ。用が済んだらとっとと帰れっ!」
突然視線をを向けられたルベアが、少し慌てたようにぞんざいに言い捨てる。
その反応にハーゲンティは苦笑し、人間染みた仕種で肩を竦める。
「相も変わらず素直ではない」
「やかましいわっ」
聳え立つほどの身の丈を持つ化け物の牛を相手に一喝して見せたルベア。その姿に周囲はハーゲンティが怒り狂わないかと心配げな表情を浮かべたが、オルドにはなんとなく解った。
この二人(?)はこういった会話が成り立つ、気心の知れた間柄なのだろうと。
いつの間にか震えの止まっていた足で二三度地面を踏みつけていたら、ハーゲンティが再びこちらへ顔を寄せて視線を向けていた。
「曾孫殿、名をお聞かせ願おう」
「……オルドだ。オルド・エネシール」
足の震えは止まったし、声だっていつも通り出せた。しかし、この巨大な牛顔はやっぱり怖い。できればそんなに近寄らないでもらいたい。
「オルド……ふむ。ラウバー様は『インフェロス』の多くの悪魔を従えたが、実際に呼び出された者はそれほどいない。我とて片手の指で数えられる程度だ。だが、誰かに頼られるのもたまになら悪くない。また何かあれば呼ぶと言い。直ぐにはせ参じよう」
「へ?」
その意外な言葉に目を丸くし、真意を探ろうとハーゲンティの目を見上げて覗き込む。だが、ガラス玉のようなその瞳はオルドの姿を映すのみで、何を考えているのかなんてちっともわからなかった。
「ハーゲンティさん……」
「ふっ……」
思わず呟いたオルドに、ハーゲンティは少しだけ口元を笑うように歪め、まるで空間に溶けるように揺らめいていく。
「ハーゲンティで結構。我の主であるならば、主らしく振る舞う事だ。では、またいずれ。オルド様」
そう言い残し、オルドの傍らに立つルベアをちらりと見たハーゲンティは唐突にその姿を消してしまう。
それと同時に上塗りされていたような灰色も消え、最初からそうであったかのように赤く染まる空が『リザーウドの林』を包み込んでいたのだった。




