第2話 誰も失敗できない場所
朝議の場は、静寂そのものだった。
第三広間は高い天井と長い楕円卓を持ち、声がよく通るよう設計されている。だが今は、誰一人として無駄な音を立てていない。
発言しているのは北方同盟の使節だった。
「……以上が、我が同盟の提案でございます」
丁寧な言葉遣い。だがその声には、わずかな緊張が混じっていた。
当然だろう。
この場において、発言の一つ一つがそのまま国益に直結する。
そして何より——
その視線の先にいるのは、リシェルだった。
彼女は王太子の斜め後ろ、わずか半歩引いた位置に立っている。
それは王太子妃候補として、最も適切とされる立ち位置。
主導権を奪わず、しかし全体を把握する場所。
リシェルは、静かに口を開いた。
「提案内容の第三項ですが、関税率の調整について一部不整合があります」
使節の肩がわずかに揺れる。
「……不整合、でございますか?」
「ええ。昨年締結された暫定協定では、同種の品目に対して既に優遇措置が適用されています。今回の案では、それが重複しています」
言葉は穏やかだが、逃げ道はない。
使節は手元の書類に目を落とし、数秒、沈黙した。
「……ご指摘の通りです。こちらの確認不足でした」
「いえ、調整の余地があるということです。修正案を提示していただければ、再検討可能でしょう」
フォローも同時に入れる。
潰すのではなく、整える。
それが彼女のやり方だった。
だが、その“正しさ”は、時に鋭すぎる。
使節が深く頭を下げると、場は再び静まり返った。
誰もが、次に何を言うべきかを慎重に選んでいる。
不用意な発言は許されない。
誤りは即座に指摘される。
それは、この場において当然のことだった。
——そして、それが“当たり前”であることに、疑問を持つ者は少ない。
リシェルは次の資料に視線を落としながら、淡々と進行を確認する。
時間通り。
議題も順調。
問題はない。
そう、すべては予定通りに進んでいた。
隣で、カイルが口を開く。
「では、次の議題に移ろう」
声は落ち着いている。
だが、その直後——ほんのわずかに、間があった。
言葉の“継ぎ目”が、不自然に空いた。
誰も気づかないほど小さな違和感。
だがリシェルは、それを捉えていた。
——疲労かしら。
一瞬そう考え、すぐに結論を出す。
影響はない。
進行に問題がない以上、優先度は低い。
彼女は視線を資料に戻した。
商業都市連合の代表が発言を始める。
「本件に関して、我々は——」
言葉は流れるように続く。
だがその裏で、空気は張り詰めたままだった。
誰もが“正解”を求めている。
間違えないこと。
最適であること。
それが、この場の前提だった。
議論は続き、やがて結論へと向かう。
最後に、カイルがまとめる。
「——以上の条件で合意とする。異論は?」
沈黙。
誰も口を開かない。
それは同意の証であり、同時に——
反論の余地がないことの証でもあった。
「……よし、これで決定だ」
議事は終わった。
整然と、完璧に。
誰一人として、大きな失敗はしなかった。
リシェルは内心で頷く。
——問題はない。
すべては最適だった。
だがその時、隣から小さく息を吐く音が聞こえた。
カイルだった。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほどの、微かな吐息。
だが、それは確かに——安堵のようにも、解放のようにも聞こえた。
リシェルはそちらに視線を向ける。
「殿下?」
「……いや」
カイルはすぐに表情を整え、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「何でもないよ。よくまとめてくれた」
「当然のことです」
リシェルは淡々と答える。
その言葉に、嘘はない。
だがカイルは、一瞬だけ言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「……君がいると、本当に助かる」
「光栄です」
短く返す。
それで会話は終わるはずだった。
だが——
カイルは続けた。
「ただ……」
そこで、また止まる。
言葉が続かない。
リシェルは待つ。
沈黙を埋めることはしない。
必要なら、相手が言うべきだと考えているからだ。
数秒の間。
そして、カイルは小さく笑った。
「いや、やっぱりいい。忘れてくれ」
「承知しました」
それ以上は問わない。
問う必要がない。
すべては問題なく進んでいる。
議事は成功し、外交も滞りなく終わった。
誰もが満足する結果。
——それで十分なはずだった。
だが。
広間を後にする人々の背中は、どこか固かった。
安堵しているはずなのに、解放されたようには見えない。
緊張が解けきらないまま、形だけ整えられたような空気。
リシェルはそれを見て、わずかに眉をひそめる。
——なぜ?
原因を探ろうとして、すぐにやめた。
非効率だ。
問題が顕在化していない以上、優先すべきではない。
彼女は思考を切り替える。
次の予定へ。
昼の謁見、午後の書簡処理、夕刻の晩餐。
すべてはすでに整理されている。
狂いはない。
——問題はない。
そう結論づけて、歩き出す。
だがその背後で、誰かが小さく呟いた。
「……あの方の前だと、息が詰まる」
声は極めて小さく、誰にも届かないはずだった。
だがリシェルの耳には、かすかに届いていた。
足が止まる。
ほんの一瞬。
振り返ることはしない。
ただ、前を向いたまま考える。
——それは、誤りだ。
正しく整えられた場に、息苦しさなどあるはずがない。
あるとすれば、それは——適応できていない側の問題だ。
そう、結論づける。
そして再び歩き出す。
その判断が、どれほど多くのものを見落としているのかも知らずに。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しずつですが、「完璧であること」の違和感が滲み始めています。
この違和感が、次話で大きく動き出します。
もし「この先どうなるのか気になる」と思っていただけたら、
ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。
次話では、王太子の“本音”がわずかに見え始めます。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




