追憶 ルアンド
「どうしてお認めになったのですか?」
藍人たちが去ったあと、リオンは静かにそう問いかけてきた。
「今日のあなたは、いつもと少し違う。俺の勘違いでしょうか?」
責めるでもなく、疑っているでもない声だった。
ただ、長老としての私の変化を、純粋に確かめようとしているのだろう。
「少し昔を思い出した」
私は短く答えた。
追憶の彼方。くすぶっていた過ちの記憶だ。
腰掛けに身を預け、壁際に立てかけられた古い弓に視線を向ける。
若いころに愛用していた弓だ。
そう、過ちだ。本来はあってはならないことだった。
◇
まだ私がルアンドと呼ばれていたころ――。
「長老」ではなく、ただの狩人として森を駆け回っていた若い日の話だ。
その年、森は痩せていた。
獣の影が少なく、罠にも獲物がかからない。
干し肉は日に日に減っていき、集落の子どもたちの腹は静かに鳴り始めていた。
「今日は、いつもより遠くまで出てもらう」
朝の焚き火のそばで、年長の狩人がそう告げた。
「谷の向こうは空だ。北の斜面まで降りてみろ」
私は、「分かった」と短く返事をした。
二十そこそこ。
若さと力だけで弓を引いていたころだ。
◇
集落から遠く離れた北。そこの斜面は、想像していたより急だった。
木々の間を縫うように、慎重に足場を選びながら降りていく。
葉の擦れる音と、小さな鳥の鳴き声だけが耳に届く。
獣の足音は、なかなか聞こえてこない。
それでも、戻るわけにはいかなかった。
集落では、口を開けた子どもたちがいる。
干した肉の端を数えながら暮らしている母親たちがいる。
その腹を満たすために、私は矢を持っていた。
斜面をさらに降りたところで、違う音がした。
「ざざっ」と土が滑る音。
枝に何かがぶつかる鈍い音。
短い悲鳴と、息を詰める気配。
私は、思わず足を止めた。
人の声だった。
◇
斜面の少し下に、人影が倒れていた。
木の根元に、若い男が転がるように横たわっている。
人間だった。
背中には木こりの鉈。
足は変な方向に曲がり、土にまみれた足首がありえない角度をしていた。
一目で分かった。骨が折れている。
私は、反射的に弓を構えた。
矢を弦に掛け、男の胸のあたりを狙う。
森に入る人間は、大抵木こりか、獣人を捕らえに来る者だ。
どちらにせよ、人間である以上は獣人にとっては危険な存在だった。
弦を引き絞った瞬間、男がこちらを見上げた。
泥だらけの顔で、目だけがはっきりしていた。
怯えているようでいて、必死に何かを探るような目だった。
男は息を吸い込んだ。
「……殺すのか」
かすれた声だった。
「助けてくれ」でも、「やめてくれ」でもない。
ただ、「殺すのか」と事実を問う言葉だった。
私の指が、わずかに止まる。
矢の先端が、男の胸の上で細かく揺れた。
人間は、獣人の敵だ。
森の外で奴隷にされた仲間たちの話を、私は何度も聞いていた。
焼き印の跡、鎖を外した痕、曲がった耳。
殺す理由なら、いくらでも挙げられた。
それでも――目の前の男は、あまりにも無力な姿だった。
斜面を滑り落ちて、足を折って、動けなくなっている。
獲物を追うでもなく、獣人を捕まえるでもなく。
ただ、困っていた。
私の指から、少しだけ力が抜けた。
弦がわずかに緩む。
◇
男の足首は、ひどく腫れていた。
近づいてみれば、折れた骨の形が皮膚の下で歪んでいるのが分かる。
男は眉をしかめながら、こちらを見上げていた。
「……助けてくれるのか」
男のその問いに私は答えなかった。
弓を背中に戻し、男の足元にしゃがみ込む。
「黙っていろ」
苛立ちを隠すように、低く言った。
鉈を拾い上げ、近くの枝を一本選ぶ。
足首と同じくらいの太さの枝を、鉈で切り落とす。
腰の布を少し裂いて、細い帯を何本か作る。
男の足を持ち上げ、折れていないほうの骨に沿って枝を当てる。
布を巻いて、強く締めた。
男が息を詰める。
「っ……!」
歯を食いしばる音が聞こえた。
「黙っていろと言った」
わざと乱暴な声を出す。
痛みを紛らわせるためでもあり、自分の中に湧きかけた同情を踏み潰すためでもあった。
布で枝を固定し終えると、足首はさっきよりも少しだけ安定して見えた。
男は、肩で息をしながら、じっとこちらを見ている。
「……歩けるか」
私は短く問う。
男は恐る恐る足を動かした。
「……たぶん」
かすかな声だった。
私は男の腕を引き上げた。
半分引きずるようにして、斜面の少し上まで歩かせる。
木の幹に背を預けさせると、男はぐったりと息を吐いた。
「ここから先は、自分で戻れ」
私はそう告げた。
「森の外に仲間がいるんだろう」
「……いる」
男は、短く答えた。
「なら、そいつらに助けてもらえ」
私は、弓を背負い直し、男に背を向けようとした。
「待ってくれ」
呼び止める声がした。
振り返ると、さっきよりも少し落ち着いた目をしていた。
「僕は、ロブっていう」
泥だらけの顔で、男が言う。
「君の名前を、聞いてもいいかい?」
こんな状況で名前を尋ねてくる理由がわからなかった。私の名前を知ってどうするというか。
だが、意味もないことではあるが男は名乗った。それに答えるくらいの礼儀はあってもいいだろう。
「ルアンドだ」
少し間を置いてから、短く答える。
男――ロブは、息を整えながら、わずかに笑った。
「ルアンド。助けてくれて、ありがとう」
震えてはいたが、言葉そのものはまっすぐだった。
そうか。男は私に礼が言いたかったのかとようやく気がついた。
人間から礼を告げられるなんて初めてのことだった。
「礼はいらん」
私は短く返す。
「それと、ひとつ覚えておけ」
ロブが首をかしげる。
「今のことは、誰にも話すな」
私は森の奥のほうへ目を向けてから、静かに言った。
「森の中で獣人に会ったことだ」
ロブは目を丸くしてから、真剣な顔になった。
「……どうしてだい?」
「人間が森のことを言いふらしていいことは、ひとつもない」
私はまっすぐに見据える。
「おまえがどういう人間かまでは分からない。
ただ、森の外の人間が皆、おまえのようだとも思っていない」
ロブは、少し目を伏せてから、短く頷いた。
「分かった。誰にも言わない。約束する」
その言い方は、あまりにもバカ正直だった。
私には、その正直さが少し腹立たしくもあり、どこか救いにも思えた。
「黙って帰れ」
私はそれだけ言い捨てて、ロブに背を向けた。
斜面を少し上がると、森の匂いがまた濃くなっていった。
◇
集落に戻ると、焚き火のそばに狩人たちが集まっていた。
「どうだった、ルアンド」
年の近い仲間が声をかける。
「獲物は?」
「少しだ」
私は背負っていた獲物を見せた。
量は少ない。谷が痩せているのだから当然だ。
「それだけか」
年長の狩人が眉をひそめる。
「もっと先まで行けたはずだろう」
「斜面の先に、人間がいた」
簡潔に答えた。
「木こりだ。滑り落ちて、足を折っていた」
焚き火の周りの空気が、少しだけ張り詰める。
「殺したのか」
誰かが問う。
その問いは、あまりにも当たり前のものとして投げられていた。
私は短く首を横に振る。
「殺してはいない」
焚き火の炎がぱちりと音を立てる。
「助けたのか」
年長の狩人が低い声で言う。
「添え木を作って、縛っただけだ」
私は淡々と答える。
「自分で戻れるくらいにはしておいた」
「甘いことをしたな」
年長の狩人の声には、わずかな苛立ちと、それ以上の怒りを抑える気配が混じっていた。
「人間なんぞ、森に放っておけば死ぬ。
奴らが森に入ってくるから、獣人が殺されるんだ」
私は何も返さなかった。
焚き火の炎だけをじっと見つめていた。
さきほどの狩り場は、集落からずいぶん離れている。
だから、私のしたことは、掟を大きく揺るがす裏切りではなく、若い狩人の「甘さ」として処理された。
それでも、自分自身にとっては、忘れてはならない「過ち」になった。
目の前の人間を弓で貫かなかったという過ちだ。
◇
時が経って、私は年を重ねた。
狩人として森を駆けていた足は、今では長老として集落を見渡すために止まることが多くなった。
人間への憎しみは、森に逃げてきた獣人たちの話と共に積み重なっていった。
鎖の跡、焼き印、折れた骨。
だからこそ、
「人間は本来ここにいてはならない」
そう言って、集落の掟を守ってきた。
それでも、胸のどこかには、あの斜面で弓を緩めた日の感触が残り続けていた。
◇
いつか、森の狩人たちが二人の獣人の子どもを連れて戻ってきたことがある。
痩せた耳と尻尾をした少女たち。
森の中を地図片手に彷徨っていたと聞いた。
「どうしてここまで辿り着いた」
私は少女たちに問うた。
緑の髪のほう――フィーレアと名乗った少女が、少しだけ迷ってから答えた。
「ロブおじいちゃんーーロブって人が森に集落があるって教えてくれました。
地図をくれて、ここを目指しなさいって」
その名前を聞いた瞬間、斜面の匂いがよみがえった。
湿った土の感触。
鉈で枝を切ったときの手応え。
泥だらけの顔で「僕はロブ」と名乗ったあの人間。
同じ名かもしれない。
別の人間かもしれない。
それを確かめる術はなかった。
それでも――胸の奥で何かが静かに結びついた。
昔、斜面で弓を緩めてしまった過ち。
殺さず、添え木を当てて、森の外へ帰した人間。
その人間の誰かが、森の外で獣人の子どもたちを守るために動いていた。
命の恩人として、二人の少女に地図を渡していた。
自分のかけたささやかな情けが、巡り巡って、今こうして自分の元へ戻ってきたのかもしれない――そう思った。
◇
「少し昔を思い出した」
弓に視線を向けたまま、私はリオンにそう告げた。
「昔、人間に甘いことをした。殺さずに見逃した」
過ちだ、と自分では思っている。
掟に従えば、あのとき弓を緩めるべきではなかった。
「その過ちが、もしかしたら、あの獣人の子どもたちを森まで導いたのかもしれん」
リオンは黙って聞いていた。
「わしは人間を憎んでいる。森の外でなされていることを、忘れる気もない。
それでも、全部を一括りに、同じ人間だと決めてしまうほど愚かでもいたくはない」
リオンが静かに息を吐く。
「だから、今日の人間――アイトについても同じだ」
私は続けた。
「人間だから集落にいてはならない。
その掟は、変わらない」
それでも。
「森の外との窓口として、役に立つなら、利用する価値はある。
約束を破れば首を落とす。それでもなお、集落のために動くというなら、認めてもよい」
それが、今日の私の答えだった。
人間への憎しみと、昔のささやかな情け。
それがぶつかり合った末に残ったものだ。
リオンは、少し目を伏せてから、静かに頷いた。
「……なるほど」
それだけ言って、弓へ向けられた私の視線を追う。
「あなたにも、そんな昔話があったとは」
少しだけ、柔らかい声だった。
私は、古い弓から目を離した。
過ちの記憶は消えない。
それでも、その過ちが誰かを生かし、その誰かがまた獣人を生かしたのなら――。
人間を憎みきることも、人間を全面的に許すこともできないまま、私は長老として椅子に腰を下ろす。
藍人の背中に向けて、「励め」と告げた自分の声が、少しだけ遠くで響き続けているような気がした。




