第十四話 将来
子どもたちの授業が終わったあとの学舎には、静けさが戻っていた。
さっきまで机を埋めていた小さな背中はもうなく、教室には俺とフィーレアの二人だけが残っている。
俺は子どもたちが使っていた机に腰かけ、目の前の板書をじっと見つめた。
この世界の文字が並んでいる。形も読み方も、ひと通りは分かるようになってきたが、とっさに読むにはまだ心許ない。
俺は一応ここでは教える側の人間だ。受け持ちは算数ではあるが、一応身に付けておくべきだろうと思ってフィーレアに相談したら、個人的に授業をしてくれると申し出てくれたのだ。
生徒である子どもたちが文字の知識を、身に付けているのなら、先生の俺が出来ないのはかっこがつかない――そんな気持ちが背中を押していた。
俺は、英語みたいな一般的な外国語は得意ではなかった。
単語や文法を覚えるのにもいつも苦労していたし、テスト前は毎回、山ほどの単語帳とにらめっこしていた記憶がある。
「これは『れ』。こっちが『ろ』です」
フィーレアが書板に書いた文字を、俺はうなずきながらノートに写し取る。
見慣れない線と曲がり方の隣に、小さく「れ」「ろ」と日本語でメモを添えた。
一文字ずつ、ゆっくりと。
この世界の文字が、少しずつ俺の中に形を持ち始めていく。
勉強を始めた当初は、この世界の文字をちゃんと覚えられるのか――胸のどこかで、不安がくすぶっていた。
だがその心配は杞憂だったようだ。
実際に文字を学んでみると、思っていたほど苦戦はしなかった。言葉の意味そのものは理解できているぶん、音と形を紐付ける作業に集中できる。
文字そのものは一から覚えなければならないが、それでも頭の中で結びつきやすく、致命的につまずくような感覚はなかった。
というか――。
すごく今更すぎる話だが、なぜこの世界で日本語が通じているのだろうか。
この世界に来てから会話で困ったことは一度もない。よくよく考えたら異常な話だ。
とはいえ、答えの見つからないことを考えても仕方がない。理解できているのなら、それはそれで助かる、と割り切るしかなかった。
ふぅ、と息を吐いた。
一文字ずつなぞってきた板書から目を離し、思わず背筋を伸ばす。
ここ最近は、授業終わりにフィーレアの個人授業を受けている。
お陰で五十音のほとんどは覚えられた。文字自体がシンプルなものが多いのも助かっている。
これが象形文字のような複雑さだったら、こうはいかなかっただろう。
「今日はここまでにしましょうか。もう夕暮れ時ですし」
窓の外を見ながら、フィーレアが穏やかに区切りをつける。
差し込む光は赤く傾き始めていて、教室の隅に長い影を落としていた。
「今日も付き合ってくれてありがとうございます」
俺が頭をかくと、フィーレアは「どういたしまして」と言って、柔らかく笑った。
「それにしても、少し意外でした。アイトさん、計算もできますし、言葉遣いもしっかりしているから、文字の読み書きもできるものだと思っていました」
そう言いながら、フィーレアは書板に残った文字を、布でゆっくりと拭き取っていく。
「はは……会話は出来るんですけど、文字の読み書きは、やったことなくて。変ですよね」
照れ隠しのように笑うと、フィーレアも喉の奥でくすりと笑った。
「ふふ。確かに、少し変わっていますけど、私は気にしませんよ。授業も手伝ってもらっていますし、むしろ、こうして文字を教えることで、そのお返しができている気がして、嬉しいくらいです」
授業のお礼は十分もらっているし、お返しはむしろ俺のほうがすべきだと思っているが、彼女はそうは思っていないようだった。
「そういえば、前から聞きそびれてたんですけど……どうしてフィーレアさんは、学舎を作ったんですか?」
なんとなく気になっていたことを、ふと思いついたような気軽さで尋ねる。
フィーレアは、問いかけに少し首をかしげてから、ふんわりと笑った。
「……そういえば、ちゃんと話したことはありませんでしたね。どうして私が学舎をやろうと思ったのか」
そこで一度、言葉を選ぶように小さく息を吐く。
「この学舎って、実は勉強を目的に作られた建物ではないんです。あくまで表向きは、ですけど」
「え?」
思わず聞き返すと、フィーレアは少しだけ肩をすくめて続けた。
「実は、長老に学舎を建てて子どもたちに文字の読み書きや計算を教えたいとお願いしたんですけど、いい顔をしなくて。許可が下りなかったんです」
そこで一度言葉を切り、少し申し訳なさそうに、それでもどこか楽しげに笑う。
「だから、リオンにお願いしたんです。狩りの訓練場を作りたいって形で、長老に提案してほしいって。それで許可が出たので、この建物が建てられました」
さらっととんでもないことを聞かされた気分だった。
猟長であるリオンの提案。しかも内容が「狩りの訓練場」だ。名目としては、十分と言えるだろう。
要するに、フィーレアは長老をうまく謀って、この学舎を手に入れたのだ。
フィーレアは見た目や言動に反して、意外と悪どい一面も持ち合わせているのだと、俺は少し呆気に取られる。
「それで建ててもらったあと、私はここに住み着いて、勝手に学舎としても使うようになりました。
訓練場であることには嘘はついていませんけど……子どもたちに文字や数を教える場でも、あります」
名目は狩りの訓練場、本音は学舎。
その二つを両立させる形で、フィーレアはここを作り上げたのだと分かって、改めてこの人の肝の据わり方に感心した。
「どうしてそこまでして学舎を?」
思わず、率直な疑問が口をついて出た。
長老の許可を蹴ってまでやることなのか――その答えを、ちゃんと聞いておきたかった。
「もちろん、先程も言った通り子どもたちに文字の読み書きや計算を教えたかったからです」
フィーレアは迷いなくそう言うと、少しだけ視線を落として机の上に手を重ねる。
それから、ふっと顔を上げて、今度は俺の目をまっすぐ見た。
「アイトさんは、この集落がずっと平和でいられると思いますか?」
不意を突く問いだった。どこか世間話めいた口調なのに、内容だけはやけに重い。
何と答えるべきか、どういう意図で聞かれたのかを探ろうとしたところで、フィーレアが先に続ける。
「火事なんかの災害や、伝染病の蔓延……考えたらきりがないですけど、それが現実になってしまう可能性はあります」
淡々とした口調なのに、その一つ一つの言葉には、現実として受け止めている重さがにじんでいた。
「森の中は、今はたしかに安全に見えるのかもしれません。でも、なにかが起こって、この地に住むことが出来なくなったら――外の世界で生きなくてはいけない状況になったら」
フィーレアは、窓の外の森をちらりと見る。
「その時、なんの知識もなく生きていくのは、きっと難しいことだと思うんです」
自分の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと言い切った。
「学舎は、子どもたちの将来に備えるために作った場所なんです」
フィーレアは、自分の思いを確かめるように、一度ゆっくりと息を吸う。
「私に教えられることなんて、たかが知れています。外の世界のことも、全部を知っているわけじゃありませんし……それでも、せめて“ゼロ”を“イチ”にするくらいのことはしたかったんです。何も知らないまま外に出るのと、文字や数の基礎だけでも知っているのとでは、きっと違いますから」
学舎で教えられている文字や数は、今この瞬間のためだけじゃなくて、いつか来るかもしれない「もしも」に備えるためのものでもある――そんなことが、俺にもはっきりと伝わってきた。
文字を覚える意味が、前より少しだけはっきりした気がした。
◇
学舎から帰ったあと、俺はいつものようにレンの料理を手伝いながら、フィーレアの言っていたことを頭の中で何度も反芻していた。
集落を追われたときのための保険。
言葉にしてしまえば簡単だけど、実際どこまでそれが役に立つのかは分からない。
話を聞く限り、森の外は獣人たちにとっては地獄みたいな環境だ。
森を出ずに済むのなら、それに越したことはないのだろう。
この穏やかな日々が、このままずっと続いてくれれば、それが一番いい。
けれど、もしそれが叶わなくなるような状況に出会ってしまったら。
火事か、病か、なにか分からない「なにか」によって、この森を諦めなければならなくなったとしたら。
そのとき、なんの知識もなければ――きっと、なにをすればいいのかさえ分からない。
鍋をかき回す手を動かしながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「アイト、お塩」
「え?」
考え込みすぎていたらしい。手を止めたまま固まっていた俺に、レンが心配そうな声をかけてくる。
「だから、お塩」
「あ、ごめん。今取るよ」
慌てて返事をして、棚に置かれた壺のふたを開ける。
中に詰まった白い塊を、木の器にざらりとすくい入れた。
そういえば、この塩は――。
器に流れ込む白い粒を見つめながら、俺は思い出す。
この塩は、狩人たちが森の外で物々交換して手に入れている、という話だった。
森の外の、人間たちが暮らすどこか遠くの場所から、危ない橋を渡って運ばれてきたものだ。
集落の誰もが、当たり前のように料理に使っている。
だけど、その裏には、外とつながるためのリスクと手間が、いつも張り付いている。
フィーレアの言っていた「備え」と、目の前の塩の重さが、俺の中でゆっくりと結びつき始めていた。
もし、塩だけじゃなくて、他のものにも交換できるとしたら。
例えば――お金。
そんな言葉が、ふと頭の中に浮かぶ。
塩と肉を物々交換するんじゃなくて、一度「お金」に変えてしまえば、塩に限らず、服でも道具でも、必要なものと交換できるようになる。
誰かが塩を欲しがっていなくても、お金さえあれば取引は成り立つ。
フィーレアが言っていた「備え」という言葉が、さっきよりも少しだけ具体的な形を帯びてくる気がした。
お金があれば、それだけで備えになるんじゃないか。
その考えが、俺の中でゆっくりと、はっきりした言葉になる。
塩みたいに形のあるものだけをやり取りするんじゃなくて、一度お金という形に変えておけば、必要になったときに必要な物を選んで手に入れられる。
不足しているものが変わっても、そのたびに交換の相手や品物を探し直さなくて済む。
もし、森を出なきゃいけなくなったときも――。
手ぶらで外の世界に放り出されるより、少しでもお金を持っていた方が、きっと動ける幅は広がる。
お金さえあれば、「何も持たないゼロ」の状態からは、少なくとも抜け出せるのかもしれない。
「アイト、あんたちょっと大丈夫? 固まっちゃって」
レンの声が、意識を現実に引き戻した。
「あ、うん、大丈夫。ちょっと考え事してたんだ」
「ナイフ持ってるんだから気を付けなさいよ。あんたの血が入ったスープなんてごめんよ」
軽口まじりの言葉に、「あはは」と曖昧に笑いながら返す。
握っているナイフを握り直すと、指先に伝わる冷たい感触が、さっきまで頭の中でふくらんでいた「もしも」の話を、少しだけ現実に引き戻してくれる気がした。
――明日、フィーレアに相談してみよう。
刻んだ野菜を鍋に滑り込ませながら、心の中でそう決める。
お金のことも、森の外との取引のことも、今の俺にはまだ漠然とした思いつきでしかない。
だからこそ、一度ちゃんと話を聞きたい。
学舎を作って、子どもたちの将来の「備え」を考えている彼女なら、俺の考えが的外れかどうかも含めて、何か言ってくれるはずだ。
明日になったら、授業のあとにでも切り出してみよう――そう胸の内で繰り返しながら、俺は鍋の中身を静かにかき混ぜた。




