第五二話「エイリ=アマフの逆襲」その2
始祖暦二五〇五年サヴァンの月(第一月)の月末、ある凶報がクルアハンへともたらされた。
「西ムーマ駐留イフラーン軍が東ムーマ軍に敗北」
イフラーン軍は全軍が動いたわけではなく、イフラーンが自ら指揮したわけでもない。配下の将軍が一〇万のうちの三万の兵を率いたに過ぎないが、それに対する東ムーマ軍はエイリ=アマフ自身が指揮したとはいえ、たったの一万だ。にもかかわらず、三万の軍が一万の軍に完敗し、退却できたのは二万足らず。残りの一万強は戦死するか、捕虜になるかしたらしい。
これ自体も充分以上の凶報だが、まだ受け容れられる話だった。最悪なのは、同時に知らされたある事実――この敗北の理由。
「東ムーマ軍が邪悪魔法を行使した」
最初は誰もが「悪い冗談だ」と笑い飛ばした。イフラーンもまたそうだった。が、敗走してきた将軍だけでなく千人隊長、百人隊長、さらには一兵卒に至るまで、イフラーン自身が聞き取りをし、部下にも手分けして調査をさせ、事実関係を確認する。戦場の推移を目に見えるくらいに鮮やかに明確にする。
「東ムーマ軍が挑発してきたのでこれを追った。もちろんオルゴールは作動させていた」
「谷底のような狭隘な場所で三千程度の東ムーマ軍が待ち構えており、全軍でそれに突撃した。だが途中からオルゴールが使用できなくなった」
「敵が邪悪魔法を行使し、全軍が恐慌状態に陥って戦いどころではなくなった。さらに左右から伏兵が現れて半包囲され、散々に兵を削られて潰走した」
「戦場から脱出でき、再集結できたのは三万のうち二万足らず」
当初はレアルトラを始めとするコナハト軍首脳部もこの事実を信じなかった、信じようとしなかったが、イフラーンが理路整然とあったことだけを報告し、それを信じさせるを得なくなる――ムーマが邪悪魔法を行使したという事実を。このニュースはクルアハンだけでなく一日足らずでモイ=トゥラ全土へと広がり、さらに大陸全体を席巻した。
「どうなってるんだ?! 邪悪魔法は『導く者』が封じ込めたんじゃなかったのか?」
「判らなねぇよ、一体どうなっているんだか」
「またムーマが攻めてくるの?」
「また鉄杖党の連中に支配されるのか……?」
戦慄が、恐怖が彼等コナハト人の口を重く閉ざした。彼等は復讐に猛り、血に酔い、ムーマ人に暴虐の限りを尽くしてきた。それを可能とした圧倒的な力の優位が、もし覆されたのなら、一体何が起こるのか? 自分達がしてきたことを、再びされる側となる――たったの三年足らずで!
「女王陛下はどうなさるおつもりなのか?」
それは全てのコナハト人の問いであり、クルアハンの文官や武官もまた同じだった。将軍や大臣もまたそれを問うた。今、レアルトラの執務室にはクルアハンにいる限りの将軍や大臣が押しかけ、レアルトラに詰め寄ろうとしている。それをジェイラナッハがその巨体で押し止めているところだった。
「少しは落ち着かんか馬鹿者どもが。儂等がそのように狼狽えてどうする」
ジェイラナッハに叱責されて少しは冷静さを取り戻す将軍達。だがその顔には不満や疑問を溢れさせている。ジェイラナッハはまずため息をつき、その上で彼等を代表し、
「それで陛下……」
「ナナト様はどうされていますか?」
が、レアルトラはジェイラナッハを無視してそれを確認する。答えるのは七斗の指示でこの場にいるフリーニャである。
「研究室にこもっています。アルデイリム様もご一緒に」
邪悪魔法が使われた、という連絡を受けた七斗は「確認する」と言って即座に研究室に入り、何かに没頭しているという。
「ナナト様からは『それほど心配しなくていい』とだけうかがっております」
「そうですか」
全くあの方は、とレアルトラは半分憮然としたような顔となる。もう半分は、深い心底からの安堵だった。
「ともかく、ナナト様からお話を聞かないことには始まりません。フリーニャは研究室に行って、進捗だけでも訊いてきてください」
フリーニャが身を翻して執務室を退出する。将軍や大臣達は納得しがたい様子だったが、やがてはフリーニャに続いてぞろぞろと執務室から出ていった。ただ部屋の周囲、あるいは宮殿の周囲でそれぞれたむろし、額を寄せて何やら話し込んでいる。深刻で真剣ではあったが、それが有意義だったかどうかはまた別の話だった。
一方のレアルトラは執務室で、積み上がった書類を機械的に処理し続けている。が、やはり気もそぞろであり、効率は普段の何分の一かに低下していた。
七斗とアルデイリムがそろって参内したのはその日の夜。イフラーン軍敗北の連絡から三〇時間余りが経過していた。
七斗達が現れたことを聞いて将軍や大臣も集まり、狭い執務室は大混雑だ。その中でわずかに空間を作り、七斗は執務机に着いたままのレアルトラと向き合った。七斗の横にはアルデイリムが、レアルトラの横にはジェイラナッハが佇んでいる。
「お待たせして済みません」
「いえ、それは構いません。何か判ったのですか?」
レアルトラが話を急がせ、七斗はまず結論を述べた。
「以前にも説明したことがありましたけど、オルゴールの影響下で魔法を使うことは何をどうやろうと不可能です――でもたった一つだけ方法がありました」
「それは?」
「魔法を使えるようにオルゴールの方を調整することです」
執務室内を沈黙が満たした。レアルトラはその言葉を理解しかね、眉を寄せている。
「魔法を行使すると過去へと向かって先進波が発信されます。オルゴールは前もって特定の先進波を受信することで未来を固定し、魔法の行使を禁じる機械です。この点は何度も説明していると思います」
ええ、と頷くレアルトラ。ただ、何度聞いてもその意味は全く理解できないのだが……
「僕もこの説明を誰に何度したか、思い出せません。正直言って説明しながら『どうせ誰も理解できないだろうな』と思っていました。ムーマの間諜への対策も、オルゴール自体の防諜はこれ以上ないくらいに厳重でしたけどこの説明に関しては『どうせ誰も理解できないから』となおざりになっていたんじゃないでしょうか」
「そうかもしれません」
説明を受けたのはコナハト人だけでなくラギン人にも何人かいる。そこから情報が漏れた可能性も充分に考えられた。
「この情報をムーマは手に入れて――理解した。それを応用した。国王エイリ=アマフか、その部下の魔導士の誰かは判りませんが、彼はきっとこう考えた。『それなら邪悪魔法を使ったときに発せられる先進波を受信して、未来をそれに固定すればいいじゃないか』と」
「そんなことが……」
「そう調整したのがこのオルゴールです」
そう七斗は持参した足元のオルゴールを指し示す。全員の視線がそれに集中した。
「――待たれよ、『導く者』」
と問うのはジェイラナッハだ。
「仮にムーマのエイリ=アマフがそれを思いついたとして、そもそもオルゴールがないことには調整のしようも」
「どうにかして手に入れたんでしょうね」
七斗が軽くそう言ってジェイラナッハを絶句させた。
「エイリ=アマフとは限りませんけど、その発想に至った人は本当に本物の天才だと思います。多分ブレスなんかも足元にも及びません。僕なんか話にもなりません」
七斗の言葉には限りない讃嘆が込められていた。
「あの舌足らずな説明から対抗策を発案し、手を尽くしてオルゴールを手に入れた。でも調整は完全に総当たりな手探りですることになります」
オルゴールの回路は一三個の魔晶石の組み合わせであり、さらに魔晶石の調整は大雑把な区分だけでも優に百種類を数え、細分化していれば二千にも三千にもなるだろう。仮に百種類の調整を試すだけでもその組み合わせは百の一三乗、百兆の一兆倍。仮に一つの組み合わせを一秒で確認したとしても、三百京年かかることになる。
「まあ、魔法や魔晶石に関する知識や技術は向こうの方がずっと上ですから範囲はかなり絞れたんだと思います。その上で」
と七斗は書類の綴りを取り出した。千枚を超え、二千枚にならんとするそれは、これまでコナハト国内で作製された全てのオルゴールの台帳である。
「オルゴールは完全分業で作製していますがそれでも担当の職人さんによって微妙に違いがあります。その中でカールディという職人さんが責任者となって担当したオルゴールが何台かあるんですけど、魔晶石の調整の傾向がこれによく似ているんです」
と七斗は足元のオルゴールを指し示した。
「もしムーマが手に入れたのがそれだったなら、ほんの四つほど魔晶石を調整すれば出来上がりです。時間はさらに短縮できたものと思います」
「そのオルゴールの所在の確認を」
「既に始めています」
レアルトラの命令に打てば響くように答えるのはアルデイリムだ。
「全てのオルゴールの所在確認をさせていますが、特にこのカールディ担当のオルゴール二〇台については最優先で確認を厳命しています。そして、そのうち一台が戦場で廃棄されたことが報告に残っていました」
いつ、どこで、とジェイラナッハが問う。
「一年前、リーグ山脈で将軍シュクラードが移動中にエイリ=アマフ軍に奇襲されて該当のオルゴールを奪われそうになり、谷底に投げ捨てて破壊した、となっています」
「そのオルゴールを手に入れて、さらに一年の時間があったのなら、それを邪悪魔法用に調整することも不可能じゃないと思います」
「将軍シュクラードを拘束しなさい」
氷の剣のように鋭利な声で、レアルトラがそう命じた。
「一年前のその戦いに参加した将兵から聞き取りをしなさい。本当に、確実にオルゴールを破壊できたのかどうかを」
命令を受けた軍の高官が走って退出する。レアルトラは頭痛を堪えるような顔で深々とため息をついた。その彼女にジェイラナッハが、
「とりあえずは事実関係と責任の所在を明確にするとして」
「それ以上に重要なのは今後の対策です」
とレアルトラは七斗を促し、七斗は「はい」と頷く。
「まず、邪悪魔法用に調整されたオルゴールの影響下では、普通のオルゴールは使用できません」
特定の先進波だけを受信して未来を固定するのがオルゴールの真髄だ。先に未来を固定されればそれに対する干渉は不可能となる。
「でも逆に言えば、普通のオルゴールの影響下では邪悪魔法用のオルゴールも使用できないんです」
「ええっと、つまり?」
困惑するレアルトラに七斗は笑いかけた。
「要するに、その場所で先にオルゴールを使っていた方が勝ちってことです。だからオルゴールを並べて防御を固めさえすれば、ムーマ軍が攻め込んできたところで邪悪魔法は使えず、普通に戦うしかなくなります」
その説明が脳裏に浸透し、理解し――レアルトラは全身から脱力して椅子の背もたれに身体を預けた。それは他の将軍達も同じであり、安堵の空気がその場を満たす。
「つまりは鉄杖党の奴等が攻め込んでこようと撃退するのは容易いということか」
「良かった、また以前に戻るのかと」
と笑顔を見せる将軍達。だがジェイラナッハは弛緩した彼等に舌打ちをした。
「何を暢気な。つまりはムーマがオルゴールを並べて防御を固めればこちらから攻めることもできんではないか」
確かにそうだ、と身を引き締める将軍達。彼等を睥睨しつつジェイラナッハはアルデイリムに問うた。
「エイリ=アマフがどの程度のオルゴールを所有しておるのか、お主はどう見る?」
「あくまで推測ですが、おそらく最大でも百台に満たないかと」
アルデイリムはまず結論を述べた。
「今の東ムーマはかつてのコナハトよりも国力も財力もありますが、それでも千台ものオルゴールを作ろうとするならその総力を要するはず、そう動いたのならそれに気付かないはずがありません。コナハトに一切気付かれない範囲で、一年という時間で、『導く者』がいないという条件で作製できるのは、どんなに多くとも百台が上限かと」
彼等が手にしたオルゴールはどう考えても一台だけ。虎の子のそれを慎重に慎重に慎重に分解し、解析し、全く同じものを作り出し、その作動を確認し……量産に入れるようになるまでもかなりの時間と労力を必要としたはずだ。それを考慮すればその総数はさらに減るだろう。
「ならば、戦うのは今しかない」
声を大にして言うのは居並ぶ将軍の一人。ジェイラナッハの息子の一人である彼はその名をコールバといった。年齢は四十代、ジェイラナッハほどではないが巨漢であり、さらに横に太い男である。
「時間を与えれば奴等はその分オルゴールを揃え、東ムーマは難攻不落となってしまう。そうなる前に東ムーマに攻め込んでベン=バルベンを落とし、後顧の憂いを断つべきだ!」
コールバは血筋だけで将軍になったような男であり、レアルトラも彼のことはあまり評価していなかった。が、今の彼の言に理がないかと言えばそれは別である。将軍の多くが「確かにそうだ」と頷き、レアルトラもその提案を真剣に検討している。
「待ってください、今のムーマにコナハトに攻め込むような力があるはずありません」
七斗は声を震わせながら、それでもレアルトラにそう直言する。アルデイリムやジェイラナッハも含めた、全員の白い眼を一身に受けながらも、それでも七斗は明確に主張した。
「もうムーマからは手を引くべきです」
「東ムーマはゲアルヘームを野放しにしていて、彼はかの地で未だ国王のようにふるまっていると聞きます」
レアルトラの一言一言が氷の刃となって七斗の胸に突き刺さる。
「その彼を、鉄杖党を許せとナナト様は言われるのですか?」
「それならゲアルヘームの身柄を和平の条件としましょう」
七斗の提案にレアルトラは目を見開いた。
「コナハトは西ムーマから撤退する。ティティムを退位させてエイリ=アマフの即位を認める。その代わりゲアルヘームと鉄杖党幹部の身柄をコナハトに引き渡す――それを交渉の大前提とするんです」
ゲアルヘームとその一党はエイリ=アマフにとっては目の上の瘤だ。彼は喜んで彼等の身柄をコナハトへと引き渡すに違いない。
「今のコナハトに他国と戦争をしている余裕なんかないはずです。ムーマと和平を結んで国内の体制を整えるべきです」
「そうしてムーマに時間を与え、奴等の反撃を許すおつもりか?」
コールバが侮蔑をにじませてそう言うが七斗はそれを無視した。
「女王陛下が全国土を統治する今の体制はあまりに無理があります。かつてのモイ=トゥラは四八の領国に分けられ、領主がそれを統治していました。その体制を復活させるべきです」
声にならないどよめきがその場を満たした。レアルトラが苛烈な視線で七斗を射抜き、七斗は全身の気力を総動員してそれに対抗する。
江戸時代の日本、あるいは中世ヨーロッパと同じように、高度な自治権を有する領国を配置し、各地域の統治を委ねる――七斗のその提案は「国王の権限を大きく削って王室を弱体化させろ」と要求したのと同じであり、中央集権志向のレアルトラの意志に真っ向から反していた。だが今のコナハトの現実にどちらがより即しているかと言えば、圧倒的に七斗の方だった。
モイ=トゥラの面積は日本の四倍にも五倍にもなる。それだけの広大な領地を国王が中央集権で統治するなどそもそも不可能なのだ。かつての中国の明朝や清朝はそれを実現したとはいえ、それは高度に発達した官僚制度があってのことだし、それでも役人は腐敗を極めていた。江戸時代の日本は世界的に見ても汚職が少ないとされているが、それは地域密着型の大名が各地を統治していたからだ。七斗は「コナハトもそうなるべきだ」と言っている。
そしてその場合、各地を統治する「大名」となるのは今この場に集まっている将軍や大臣達だった。彼等が目の色を変えているのはそのためであり、七斗もまたそれを意図した。文官や武官、高官の意識をムーマとの戦争から自身の富貴栄達に向けさせることを。この提案が通って損をするのは大幅に権限を失うコナハト王室とレアルトラだけである。だが、そもそも今の体制が無理に無理を重ねた、船底に穴の空いた泥船でしかないのだ。七斗の提案は現実に即した――と言うよりはもうそれくらいやらないと二進も三進もいかない、ほとんど唯一の選択肢だと、レアルトラもまた理屈では充分に理解していた。
「……今この場で決められることではありませんが、傾聴すべき意見として伺っておきます。対ムーマ政策についても」
深いため息とともにレアルトラがそう答える。七斗もまた全身の空気を吐き出す勢いで安堵のため息を漏らす。だが、
「ですが、ムーマを攻め滅ぼすこともまた選択肢の一つ。諸将はその準備を怠らないようにしてください」
レアルトラが刃を振るうように視線で全員を薙ぎ、一同はその身をすくませた。




