第一話 私の婚約者、モラハラじゃない?
「どちらが上か分からせておこうと思って」
あれは私ビアンカ・ライエンとエリーアス・ゲルデルンとの婚約が決まって1ヶ月した頃だった。
婚約者のエリーアスの屋敷を訪ね、ふたりで広い庭を散歩していた時、彼は突然お得意の水魔法を私に思い切り浴びせかけたのだ。
頭からつま先まで、突然びしょぬれになった私。
何が起きたのかと目をぱちくりさせていると、彼はせせら笑いながら「正式に婚約したからには、どちらが上か分からせておこうと思って」と言い放ったのだ。
「エリーアス……様? どういうことですか?」
私は何か彼に対して粗相をしたのかと思ったが、そうではなかった。
「だから、俺が上で、お前が下。俺の言うことに意見はするな」
彼に水魔法を浴びせられる直前、彼が少し鈍くさい男子生徒の悪口を言ったのを私は少し咎めたのだが、それが良くなかったらしい。
咎めたと言っても「人には得意不得意がありますから、そういう言い方はかわいそうですわ」とやんわりと言っただけなのだ。
それなのに、この仕打ち。
その日のために新調した水色の新しいドレスは、見事に濃い青色へと変化し、ふんわりとしていたシルエットは体にぴったりと張り付いている。
それから、エリーアスが私を虐げる日々が始まったのだ。
エリーアスはずっと私を下に見ていた。
私を自分より劣った存在だと決めつけ、少しでも気が立てば舌打ちし、私の交友関係など意味のないものだとバッサリ切り捨てるように言い続けた。
そんな生活が2年も続いた。
もう限界。
両親に相談したが、ことなかれ主義の父は毎回「エリーアス様はたまたま気が立っていただけだよ」と言うだけだし、母は「夫を上手く操縦するのが妻の務めです」とにこやかに言うばかり。
私の悩ましい日々が解決することはなかった。
だから、私は死ぬことにした。
世間で劇薬だと言われている薬を、こっそりと何種類か買い集め、死ぬときに苦しくないように幻覚作用のある魔草も取り寄せた。
王立学園の生徒である私にとって、親に内緒でこれらを用意するのは大変骨の折れる作業だった。
集めた劇薬たちを混ぜると、ツンと鼻を刺激する匂いが立ち昇った。
けれど、ここでひるむ訳にはいかない。
私はその薬を一気に喉の奥へと流し込んだ。
途端に、まるで炎で焼き尽くすかのような強い刺激が鼻の奥を襲う。
同時に信じられないような苦さが、舌をビリビリと痺れさせた。
喉の奥を伝う劇薬たちが腹に落ちきる前に、心臓はバクバクと暴れだし、全身から血の気が引くような感覚が私を襲った。
喉を通り過ぎた劇薬は、次第に腹の中で渦を巻くように暴れだし、全身から冷や汗が吹き出す。
苦しいっ……!
でも、婚約者のエリーアスに蔑まれ続けた日々に比べたらずっとマシ。
これでやっとあの苦しい日々が終わる——と安堵しかけたその時。
ふいに、頭の中に私の知らない世界の映像が駆け巡りだした。
黒い襟のジャケットに、膝上でまっすぐに切りそろえられたスカート。
私を叱責する、年かさの男。頭を下げ続ける自分。
高い塔のような建物の中に帰りつき、ドアを開けたところで倒れ込む。
私の意識はそこで途切れた。
——これはもしや、私の前世の記憶じゃない⁉
そうだ、思い出した。
私は、前世でブラック企業に勤めていた。
毎日繰り返される叱責、日付を跨いでも終わらない業務量。
なんとかタクシーで自宅マンションに帰り着いた私は、玄関で倒れ込むようにしてそのまま気を失った。おそらく、そのままそこで死んだのだ。
その後、きっとこの世界に転生したのね。
私はユーリヒ侯爵家の長女として生を受け、ビアンカという名前をつけられた。
しかし両親は私に興味がない。彼らの興味は、長男である弟に一心に注がれているのだ。
私はエリーアス・ゲルデルン侯爵令息と婚約した上で、王立学園で学生生活を送っていた。18歳の私は、卒業が近い。
けれど、卒業したらエリーアスの元へ嫁ぎ、今以上に苦しい生活が待っているのは明白だった。
そうなる前に命を断とうとしたタイミングで、前世を思い出したのだ。
エリーアスから受けた屈辱の日々……これって、前世で言うところのモラハラってやつじゃない?
私がモラハラに甘んじる理由なんてなくない?
今の自分であるビアンカの気が弱く、要領が悪いのが原因だと思ってたけど、そうじゃない。
悪いのは明らかにモラハラをしてくるエリーアスだ!
私はぐるぐると視界が回る中、半ば這うようにしてトイレに駆け込んだ。
そこで、便器を抱えて盛大にえづく。飲み込んだ劇薬たちを全て吐き出すのだ。
全てを思い出した今、ここで死んでたまるか!
モラハラに屈してたまるか!
前世も今世もモラハラに苦しめられたのは不運だったと思う。
でも、まだやり直せるはず!
私は薬を少し吐き出したあと、また這うようにしてベッドサイドまで移動し、そこに置いてあったベルを鳴らした。
その音を聞きつけたメイドが扉の向こうから呼びかけてくる。
私は息も絶え絶えに口を開いた。
「お医者様を呼んで頂戴。間違えて、薬をたくさん飲んでしまったの。でも私は……ここで死ぬ訳にはいかないから……!」
まだ死ねない。
モラハラ野郎エリーアスに一矢報いるまでは!
本日は第四話までアップします。




