第1話 王太子妃候補としての一日
この物語は「婚約破棄」から始まりますが、
いわゆる“ざまぁ”や復讐の話ではありません。
「なぜ関係は壊れるのか」
「正しさだけではなぜ足りないのか」
そんな部分を、仕事を通して少しずつ解き明かしていく物語です。
ゆっくりですが、確実に積み上がっていくタイプの作品なので、
気に入っていただけたらブックマークして追っていただけると嬉しいです。
朝は、静かに始まる。
まだ陽が完全に昇りきる前、王宮の回廊には薄い光が差し込んでいた。磨き上げられた石床に映るそれは、まるで誰かが計算して配置したかのように均整が取れている。
リシェル・アルヴァーレンは、その光の上を正確な歩幅で進んでいた。
「本日の謁見は第三広間です。外交使節の順序は、北方同盟が先、その後に商業都市連合。書簡はすでに精査済みです」
控えていた侍女にそう告げると、彼女はわずかに目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「……さすがでございます、リシェル様。まだ朝議の前だというのに」
「当然のことよ。遅れては意味がないわ」
声は穏やかだが、そこに曖昧さはない。
肯定も否定も、すべてが“正確”だった。
回廊を抜け、控えの間へと入る。すでに数名の侍女が待機しており、彼女の姿を見るや、整然と動き始めた。
「ドレスの最終調整を。袖口、三ミリ長いわ」
「は、はいっ……!」
一瞬の逡巡。だがリシェルはそれを見逃さない。
「先日の採寸記録を確認したの? 記録と実測がずれているのは、管理の問題よ」
責めるような口調ではない。ただ事実を述べているだけ。
だが、それが逆に逃げ場をなくす。
「申し訳ございません……!」
侍女は顔を青くして頭を下げる。
リシェルは一拍だけ間を置き、淡々と続けた。
「やり直しなさい。今からでも間に合うわ」
それ以上は言わない。
だが、十分だった。
部屋の空気がわずかに張り詰める。
誰もが音を立てぬように、息を潜めて動いている。
リシェルはそれを確認し、小さく頷いた。
——問題はない。
すべては整っている。
時間も、人も、段取りも。
それが彼女の仕事だった。
王太子妃候補として、王宮の秩序を保つこと。
それは華やかな地位であると同時に、徹底した管理の役割でもある。
感情ではなく、判断で動く。
曖昧さを排し、最適解を選び続ける。
そのために、彼女は育てられてきた。
扉が叩かれる。
「リシェル様、王太子殿下がお見えです」
「お通しして」
扉が開き、カイルが姿を現す。
王太子としての正装。だがどこか、僅かに肩の力が抜けているようにも見えた。
「おはよう、リシェル」
「おはようございます、殿下。本日の議題はご確認済みでしょうか」
「ああ、目は通したよ。……相変わらず、抜けがないね」
軽く笑う。その声音は柔らかい。
だがリシェルは、そこに含まれるわずかな違和感を捉えていた。
「当然です。抜けがあれば、国家に損失が出ます」
「……そうだね」
短い沈黙。
カイルは視線を逸らし、窓の外へと目を向けた。
その仕草は、ごく自然なもののはずだったが——
「殿下?」
「ああ、いや……なんでもない」
再び笑う。今度は、少しだけぎこちない。
リシェルは一瞬だけ考え、そして結論を出す。
——問題はない。
議題に影響する様子ではない。
ならば優先すべきは、進行だ。
「本日の外交使節ですが、北方同盟は譲歩を引き出す可能性があります。発言順は私が調整いたします」
「君がそう言うなら、その通りにしよう」
即答だった。
信頼。
あるいは、依存。
どちらとも取れるその言葉に、リシェルは特に感情を動かさない。
「では、そのように」
淡々と返す。
再び沈黙が落ちる。
不自然なほどではない。
だが、完全に自然とも言い切れない、わずかな“間”。
カイルが口を開きかけ、そして閉じる。
「……リシェル」
「はい」
呼ばれれば応じる。
それは当然のこと。
だが次の言葉は、出てこなかった。
代わりに彼は、苦笑を浮かべる。
「いや、やっぱりいい。後で話そう」
「承知しました」
リシェルは頷く。
それ以上を求めない。
求める必要がない。
すべては順調に進んでいる。
今日もまた、滞りなく終わるはずだった。
——そう、思っていた。
窓の外では、朝日が完全に昇りきっていた。
光は強く、影をくっきりと浮かび上がらせる。
その中で、リシェルはほんのわずかだけ、違和感を覚えていた。
だがそれは、言語化するほどのものではない。
ただの誤差。
無視しても問題のない、些細な揺らぎ。
だから彼女は、それを切り捨てた。
——問題はない。
そう判断して。
そして、その判断こそが、後にすべてを崩すことになるとは、まだ知らなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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この物語は、ただの婚約破棄では終わらず、
“壊れた後の人生をどう選び直すか”を丁寧に描いていきます。
次話では、王太子との関係に少しずつ“違和感”が表面化していきます。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




