第十六話 覚悟
朝の空気がいつもより少し重く感じられた。
いつも通りの集落のざわめき。
畑に向かう足音や、荷物を運ぶ声は何も変わらないはずなのに、俺の胸のあたりだけがやけにざわついている。
今日は長老の家に行く予定になっている。
集落の将来の話をするために。
森の外のことと、お金のことを話すために。
胃がきゅっと縮むような感覚を、何度目かの深呼吸でごまかしながら、俺は家の戸口に立っていた。
「アイト、行こっか」
背後から声がして振り返ると、ユイリーがいつものように元気よく手を振っていた。
寝癖のままの髪に、尻尾だけはぴんと立っている。
「……緊張してる?」
「してないって言ったら嘘になるかな」
苦笑しながら答えると、ユイリーは「だよねー」とあっけらかんと笑った。
「大丈夫だよ。アイトのやりたいこと、ちゃんと話せばきっと伝わるよ。私も付いてるし、お姉ちゃんもいるし」
その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
しばらくして、フィーレアも学舎からやってきた。
いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、軽く頷く。
「準備はいいですか?」
「……たぶん」
強がり半分、本音半分の返事をすると、フィーレアはふふっと喉の奥で笑った。
「では、行きましょうか」
三人で並んで歩き出す。
長老の家へ続く道は、何度か通ったはずなのに、今日はやけに長く感じられた。
◇
長老の家の前に立つと、さすがに足が止まる。
前に来たときのことが、嫌でも頭の中に蘇ってきた。
あの巨体と古傷だらけの身体。
「首を落とす」と告げられたときの、皮膚の上を走った電気みたいな感覚。
膝がわずかに震えるのを感じながら、俺はこぶしを握りしめた。
「おじいちゃーん、来たよー!」
そんな俺をよそに、ユイリーはいつもの調子で扉をどんどんと叩いた。
この子のハートの強さは、本当に目を見張るものがある。
やがて、扉がぎい、と軋む音を立てて開いた。
ほんの少しだけ隙間が開き、その向こうからリオンが顔を出す。
俺たちの顔ぶれを見た瞬間、眉がわずかに寄り、聞こえるか聞こえないかくらいのため息が落ちた。
「……嫌な組み合わせだな」
小さくぼやいてから、諦めたように扉をもう少し開く。
「何の用だ?」
落ち着いた目つきのまま、短くそう問われる。
フィーレアが一歩前へ出て、穏やかに頭を下げた。
「急に押しかけてしまってごめんなさい。集落の将来について、どうしても長老にご相談したいことがあって」
リオンは一瞬だけ黙り込み、それからゆっくりと視線を室内へ戻した。
「……勝手に押し入られるよりは、まだマシか」
ぽつりとこぼしてから、俺たちに向き直る。
「仕方ない、入れ」
そう言って、扉を横に引いた。
促されるまま、俺たちは敷居をまたいで中へ入る。
◇
あの大きな部屋は、前に来たときとほとんど変わらないままだった。
中央に置かれた椅子。
その上に、例の長老がどっかりと腰を下ろしている。
日に焼けた肌、無数の古傷。
部屋の空気は、座っているだけで「戦場の匂い」をまとっていた。
長老の視線がゆっくりとこちらを向いた。
「また人間を連れてくるとは、どういう用件だ」
低く落ちた声が、床板を伝って足の裏まで響いてくる。
隣ではユイリーがぴんと背筋を伸ばしていた。
フィーレアは一歩前へ出て、静かに頭を下げる。
「突然お伺いして申し訳ありません。今日は、集落の将来について、ご相談したいことがありまして」
長老の目が、わずかに細められる。
「将来、だと?」
フィーレアは頷き、落ち着いた口調のまま続ける。
「災害や病、様々な“もしも”が起きたときに備えるための話です。
アイトさんが、人間としての立場を活かして、外との窓口になれないか――という提案です」
そこで、フィーレアは横に立つ俺へ視線を送ってきた。
「詳しい話は、アイトさんの口からお伝えしたほうがよいですね」
「……はい」
喉がひりつくような緊張の中で、一歩前へ出る。
長老の視線が、まっすぐ俺に向けられる。
それだけで、全身に重しを乗せられたみたいに、動きが鈍くなる。
それでも、言わなきゃいけない。
「俺の考えは、“外との取引でお金を得て、集落の備えにする”ということです」
できるだけ簡潔に、言葉をつなぐ。
「今は塩なんかを物々交換で手に入れている、とのことですが……いずれ森を追われるようなことがあったとき、そのまま外に出ても、きっと何もできないと思います。
だから、今のうちに少しでもお金を持っておけば、必要なものを買ったり、外の暮らしに備えたりできるんじゃないかと……。
もし俺が約束を破ったり、集落を売るようなことをしたら、そのときは――首を落としてもらって構いません」
口にしながら、掌にはじっとりと汗がにじんでいた。
背中にも冷たい汗が伝っていくのが分かる。
本当にそんなことになったら笑い事じゃない。
それでも、今ここでそれくらい言わなきゃ、きっと伝わらないと思った。
フィーレアがすぐに続ける。
「もちろん、アイトさん一人に任せるつもりはありません。
狩人のみなさんに同行してもらい、安全を確保した上で、まずは今まで通りの塩の取引から始めるつもりです。
いきなり大きく動くのではなく、少しずつ様子を見ながら進めたいと考えています」
ユイリーも、そこで小さな声を挟む。
「アイトは、私たちのために考えてくれてるんだよ。
集落のみんなが困らないように、先のこと考えてくれてるんだよ。
だから、私はアイトのやりたいこと、応援したい」
その一言が、部屋の空気をほんの少し柔らかくした気がした。
長老の視線がユイリーに移り、すぐにまた俺へ戻る。
ひとつ、深い息が落ちた。
「……たしかに、森が永遠に安全である保証はない」
長老は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「火事も病も、人間の侵攻も――なにが起こるかはわからぬ。
備えを持っておくべきだというフィーレアの考えは、理解している」
そこで、一拍の沈黙。
「ただし、人間に集落の舵を握らせるつもりはない」
ぴり、と空気が張る。
「おまえを外との窓口にするのは、あくまで“集落のため”だ。
おまえ個人のためではない。勘違いするな」
「……はい」
それは、そうだと思った。
これが俺の夢とか願望とか、そんなもののための話なら、きっと長老はここまで耳を傾けてくれなかった。
「条件をつける……リオン」
長老は名を呼び、視線を猟長へ向けた。
部屋の隅に控えていたリオンが、一歩前へ出る。
「おまえを、外との取引の監視役にする。
人間を外へ出すときは、必ずおまえが同行しろ。猟長としての役目に加えて、この役目も担え」
「承知しました」
落ち着いた声で、リオンが短く答える。
長老はそこで、改めてこちらへ視線を戻した。
「まず、人間が外へ出るときは、そのたびにリオンを同行させること。ひとりで出すことは断じて認めぬ。
次に、取引の内容はすべて事前に話し合い、書板に残すこと。勝手な取引は一切認めぬ。
しばらくは塩だけだ。それ以外のものを求めるのは、様子を見てからだ」
ひとつひとつの条件は、厳しいようでいて、全て現実的だった。
「そして――」
長老の目がわずかに細められる。
「集落に害をもたらすと判断した時点で、この話は即座に打ち切る。
そのときは、約束通り、おまえの首を落とす」
最後の一言だけが、刃物みたいに鋭かった。
それでも、俺はうなずいた。
「……わかりました」
これが、この集落で“人間が外に関わる”ための最低ラインなんだろう。
長老はそこで、ふと視線を少しだけ斜めにそらした。
「ひとつ訊く」
低い声が、再び俺に向けられる。
「なぜ、そこまで集落のために動こうと思った」
不意を突かれるような問いだった。
思わず言葉に詰まりかけて、それでも、胸の奥にあるものを探るように口を開く。
「……ここに来て、俺にも“大切な人たち”が出来たからです」
自分でも驚くくらい、するりと言葉が出た。
「ユイリーやレンやフィーレアさんみたいな人たちがいて……他にも、ココちゃんや、名前もまだ覚えきれてない人たちもいますけど。
みんなに、ここに来てからずっと世話になりっぱなしで。助けてもらってばかりで。
だから、俺も何かしたいって……そう思ったんです。
ここがみんなの暮らしの場なら、俺に出来ることを使って、少しでも守る手伝いがしたいって」
言いながら、わずかに視線を落とす。
格好つけているつもりはなかった。
ただ、今の自分の本音を、そのまま言葉にしただけだった。
長老は何も言わず、じっとこちらを見据えていた。
しばらくのあいだ、重い沈黙が落ちる。
やがて――。
「……励め」
短く、それだけを告げた。
それは、激励とも、命令ともつかない一言だった。
けれど、その声には、さっきまでよりわずかに柔らかい響きが混じっていたように思えた。
長老はそれ以上何も言わず、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「猟長。詳細はおまえに任せる」
視線をリオンへ向けてそう告げると、背を向けて奥の部屋へと消えていった。
「承知しました」
短く答えて、リオンがこちらに歩み寄ってくる。
「話はまとまった。詳しい段取りは、改めて相談しよう」
そう告げる声は、いつもの落ち着いたものだった。
◇
長老の家を出た瞬間、膝から力が抜けた。
「……はぁ……」
壁にもたれかかるようにして、地面に腰を下ろす。
胸の奥で、さっきまで張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
「おつかれさま」
ユイリーが隣にしゃがみ込み、笑いながら俺の肩を軽く叩いた。
「すごかったよ。ちゃんと長老に言いたいこと言えてたもん」
「……自分でも、よくあそこまで言えたなって思ってるよ」
乾いた笑いが漏れる。
フィーレアも、そっと近くに立った。
「これで、ようやくスタートラインですね」
穏やかな声だった。
「実際に外へ出てみないと分からないことのほうが多いとは思いますけど……それでも、一歩は踏み出せました」
「はい」
まだ何も始まっていない。
お金を手に入れるのも、貯めるのも、全部これからだ。
外の人間がどんな奴らなのかも分からない。
どんな取引になるのかも、想像すらつかない。
それでも――。
森の中で静かに暮らしているだけだったこの集落に、一つ、新しい可能性の道筋が引かれた。
そんな気がしていた。
空を見上げると、昼の光が森の葉の間からこぼれていた。
あの月の夜に決めたことが、ほんの少しだけ現実に近づいた。
そう思うと、さっきまで痛かったはずの胃のあたりが、少しだけ軽くなった気がした。
◇
帰り道、三人並んで歩きながら、ユイリーがふいに口を開いた。
「それにしてもさ、長老、今日はずいぶん簡単に折れたよね」
尻尾をひょこひょこ揺らしながら、心底不思議そうな顔をしている。
「そうですね。もっと粘ると思っていましたから」
フィーレアが、少しおかしそうに笑う。
「いろいろ反撃の文言、用意していたんですけど……無駄になっちゃいました」
「反撃……」
思わず、俺は変なところで足を止めそうになる。
この人たちは、本当に何を言っているんだろう。
好戦的すぎるにもほどがある。
そんなことを考えながら、苦笑いがこぼれた。
「でも、たしかにそうだね」
歩を進め直しながら、ぽつりと口にする。
「長老があんなにあっさりと、話を認めてくれるとは思ってもみなかった」
最初にここへ連れてこられたときのことを思い出す。
あの胸から脇腹にかけての大きな傷。
「首を落とす」と平然と告げた声。
それを知っているだけに、今日の「条件付きで認める」という返事は、なおさら意外だった。
少しは、信用してもらえたということなのだろうか。
自分ひとりが勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない。
それでも、長老の「励め」という一言が、胸のあたりにじんわりと残り続けていた。
「まあ、長老もちゃんと集落のこと考えてくれてるってことだよね」
ユイリーが、能天気な調子でそう言う。
「アイトがやりたいって言ったことも、“集落のためなら”って認めてくれたんだしさ」
「そうですね」
フィーレアも頷く。
「少なくとも、“全くの外の者”ではなくなった、ということかもしれません」
その言葉に、胸のあたりが少しだけ温かくなった。
まだ、俺の立場は「外の者」だ。
でも、そこから半歩くらいは、動き始めているのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺たちはいつもの家路を歩いた。
今日から、集落の未来に向けた新しい仕事がひとつ増える。
明日からの一日一日が、少しだけ違うものになっていくのかもしれない。
そう思いながら、俺はふう、とひとつ息を吐き、家の屋根が見えるほうへ視線を向けた。




