表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/31

追憶 レン・一

 初めて弓を握ったのは、たぶん十歳くらいのころだと思う。


 ほかの子どもたちは、畑で土をいじったり、家の水くみや薪運びを手伝ったりしていた。

 鉄を打つ作業場に顔を出して、火の粉に目を丸くしている子もいた。


 でも、私はよく森の端の訓練場に呼び出されていた。


 そこには、一本の木の幹に縦に板を打ちつけた的があった。

 板の真ん中には、煤で黒い丸が描かれている。


 その黒い丸に矢を通すのが、私の仕事だった。


 「集中しろ」


 背後から、落ち着いた声が飛ぶ。


 リオンだ。


 集落でいちばん弓がうまい狩人で、私の師匠でもある人だ。


 私は肩幅に足を開き、弓を握る指先に力を込める。

 息を整えて、黒い丸のど真ん中を見据えた。


 弦を引き絞り、指を離す。


 ひゅ、と音がして、矢が走る。


 板に突き刺さる鈍い音。

 黒い丸から、ほんの少しだけ外れた場所。


 「今のは、悪くない」


 リオンが短く言う。


 悪くはない。けれど、「真ん中」ではない。


私は、食いしばった歯の奥で、悔しさを噛んだ。


 「もう一本」


 リオンの声に、返事をする代わりに次の矢をつがえる。


 訓練場の端では、畑仕事前の子や水くみ前の子たちが、少し離れたところからこちらを見ていた。


 彼らの手には、鍬や桶や小さな木槌が握られている。


 弓を持つのは、私だけだった。


 「狩りの素質がある」と、大人たちに言われたからだ。


 だからこそ、外すわけにはいかなかった。


 弦を引き、矢を放つ。

 少しずつ、黒い丸に近づいていく。


 数十本目の矢が、ようやく黒い丸の中に突き刺さった。


 木の幹が、鈍く震えた。


 「ふん」


 リオンが鼻を鳴らす。


 一瞬だけ、彼の目がわずかに細くなったように見えた。


 それが褒め言葉の代わりなのかどうかは、わからなかった。


 でも、黒い丸の真ん中に矢が立っているのを見ていると、胸の奥でなにかがかすかに誇らしくなった。


 ◇


 訓練がひと段落したころ、リオンは弓を手から離した。


 「そろそろ、狩りに出してもいいかもしれないな」


 あまりにも何気ない調子で、そう言った。


 尻尾が、勝手にぴんと立った。


 慌てて力を抜く。


 「本当に、ですか」


 出来る限り、落ち着いた声を出す。


 リオンは、わずかに頷いた。


 「弓の扱いは、もう基礎が出来ている。森の歩き方も、ある程度は身についている。

 実際に狩りを経験しなければ、いつまでも半人前のままだからな」


 半人前、という言葉が、少しだけ胸に刺さった。


 私は他の子どもたちより大人だと思っていた。

 畑だけではなく、森のことも知っている。

 弓だって引ける。


 でも、リオンの目から見れば、まだ半人前なのだ。


 「次の狩りに同行しろ」


 リオンはそう言って、弓を肩に担いだ。


 「浮かれるな」


 振り返りざまに、短くそう付け加える。


 「狩りは遊びではない。獲物を取り損ねれば、集落の腹が空く」


 分かっている。


 分かっているからこそ、私は尻尾を抑えた。


 浮かれないように。


 子ども扱いされないように。


 「はい」


 短く答えて、私は的に立った矢を一本一本抜いていった。


 ◇


 初めて狩りに出た日は、空が高かった。


 朝の森の空気はひんやりとしていて、葉の間を抜ける光が斜めに差し込んでいた。


 リオンの背中を追いながら、私は慎重に足場を選んで歩いていく。


 「足音を殺せ」


 リオンが言う。


 「獣は、森の音に敏感だ。落ち葉を踏む音、枝を折る音。

 それだけで逃げられることもある」


 私は、言われたとおりに足を置く。


 柔らかい土の上、木の根の間。

 落ち葉をなるべく踏まないように。


 畑仕事のときよりも、ずっと身体を細かく意識していた。


 森の中ほど近く、小さな足跡が見えた。


 「角ウサギだ」


 リオンが、低く言う。


 名の通り角の生えた、ウサギの亜種だ。

 角の生えた小さな体で、森の草を食べている。


 集落の食卓によく乗る、ここらではありふれた獲物だ。


 「見ていろ」


 リオンが、手で制する。


 彼は弓をゆっくり構え、角ウサギの動きをじっと追った。


 風向き、距離、獣の歩幅。

 全てを測るように。


 矢が放たれる。


 ひゅ、と音がして、矢は角ウサギの首元にきれいに突き刺さった。


 獣は短く身を震わせて、すぐに動かなくなる。


 「こうだ」


 リオンが短く言う。


 私は、息を呑んでいた。


 訓練場の板に刺さる矢とは違う。

 そこには、命の重さが乗っていた。


 「次はおまえだ」


 リオンが、角ウサギの死骸を回収しながら言う。


 「同じようにやってみろ」


 ◇


 そのあと、私は何度も矢を放った。


 角ウサギの気配を追い、姿を見つけるたびに弓を構えた。


 でも、獣は板の的とは違った。


 動き続ける。

 耳を立てて周囲をうかがう。

 風向き一つで、すぐに逃げる。


 最初の一矢は、距離を誤って土に突き刺さった。


 角ウサギが跳ねるように逃げる。


 次の一矢は、音を立てて枝を折り、獣に気付かれて逃げられた。


 その次も、その次も、矢は獣のすぐ横を通り抜けるだけだった。


 失敗するたびに、胸の奥に苛立ちが積もっていく。


 「的なら当てられるのに……」


 訓練場の板なら、黒い丸に何度も当てられた。

 でも、角ウサギの動く身体には、届かない。


 「集中しろ」


 リオンの声が、少しだけ低くなる。


 それが怒りなのか、苛立ちなのかは分からなかった。


 ただ、「半人前」の言葉が、頭の中で何度も響いていた。


 ◇


 日が傾き始めたころ、リオンは空を一度見上げた。


 「そろそろ、戻る時間だ」


 短くそう告げる。


 角ウサギの死骸は、リオンが仕留めた一本だけだった。


 私の矢は、一度も獲物に届かなかった。


 尻尾が、勝手に下がりそうになる。


 歯を食いしばって、無理やり上げた。


 「最後に一度だけ、やらせてください」


 初めての狩りをこんな形で終わらせたくはなかった。

 だから食い下がるように懇願した。


 「それで駄目なら、今日はここまでだ」

 

 リオンはそう言って、歩きだす。

 その言葉は、狩人としての区切りの声だった。

 

 「……はい!」

 

 私は、矢筒を握り直した。


 ◇


 少し歩いた先で、草むらが揺れた。


 角ウサギが、一匹だけ草を食べていた。


 風は、こちらの背中側から草むらのほうへ吹いていた。

 獣の鼻は、私たちの匂いをまだ嗅いでいない。


 リオンが、小さく顎で合図を送る。


 「行け」


 今度こそ。


 私は、ゆっくり弓を構えた。


 訓練場の板ではない。

 でも、狙う場所は知っている。


 首の付け根。

 心臓の上。


 角ウサギの耳が、ぴくりと動いた。


 息を止める。


 弦を引き絞る。


 指を離した。


 ひゅ、と音がして、矢が走る。


 草を裂く感触が、目に見える。


 次の瞬間、矢は角ウサギの首元に突き刺さっていた。


 獣が、一瞬だけ足を震わせる。

 すぐに、動かなくなる。


 私は、弓を握りしめたまま、しばらく息ができなかった。


 「……よくやった」


 隣で、リオンの声がした。


 いつもより、ほんの少しだけ柔らかい声だった。


 珍しく、それは「褒め言葉」だった。


 私は、矢に貫かれた角ウサギを回収しながら、自分の胸のあたりにじんわりと広がっていく熱を感じていた。


 板の的ではない。

 集落の誰かの腹に乗る獲物を、自分の手で仕留めた。


 その事実が、私の中の「半人前」にひとつ矢を通した気がしていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ