前篇
それは、噂通りの場所にあり、そして噂通りとても異質だった。
細く昏い路地の奥。幾重にも折り重なる高いビルの合間を縫った先。鈍い灰色だけで構成された景色の果てに、その店はあった。赤い三角屋根に、白い壁。四隅は臙脂色の煉瓦で縁取りされていて、扉の横にはイギリスパンのような形の窓がついているものの暗幕でもかけられているのか、真っ暗で中を窺うことが出来ない。童話の世界から突然降ってわいたようなメルヘンめいたその建物は、まるで何十年もずっとそこにあったといった風情で静かに佇んでいる。
「物語屋……」
扉に下げられたプレートに書かれた文字を反射のように呟くと、少女はいぶし銀色の丸いドアノブに手をかけた。
「えっ……なにこれ、真っ暗」
木製の可愛らしい作りに反して少女の力では少し重く感じる扉を引き開けると、中は入口から差し込む僅かな光以外に光源の無い、塗り潰したような暗闇だった。やがて、明暗差で眩んだ目が徐々に慣れてくると、よくよく目を凝らせば奥にごく僅かな灯りがあることに気付いた。
密かに胸を撫で下ろし、遠い光源を目指してゆっくり歩を進めていく。足元になにがあるのかもわからない暗闇の中をすり足のように進んでいるためか、見えている以上に灯りが遠く感じた。やがて近付くにつれ、灯りの周辺が見えるようになってくる。まず目に入ったのは大きな木製の机。そしてその奥に座って頬杖をついている白髪の少年。見た瞬間は人形かとも思ったほどに整った顔立ちをしているが、数歩前まで近付くと、伏せた目が瞬きをしているのが見えた。
あれが店主だろうか、と観察しながら机の傍まで歩み寄る。しかし、少女が机の端に手を置いても尚、ここの従業員と思われる白髪の少年は応対をするどころか顔を上げる素振りすら見せない。
「あの、すいません」
至近距離で声をかけると漸う顔を上げ、純白の長い睫毛に縁どられたアクアマリンの瞳が真っ直ぐに少女を捉えた。
「……なにか」
「え……なにって、ここ、物語屋でしょ?」
面食らった様子の少女の問いに、少年はゆるりと頷いて見せた。
「そうだけど」
それがなにか、とでも言いたげな眼差しに、少女は僅かな苛立ちを覚えた。物を売る立場でありながら接客をする気の感じられない態度に、語気を荒げて詰め寄る。
「だから、物語を買いに来たの! つまりあたしは客なんだけど。ていうか、あたしのこと知らない? いま色んなとこで話題になってる女子高生作家聖恋なんだけど」
机に打ち付ける勢いで手をついて身を乗り出し、女子特有の甲高い声を惜しげもなく投げつける。しかしそれでも返ってきたのは至極淡々とした眼差しのみ。
「そう。それで、どんな物語がほしいの」
最早怒る気力も無くし、大袈裟に項垂れて見せる。少女の芝居めいた仕草にも一切の反応を見せず、橙色のランプに照らされた双眸はじっと答えを待っていた。
少女は大袈裟に溜め息を一つ吐くと、前のめりだった体を起こして口を開いた。
「じゃあさ、恋愛小説ってある? 女の子だったら誰でも憧れるような甘酸っぱい恋のお話! 学園もので、女の子が主人公で、入学早々色んなイケメンにモテるんだけど、最後にはかっこいいドSな先生と恋に落ちるやつ!」
一気にまくし立てた内容を聞いているのかいないのか無機質な視線だけが注がれる。
「……あのさあ、聞いてたぁ?」
呆れを前面に押し出した声にも何の反応も見せず、少年はただ淡々と「ええ」とだけ答え、再び暫しの沈黙が流れる。
「……ところで、どちらを優先すればいいかな。誰もが憧れると言ったけれど、貴方の言う安っぽい恋愛ごっこに憧れる人はそう多くないように思う。それで、後者の展開を優先するなら誰もが憧れる甘酸っぱい恋愛という要望には応えられない。矛盾が過ぎるものはせめてどちらかにしてもらわないと」
少女は暫く、なにを言われたか理解出来なかった。言葉の意味を理解したときには、焼けるような怒りと悔しさが胸の奥から涙となって溢れていた。
「安っぽいとか、客に対して言うことなの!?」
やっと言葉になった反論は、少年に対し何の効果も示していないとその表情が語っている。それでも言わずにはいられなかった。
「いいから売ってよね! こっちは客なんだから、言われた通りの物語を用意するのが物語屋なんでしょ!? 高校生と先生の恋愛もの! わかる?」
「……そう、わかった」
少女の悲鳴じみた主張を平坦な声で流すと、少年は徐に立ち上がり机の傍から離れ、壁際と思われる少女から見て右手奥へと消えていった。というのも、唯一の光源を机に置いたままであるため、どこでなにをしているのか窺い知ることが出来ないのだ。
数歩ばかり硬質な足場を上る音がし、続いて紙束の擦れる音がして、再び足音が数歩下って来る。床は端までカーペット敷きなのか、最後の一歩と机に戻って来る音は同じ材質の柔らかな足音だった。
「これでいいかな」
机の上に置かれたのは四百字詰めの原稿用紙の束。紐で閉じられているでもなくただ重ねただけのそれは、誰かが書いたものをそのまましまっておいたかのように見える。
「見ていいの?」
「どうぞ。あとから思ってたのと違うって返されても困るし」
「あっそ。じゃ、遠慮なく」
前屈みになり、ランプの灯りを頼りに原稿用紙をめくっていく。その内容は、少女の要望通り女子高生と教師の恋愛を描いたもので、教師と結ばれるまでに何人か同級生や先輩後輩に好意を向けられるシーンも描かれていた。
「なんだ、ちゃんとあるじゃん。で、これいくら? つってもあたし高校生だからさ、印税もらってるって言ってもカードとか持てないし、お財布の中身は大したことないんだけど……あとで振り込むとか?」
「いや、代金はもらってないよ。必要なのは対価。代償って言ってもいいけど」
「は……?」
予想もしていなかった言葉に、少女は間の抜けた声を返して文字通り固まった。その反応を意にも介さず、少年は傍らのランプを机の端に寄せると、引き出しの中から厚い紙束を取り出した。先の少女に渡した原稿用紙の束とほぼ同じ枚数と思われる、無地の原稿用紙だ。
「物語の対価は物語じゃないと釣り合わないからね。貴方の中にある物語を対価としてもらうよ」
益々意味がわからないと言いたげに眉を寄せ、少女は首を傾げて少年を見下ろす。
「物語……って、そんなの書けるならわざわざこんなとこ来たりしないし、だいたい、どうやって渡すっていうの? こんな暗いとこで書かせて、買った分を書き終わるまで帰さないとかいうわけ?」
「まさか。ただ、許可を出してくれればいいよ。物語の対価として、物語を差し出す。その許可さえもらえればあとはこっちで全部やるから」
淡々と答えながら、少年は紙束の一番上を指先でトントンと叩いて見せた。そこにはサインを書くための罫線が引かれていて、少女の視線が指先に向くと傍らに見るからに上等そうな万年筆を置いた。
「君の中の物語を対価に。契約の意思があるならサインをここへ。別にペンネームでも構わないよ。君の意思で君の名として記すのであれば何でもいい」
「ふーん……」
少女はもったいぶって逡巡するふりをし、ゆっくりと万年筆を取ってサインをした。
――瞬間。目の前の景色が大きく歪んだかと錯覚するほどの眩暈を覚え、少女は机に片手をついて堪えた。その一瞬に自分がこれまで歩んできた人生が走馬灯のように頭の中を駆け抜けていくのを感じたが、一つ息をついたときにはそれが何であったのか全くわからなくなっていた。
「いまの……なに……?」
困惑を露わに、少女が呟く。
「対価を受け取っただけ」
原稿用紙の束を引き取りながら、少年が答える。
「それが対価? 真っ白な紙だったけど、なにか変わったの?」
「見るならどうぞ。渡すことはできないけれど」
一枚目のサインだけが書かれた紙を少年が捲って中を見せると、中には一人の少女の人生を描いたノンフィンクションものと思われる小説……エッセイに分類されるものが書き記されていた。手書きのようでいてどこか機械めいた字体で、小学校の頃に作文を親に褒められ、コンクールで入賞し、物語を作る喜びを知った少女が小説家を目指して紆余曲折、時折挫折も味わいつつ、ある日携帯専用ウェブサイトを運営している会社が書籍化を景品として携帯小説を募集。応募した作品が見事選ばれ、女子高生作家として華々しくデビューする。ありきたりではあるが、安心感のある成功譚だ。
「これが……どうして対価なの……? あたし、こんな話全然知らないし書いたこともないけど……こんなのでいいの?」
半ば呆然とした様子で問う少女に、少年は今度こそ紙束を机にしまいながら頷いた。
「問題ないよ。約束通り、それを持って行って」
少年の手元と自分が胸に抱いていた原稿用紙の束とを交互に見て、僅かに俯いてから少女は「そうする」と覇気のない声で呟くと、踵を返した。
さくさくと絨毯を歩く音が遠ざかり、木製の床らしき硬質な足音に変わると、やがて扉が開く微かな番の音が外からの光を伴って細く伸び、少女の短いスカートがひらりと外へ消えていった。




