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第39話 動かない戦い

黒い円壇の中央に、二人が立っていた。


風はない。


空は春先みたいに青く、明るいのに、どこか遠かった。


足元には浅く水が張っている。

その水もまた、流れず、騒がず、ただ静かに空を映していた。


亀田幹雄は、ゆっくりと相手を見た。


大きい。


それが第一印象だった。


背が高いというより、存在そのものが大きい。


鯨井亮太は、声もなくそこに立っていた。

肩幅が広い。

息が深い。

何もしていないのに、円壇の空気が少しだけ変わっている気がする。


幹雄は小さく息を吐いた。


「大きな人ですね」


亮太は少しだけ目を動かした。


「……あんたは、落ち着いてるな」


低い声だった。


責めるでもなく、感心するでもない。

ただ、そう見えたことを口にしただけの声。


幹雄は苦笑する。


「慌てても、若返りませんから」


亮太の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑ったのかどうかも分からない程度だった。


沈黙が落ちる。


だが、気まずくはない。


互いに、もう分かっていた。

ここがどういう場所で、これから何をするのか。


黄泉前。

生と死の境界。

勝てば願いが叶い、負ければ消える。

そのルールは、円壇に上がった瞬間、頭の奥に流れ込んできていた。


亮太が言う。


「始めるか」


幹雄はうなずいた。


「そうですね」


その返事の直後だった。


亮太が一歩、踏み込んだ。


ドン、と音がした。


ただ足を前に出しただけなのに、円壇の水面がわずかに揺れる。

空気が重くなる。


幹雄は目を細めた。


(これは……)


水の中に入った時に似ていた。

動こうとすると、見えない抵抗が全身にまとわりつく。

遅くなる。

呼吸まで深く、重くなる。


亮太はそのまま、まっすぐ近づいてくる。


急がない。

だが遅くもない。


避けよう、という気持ちはあまり湧かなかった。

幹雄はただ立っていた。


亮太の腕が動く。


大振りではない。

けれど重い。

ためらいのない一撃。


拳が、幹雄の肩口に落ちた。


鈍い音が響く。


足元の水が跳ねる。


普通なら、それだけで体ごと吹き飛ぶような打撃だった。


だが。


幹雄は、その場に立っていた。


少しだけ体が揺れた。

それだけだった。


亮太の目が、初めてはっきりと動く。


「……効いてないな」


幹雄は肩をさすった。


「痛くないわけではありませんよ」


「そうは見えない」


「年を取ると、痛がるのも下手になるんです」


亮太は何も言わない。


代わりに、今度は逆の拳を振るった。


二撃目。


三撃目。


四撃目。


拳が落ちるたび、水が跳ね、黒い床が鈍く鳴る。


それでも、幹雄は倒れなかった。


受けているというより、そこにいる。

ただそれだけで、攻撃が終わっていくようだった。


幹雄の周囲だけ、時間の流れが少し緩んでいるようにも見える。


亮太は一歩引いた。


深く息を吸う。


円壇の空気がさらに重くなる。


その背後に、海のような影が揺れた気がした。


幹雄は静かに見ていた。


(この人は、優しい人だ)


不意にそう思った。


優しいからこそ、ここまで重い。

優しいからこそ、自分のことより、確かめたいことがあるのだろう。


亮太が低く言う。


「……倒れないのか」


幹雄は少し考えてから答えた。


「そういう役回りらしいです」


「厄介だな」


「ええ。自分でもそう思います」


少しだけ間が空く。


亮太の目は、幹雄ではなく、その向こうを見ているようだった。

向こう岸。

鳥居の影。

光の差す先。


そこに答えがあるとでもいうように。


幹雄は聞いた。


「急いでいるんですか」


亮太はすぐには答えなかった。


やがて、視線を戻し、短く言う。


「……知りたいことがある」


幹雄はうなずいた。


それで十分だった。


人が急ぐ理由なんて、たいていそれほど複雑ではない。


守れたのか。

間違っていなかったのか。

無駄じゃなかったのか。


この場所に来る者は、みなそんな問いを抱えている。


亮太が再び構える。


さっきまでより、少しだけ深く。


「もう一回いく」


幹雄は答える。


「はい」


その声は穏やかだった。


まるで授業の続きを促す教師みたいに。


そのことが、亮太には少しだけ不思議だった。


相手は自分より年上だ。

弱そうにも見える。

だが、折れる気配がない。


亮太は踏み込む。


円壇の空気が沈む。


深海みたいな重さが広がる。


それでも幹雄は動かない。


逃げない。


構えもしない。


ただ、そこに立っている。


その異様さに、亮太はようやく気づき始めていた。


この老人は、鈍いのではない。


この老人は――


倒れない。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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