第十七話 取引
第十七話 取引
朝の空気は、いつもと同じ匂いなのに、胸の奥だけが少しざわついていた。
家の戸口で荷物を確認する。
干し肉を詰めた袋、薬草を入れた小さな包み。腰にはナイフをぶら下がっている。
今日は、集落の外へ出る。「正式に」出るのは、これが初めてだった。
「アイト、準備できた?」
ユイリーがいつもの調子で声をかけてくる。
「うん。たぶん、忘れ物はない……はず」
「うんうん、ならよかった」
少し緊張していたが、ユイリーがいつもの調子でいてくれてるおかげか、肩の力が少し抜ける。
俺にとっては、集落での暮らしが始まって以来初めての「新しい仕事」だ。やはり多少は緊張もする。
「それじゃ行こっか。リオンお兄ちゃん待たせたら悪いし」
ユイリーはそう言うと先に歩きだした。
俺は荷物を背負い直し、その後に続いた。
◇
待ち合わせの場所ーー森の中に入る集落の出口の前にリオンと先に出ていっていたレンが立っていた。
リオンは背には弓、腰には短剣。フードを目深に被った姿は、いつもと少し違って見えた。
人間に耳を見られるわけにはいかないから、森の外では基本的に顔を隠すことになっている――そう聞いていたけれど、実際にその姿を見ると、改めて「外に出るんだ」と実感させられる。
「荷物はそれだけか」
「はい。干し肉と薬草を入れてあります」
布袋を軽く持ち上げて見せると、リオンは一度だけ視線を落として中身を確かめるような仕草をした。
「いいだろう。今日の目的は、いつもの村まで行って取引の様子を見てもらうことだ。
まずは勝手を学んでもらう」
いつも通り淡々とした言い方だった。
まずは勉強から。これからもっと踏み込んだ取引をするにしても勝手はわかっていなければいけない。
まだ右も左もわからない。だから今回の取引をしっかり見て学ぶ。まずはそこからだ。
そんなことを考えていると、ふと何かに気付いたようにレンが近づいてきた。
「……ナイフの紐、少し緩んでる。落としたら面倒だから、ちゃんと結びなさい」
ぶっきらぼうな言い方なのに、指先は丁寧だ。
「ありがとう」
「礼なんかいいわ。さっさと行って、さっさと帰ってきなさい」
そっぽを向いたまま言い捨てるレンに苦笑いが漏れる。
相変わらずの態度だが、きっと彼女なりに心配はしてくれているのだろうと勝手に思うことにした。
フィーレアは、学舎の子どもたちを連れてきてくれたらしい。
いつのまにか集落の端には、ちょっとした大所帯が出来上がっていた。
ココが「アイト、がんばってー!」と元気に手を振っている。
ほかの子どもたちも、それにつられるみたいに腕をぶんぶん振ったり、「がんばれー!」と口々に叫んだりしていた。
「子どもたちに、お土産話をお願いしますね」
フィーレアは、穏やかな笑みのままそう言った。
今回はあくまでもお試しの取引だ。ちょっと大袈裟すぎる見送りな気もしたが、悪い気はしなかった。
「はい。何も起きなければ、それはそれで平和な話になりますけど」
「それが一番ですよ」
短い会話を交わして、リオンが外へ通じるほうへ向き直る。
「そろそろ行くぞ」
集落と森の境目に、小さな獣道の入口がぽっかり口を開けている。
外へ出ていくときは、いつもここを通る――そんな暗黙の「出口」だった。
そのいつもの出口が、今日は「集落の外」への道の始まりに見える。
「それじゃ、行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
ユイリーはいつものように笑ってそう返してくれた。
ひとつ息を吸ってから、俺はリオンの後ろに続いた。
◇
森の中の道は、いつもより長く感じられた。
獣道はところどころ細くなり、斜面は少しずつ急になっていく。
木々の間を縫うように、リオンが迷いなく足場を選んで進んでいく。
「この先に、いつもの村がある。狩人が塩を手に入れている場所だ」
歩きながら、リオンが簡潔に説明する。
「どんな村なんですか?」
気になって、思わず問い返した。
「年寄りばかりの村だ。若者は街に出稼ぎに行くらしい。そのせいで寂れたようだ」
元いた世界でもよくある話だ。
いわゆる限界集落というやつかもしれない。
「俺たちにとっては、好都合だがな」
リオンは続ける。
「若者に比べれば、年寄りの方が警戒心は薄い。怪しまれるリスクも低くなる」
たしかに、若者相手の取引に比べれば、警戒はされにくいのかもしれない。
今まで何事もなく続けてきたやり取りらしいし、実績が「安全性の証明」になっていると言えるだろう。
「いつもそこで物々交換を?」
「ああ。長年の恒例行事だ。取引の勝手も互いに既に確立している」
新しい取引の余地はないと遠回しに言われた気がした。向かう先が限界集落であればおそらく経済的な余裕もないのではないだろうか。
そうなると目的としている金銭の獲得は厳しいかもしれない。
足元の枝がぱきりと折れる。
遠くで小さな鳥が鳴いて、葉の擦れる音が重なる。
森の匂いは、いつもと同じだった。
ただ、その先に「森ではない匂い」が待っていると思うと、胸の奥が少しざわつく。
「疲れたら言え」
前を行くリオンが、ふいにそう言った。
「村までは、もう少しかかる。俺一人なら問題ないが、今日はおまえも一緒だ」
「大丈夫です。まだ歩けます」
そう答えながら、足の裏に伝わる土の感触を確かめる。
畑仕事で慣れてきたつもりでも、森の斜面を長く歩くのは、また別の種類の疲れ方だった。
リオンが言うには道のりは遠そうだ。
両頬をはたき、俺は気を引き締め直した。
◇
斜面をひとつ越えたところで、リオンが足を止めた。
「見えてきた」
木々の間、少し開けた先に、土の屋根がいくつか見えた。
森の端に寄りかかるようにして、小さな村が広がっている。
村の中は、静かだった。
土と木の家が疎らに並び、畑は痩せた土にわずかな作物を植えている。
井戸のそばに老人が数人集まっていて、腰をかけたままゆっくり話していた。
子どもの姿は、ほとんど見えない。
リオンが言っていた通り、寂れた村のようだ。見える範囲に若者は一人もいない。
「ここが、いつもの村だ」
リオンが短く告げる。
俺たちの姿に気付いた老人のひとりが、目を細めて立ち上がった。
「おお、行商の方々か。今日はずいぶん早いな」
リオンから事前に聞いていたが、ここでは行商人と偽って取引をしているようだ。
まさか自分から獣人です、森から来ましたなどとは口が裂けても言えないのだから仕方ないのだろう。
灰色の髪をひとつに束ねた、その年寄りが近づいてくる。
しわだらけの手と、日焼けした顔。その目には、森を見ることに慣れている人間の光があった。
リオンが一歩前に出て、いつものように頭を下げる。
「塩を分けてほしい。干し肉と薬草を持ってきた」
「そうかそうか。こっちだ」
老人はゆっくり歩き出し、村の一角にある小さな物置小屋へ案内してくれる。
俺は、その後ろで布袋を抱え直した。
これが、集落と外の世界を繋いでいる「いつもの取引」。
その場に、人間として立っていることを意識すると、手のひらに少し汗がにじんだ。
◇
物置小屋の中には、粗末な棚がいくつか並んでいた。
壺に詰められた塩。
麻袋に押し込まれた小麦粉。
木箱に積まれた少しの干し魚。
どれも、数は多くない。
「今日は、どれくらい欲しい?」
老人が壺のほうを顎で示しながら尋ねる。
「前と同じだ。塩を一壺、あとは少しだけ小麦を」
リオンが淡々と答える。
「干し肉と薬草は?」
「ここだ」
俺はタイミングを見計らって、一歩前に出た。
布袋を開いて、干し肉の入った包みを取り出す。薬草の束も、その隣に並べた。
「おや、そういえばそちらの方は見かけない人だねー。黒い髪とは珍しい」
老人が、俺の顔をちらりと見て、そう言った。
言われてみれば獣人にも黒髪の人は見かけたことはない。もしかしたらこの世界では黒髪は珍しいものなのかもしれない。
「こいつは、取引の新人だ。今日は勝手を覚えさせるために連れてきた」
「そうかそうか。これからお世話になるやもしれんね。よろしく頼むよ」
老人は、ひとりごとのようにそう言って、干し肉を手に取った。
指で押して硬さを確かめ、薄く切れ目を入れて中身をのぞき込む。
「相変わらず、いい肉だ。ここの者たちはもう年寄りばかりで狩りをするのも一苦労だからね。ありがたい」
薬草の束も手に取り、匂いをかいでからうなずく。
「これは、咳に効くやつだな。うちの者にも助かってるよ」
そう言う声には、少しだけ実感が混じっていた。
老人は、壺を持ち上げて塩を一壺分渡してくる。
続けて麻袋から、小麦を少し布袋へ分け入れた。
「前と同じくらいだ。確認しておくれ」
そう促されると、リオンは提示された品を確認する。
「確かに。取引成立だ」
リオンが短くそう言う。
俺も、少し遅れて頭を下げた。
「ありがとうございます」
自分で口にしたその一言に、胸の中で何かがぽつりと落ち着いた気がした。
集落のために必要なものを、自分の手を使って受け取る。
それは小さなことかもしれないけれど、「窓口」としての最初の一歩には違いなかった。
◇
取引が一通り終わると、老人は壺の蓋を閉めながら、ふうと息を吐いた。
「それにしても、最近は街から商人が来なくてねえ」
ぽつりとこぼした言葉に、リオンが眉をひそめる。
「街から、か」
「そうだよ。川沿いにずっと下ったところに、少し大きな街があるだろう。
あそこから時々、塩や布を売りに来てたんだが、ここ数ヶ月ぱったりだ」
老人は、腕を組んで首をかしげる。
「道が悪くなったのか、別の村のほうへ行くようになったのか、よく分からんがね」
街――その言葉に、さっきよりもはっきりと胸が反応した。
川沿いに下った先にある街。
塩だけじゃなく、布や道具も動いている場所。
そこでは、お金が動いているはずだ――そんな考えが、自然と頭の中で形を持ち始める。
「街までは、どれくらいかかるんですか?」
気付いたら、口が動いていた。
老人は少し驚いたようにこちらを見てから、ゆっくり答える。
「歩きなら、丸一日は見ておいたほうがいいねえ。川沿いの道は悪くはないが、休みなしで行ける距離じゃない」
「丸一日……」
俺は、その距離を頭の中で反芻する。
「でも、街にはいろんなものがあるよ。塩だけじゃなくて、布も、道具も、薬も。
金さえあれば、たいていのものは手に入る」
金さえあれば――その言葉が、フィーレアと話した「備え」の話と重なる。
お金を持っておけば、必要なときに必要なものを選んで手に入れられる。
森を追われたとき、手ぶらで外に出るのと、少しでもお金を持っているのとでは違う。
街は、その「お金」の流れが集まっている場所に違いなかった。
今はまだ、すぐに行けるわけではない。
森から丸一日も離れるとなると準備も必要だ。
それでも――いつか、そこまで足を伸ばす必要があるかもしれない。
そんな予感が、静かに胸の奥で形を持ち始めていた。
◇
「今日は、ここまでだ」
物置小屋を出たところで、リオンがそう告げる。
「まずは村との取引を覚えろ。街の話は、戻ってから改めて考える」
「はい」
塩の入った壺と、小麦の入った袋を、俺は慎重に抱え直す。
この重みは、集落の誰かの食卓にそのまま乗る重みだ。
老人が井戸のほうへ戻っていくのを見届けてから、俺たちは村の外れへ向かった。
森の端に立つと、風の匂いが少し変わる。
土の匂いから、木の匂いへとゆっくり切り替わっていく。
「帰るぞ」
リオンの短い一言に、俺はこくりと頷いた。
集落と村のあいだの獣道が、今度は「戻るための道」として目の前に伸びている。
塩と小麦の重みを腕の中に感じながら、俺は一歩を踏み出した。
今日の一日で、外との窓口としての仕事が、ほんの少しだけ形を持ち始めた。
まだ街は遠くにある。それでも、そこへ続く線は、確かに森の端から伸びている。
その線を、いつか自分の足でたどることになる――そんな未来をぼんやりと思い描きながら、俺は森の影の中へと戻っていった。




