第五一話「エイリ=アマフの逆襲」その1
ときは始祖暦二五〇五年サヴァンの月(第一月)、場所は東ムーマ、ベン=バルベン。
ベン=バルベンは東西ムーマの中でも有数の大都市であり、東ムーマの中では最大の町である。ムーマとラギンを結ぶ海洋交易の拠点として繁栄を誇ってきたが、それも今は昔の話だった。コナハトとの戦争とムーマの事実上の滅亡を経て、今ではその交易規模も八割から九割減といった有様である。
そのベン=バルベンの中心に建っているのはベン=バルベン城。かつてはベン=バルベンを支配した貴族の所有物であり、その後は鉄杖党が接収して行政庁舎とした。そして現在はムーマ国王エイリ=アマフの仮の王城となっている。もっともその内実にはほとんど変化はなく、広大かつ壮麗な城の大半を使用するのは東ムーマを統治する官僚や役人達だ。
千以上の部屋があるベン=バルベン城の中で国王エイリ=アマフが私的に使用する空間はほんの三つ。それすらもエイリ=アマフ自身が使用する機会は極端に少なかった。彼は時間も生命も、そのほとんど全てを祖国に捧げており、睡眠すらも執務室内のソファでの仮眠だけだ。寝室を使うのは体調を崩してどうにもならなくなったときに限られていた。
そのエイリ=アマフが今、城内の一番奥へとやってきている。そこに入れるのはエイリ=アマフ自身を除けばほんの三、四人の特定の侍女だけ。そこに並ぶ三つの部屋が国王の私的空間という扱いの場所であり、かつての王宮なら後宮に相当するかもしれなかった。ただし、寵妃に当たる者は一人しかいないし、それすらも……
「俺だ」
エイリ=アマフが三つの扉のうちの一つをノックし、はばかるように声をかける。すぐに内側から扉が開けられるが、人が通れる幅にはならなかった。留められた扉の隙間から顔の半分を覗かせるのは侍女の一人である。
「様子はどうだ」
「起きておられます」
「少しだけ顔を見ていく」
ささやき声で手短な会話を侍女と交わし、エイリ=アマフは滑るようにして無音でその室内へと入った。彼は息を殺し、気配を殺してその部屋の中央で立ち尽くす。部屋の南面の半分にもなる硝子窓はカーテンで覆われ、室内は明るくはなかった。そこにあるのは天蓋付の大きなベッド、他には椅子と小さなテーブルがあるだけだ。そしてベッドの上では一人の少女が身を起こしている。
以前は金鎖のように美しかった金の髪は、今は潤いをなくして色あせたかのようだった。以前は宝石のように輝いていた蒼い瞳は今は何も映しておらず、何も見ていなかった。絹の寝間着を着た少女は呆然とベッドに座り込んでいるだけであり――その表情が一変した。怯えた少女が両腕で身体を抱き、身を丸める。
「ゆるしてくださいゆるしてくださいゆるしてくださいゆるしてください」
身体と声を震わせてひたすらにそれをくり返す少女に対し、侍女もまた、
「大丈夫です、ここにはわたし達しかいません。大丈夫ですから」
とくり返した。その光景にエイリ=アマフは声を出すことも許されず、唇を噛み締めるだけである。
入ったときと同じように音を立てないようにしてその部屋から退出する。それでようやく声を出せるようになった。
「……スィールシャ」
重苦しいため息とともに吐き出されたのは、少女の名前だった。そこには憤怒と憎悪と絶望と憐憫と、ありとあらゆる負の感情が込められている。
スィールシャは父親のインティーヴァスとともに、コナハト軍の接近するクルアハンから避難。だがその途中でコナハト軍の手の者によって捕縛され、行方不明となってしまう。インティーヴァスは何とかベン=バルベンまでの逃亡に成功するが、その過酷な逃避行によって片目片腕を失う結果となった。
「娘のことは……もう諦める他ないでしょう」
ベン=バルベンで再会したとき、スィールシャの行方についてインティーヴァスはそれ以上何も言わず、エイリ=アマフもまたそれ以上何も言えなかった。それでも二人の関係は変わらず、一致協力してこの難局を乗り越えようとしたのだが――
その二人がスィールシャと再会したのは二五〇三年、エイリ=アマフが即位してからほどなく。スィールシャが行方不明となってからは一年以上が経過していた。少女をエイリ=アマフ達に引き会せたのはある商人である。
「いえ、実はこのたび私共がコナハトから仕入れた商品に何やらちょっとばかり見覚えがございまして。ラギンに売りに行くよりはこちらにお持ちした方が喜ばれるかと愚考したのですが……」
嫌らしい物言いをするその商人が示す商品を目にし、エイリ=アマフは一も二もなく言い値でそれを買い上げる他なかった。
こうしてスィールシャは婚約者と父親との再会を果たしたわけだが、
「このたびはお情けをいただきありがとうございます。拙くはありますが精一杯ご奉仕いたします」
床に這いつくばってそう口上を述べた少女は、身を起こして目の前の男のズボンに手をかけた。
「やめろ!!」
と力任せにそれを振り払うインティーヴァス。床に倒れた少女はそのまま身を丸めて身体を震わせた。
「ゆるしてくださいゆるしてくださいゆるしてください」
「スィールシャ! 俺だ、判らないのか?!」
エイリ=アマフが少女の顔を上げさせるが、彼女は壊れた機械のように「ゆるしてください」をくり返すだけだ。その眼は――濁って、何も映していない。光や陰は判別できるが、どうやらそれだけらしい。その後侍女に確認させたが、断種処置も受けているのは間違いようがなかった。
コナハト軍に捕まったスィールシャがどんな目に遭ってきたのか、少し考えるだけでエイリ=アマフの血が沸騰する。失明したのはおそらくそれだけ殴られたからだろう。
「――待て、何をする気だ」
ナイフを手にスィールシャへと歩み寄ろうとするインティーヴァスに、エイリ=アマフがそれを問う。インティーヴァスは振り返らずにただ首を振った。
「この子をこれ以上苦しめないためには、もうこれしかありますまい」
「馬鹿なことを言うな。せっかく生き延びて再会できたのに」
「こんなことなら会えない方がよかった! 死んでいればよかったのだ!!」
天を仰いだインティーヴァスが血を吐くように叫ぶ。許し難いその暴言に、また同時に一縷の共感を抱いたことに、エイリ=アマフは絶句するしかなかった。
「こんなことならあのときに死んでいればよかったのだ。そうすればこれほどまでの地獄を味わわずに済んだものを……もはや手遅れだが、それでもこれ以上の苦しみからこの子を解放させるにはもうこれしか」
インティーヴァスがナイフを持った手を振り上げ、エイリ=アマフがそれを掴んで止めた。
「何故止めるのです」
「あなたが間違っているからだ」
「私のどこが」
インティーヴァスは本当にそれが判らず、不思議そうに問う。エイリ=アマフは一瞬の躊躇を飲み込み、
「スィールシャを死なせて終わらせようとしているのは彼女の苦しみじゃない。あなた自身の苦しみだ」
インティーヴァスは残った右眼を大きく見開いた。二人はそのまま長い時間、彫像のように動きを止めて沈黙する。再び動き出したのは一体どれだけ経ってからだろうか。
「……確かにそうかもしれない。だがこの子を生かしておいて、この先何の幸せがある。喜びがある。ただ苦痛と絶望があるだけではないか」
「仮にそうだとしてもそれを決めるのは俺達じゃない」
「あなたがこの子を救えると言うのか? こんな地獄を見た、こんな身体になったこの子を、再び笑わせられると言うのか?」
その問いにエイリ=アマフはすぐには答えられなかった。
「……できるだけのことはしたい」
呻くように、そう告げるのが精一杯だ。目の前の巨大な、圧倒的な現実に対して自分にできることはあまりに小さく、その範囲はあまりに狭かった。かつてもそうだったが国王となった今でもそれは変わらない。自分の無力さ加減に絶望し、死にたくなる。
話にならない、と言わんばかりにインティーヴァスは無言で首を横に振った。そして実際、彼はエイリ=アマフと会話する意欲をなくし、ナイフを置いてその部屋から出ていく。あとに残されたのは立ち尽くすエイリ=アマフと、未だ這いつくばるスィールシャだけだった。
……それ以降、エイリ=アマフとインティーヴァスとの関係は変わった。かつての二人はムーマ穏健派の代表であり、モイ=トゥラでの苛政を止めさせるべく尽力する同志だった。エイリ=アマフの基本姿勢は今でも変わっていない。
「コナハトと関係改善をし、交渉をもって西ムーマを奪還するべきだ」
エイリ=アマフはそう主張し、その実現のために死力を尽くしている。インティーヴァスもまたこれまでと同様に心を一つにしてことに当たってきたのだが、スィールシャとの再会を経てその姿勢を一変させた。
「奴等は禽獣と何も変わらない。奴等に通じるのは言葉ではなく鞭だけだ!」
インティーヴァスはコナハトへの強硬姿勢を鮮明にし、武力で西ムーマを解放することを声高に主張した。もっとも、彼は穏健派の重鎮としてよく知られた人間だ。その豹変は強硬派からは歓迎よりも冷笑をもって迎えられた。
――現在の東ムーマには大きく二つの政治勢力がある。一つはエイリ=アマフに代表される、対コナハト穏健派。もう一方はゲアルヘームに代表される、強硬派だ。強硬派の中にも二派閥あり、一つは鉄杖党主流派の流れを汲む、旧来からの強硬派。水面下も含めればこれが最大派閥であり、その勢力は穏健派も圧倒している。もう一つはインティーヴァスのように、かつては穏健派だったがコナハトとの戦争を経て強硬派に転じた者達。便宜上新強硬派とでも呼んでおくが、その勢力は小さく、また旧強硬派との関係も最悪のためその影響力はごく限られたものだった。だが、ただでさえ少ない味方が敵に回ってしまったわけで、エイリ=アマフからすれば頭の痛い話だった。
そしてもう一方の穏健派。こちらの中にも二派閥あり、その一方はやはり旧来からの穏健派であり、戦争を経てもその姿勢が変わらなかった者。エイリ=アマフにとっては数少ない、本当に信頼できる味方である。もう一方は、かつて強硬派に属していたが戦争を経て穏健派に鞍替えした者。こちらは新穏健派とでも呼ぶべきか。
現実的に考えるならコナハトに武力で対抗するのは無謀の一言だ。ムーマは大陸最大最強の武力を誇りながら、最小最弱滅亡寸前のコナハトに武力で滅ぼされたのだから。神威魔法を失い、モイ=トゥラを失い、国土の半分を失った今のムーマが今のコナハトに対抗できるわけがない。その判断と、エイリ=アマフの国王としての権限。気を見るに敏な風見鶏が彼にすり寄ってきても、それほど不思議な話ではないだろう。
だがそれでもエイリ=アマフは彼等を信用できなかった。奴等、ゲアルヘームの意を受けて穏健派に潜り込んでいるんじゃないのか――その疑いがどうしてもぬぐえない。だからと言ってせっかくの味方を突き放すわけにもいかず、これもまたエイリ=アマフの頭痛の種だった。
「まったく、今はムーマ人同士で諍いをしている場合じゃないのに」
エイリ=アマフは愚痴らずにはいられない。彼等がベン=バルベン城というコップの中で勢力争いに現を抜かしている間にも、東ムーマ市民は重税と軍役負担に苦しんでいる。交易による繁栄も二度と戻らない過去の話であり、ベン=バルベンの路上は失業者と浮浪者と難民であふれている。かつてムーマが蓄えていた膨大な富は奪われ、市場の需要は霧散し、景気は奈落の底だ。その中でもコナハトの侵攻に備えるために軍の拡大充実は急がねばならず、市民には重税と軍役が課せられる。その中でゲアルヘームを筆頭とする旧鉄杖党の面々は軍費を着服し、贅沢三昧だ。以前と比較すればかなりマシにはなっているが、それでもエイリ=アマフからしてみればそれは度の過ぎた放蕩だった。
東ムーマは御覧の通りのひどい有様なのだが、それでも西ムーマと比較するなら天国みたいなものなのだ。西ムーマはティティムを国王とする独立国――そんなの形だけだ。西ムーマは軍を解散させられ、治安維持に必要な最低限の武力しか持つことを許されていない。外敵へとの対抗も、大規模な暴動鎮圧も、全てはイフラーン率いる一〇万のコナハト軍の仕事である。
ムーマ市民に対する課税は収入の七割を優に超え、ときに八割九割に達する。さらにその歳入の八割九割が「和平負担金」という名目でコナハトに持っていかれるのだ。あまりの重税に耐えかねた市民が暴動を起こせばコナハト軍が一片の容赦もなく鎮圧する。捕縛された暴徒は断種処置の上で奴隷としてモイ=トゥラへ、あるいはラギンやウラドへと出荷された。それはまるで、奴隷を確保するために到底払えない重税を課しているかのようである。西ムーマ宰相ディーヴァスもくり返し処遇改善を訴えているのだが、
「まだたったの二年でしょう。わたし達は九〇年間これに耐えてきたのですよ?」
レアルトラのその一言が全てだった。
西ムーマ市民にできるのは耐えるか逃げるか、の二つしかない。そして逃げる先が東ムーマなのだ。東西ムーマの境界にはイフラーンが陣取り、市民の逃亡を堰き止めている。逃亡に失敗した者もまた、断種処置の上奴隷となる運命だ。それでも逃亡・亡命を選ぶ者は後を絶たなかった。
エイリ=アマフ率いる東ムーマ軍は西ムーマ人の逃亡を手助けするために、コナハト軍とたびたび衝突した。ただ、その動員兵数は多いときでも数百人程度。目的はムーマ人の亡命支援一つのみで、やることは挑発に毛が生えた程度。コナハト側も、イフラーンも、ラギンと結んだ勢力圏協定を厳守して深追いはせず、このため衝突はごく小規模な、小競り合い程度のものに終始した。
そしてこの小競り合いすらがこの一年間、非常に少なくなっていた。それはエイリ=アマフが他のことに全ての力を注ぎ込んでいたからだ。
「――そしてその結実を今、手にしようとしている」
エイリ=アマフは無意識のうちに固めていた拳を振り、外套を翻した。彼の前にはムーマ軍が矛をそろえて整列している。その数、一万。数は少なくともこの二年、彼が手ずから鍛えに鍛えた精鋭だ。将も兵もまた、彼の過酷な要求に耐え、応え、今ここにいる。コナハトに目に物を見せる、奪われたものを奪い返す――二万の鋼鉄のような目が無音でそう物語っていた。
「往くぞ。反撃は今、ここから始まる」
エイリ=アマフの静かな、簡潔な檄に、将兵は爆発するような雄叫びで応えた。一万の軍勢がベン=バルベンを出立する。目的地はリーグ山脈、西ムーマ。奪われた半分の国土だった。




