追憶 レン・一
初めて弓を握ったのは、たぶん十歳くらいのころだと思う。
ほかの子どもたちは、畑で土をいじったり、家の水くみや薪運びを手伝ったりしていた。
鉄を打つ作業場に顔を出して、火の粉に目を丸くしている子もいた。
でも、私はよく森の端の訓練場に呼び出されていた。
そこには、一本の木の幹に縦に板を打ちつけた的があった。
板の真ん中には、煤で黒い丸が描かれている。
その黒い丸に矢を通すのが、私の仕事だった。
「集中しろ」
背後から、落ち着いた声が飛ぶ。
リオンだ。
集落でいちばん弓がうまい狩人で、私の師匠でもある人だ。
私は肩幅に足を開き、弓を握る指先に力を込める。
息を整えて、黒い丸のど真ん中を見据えた。
弦を引き絞り、指を離す。
ひゅ、と音がして、矢が走る。
板に突き刺さる鈍い音。
黒い丸から、ほんの少しだけ外れた場所。
「今のは、悪くない」
リオンが短く言う。
悪くはない。けれど、「真ん中」ではない。
私は、食いしばった歯の奥で、悔しさを噛んだ。
「もう一本」
リオンの声に、返事をする代わりに次の矢をつがえる。
訓練場の端では、畑仕事前の子や水くみ前の子たちが、少し離れたところからこちらを見ていた。
彼らの手には、鍬や桶や小さな木槌が握られている。
弓を持つのは、私だけだった。
「狩りの素質がある」と、大人たちに言われたからだ。
だからこそ、外すわけにはいかなかった。
弦を引き、矢を放つ。
少しずつ、黒い丸に近づいていく。
数十本目の矢が、ようやく黒い丸の中に突き刺さった。
木の幹が、鈍く震えた。
「ふん」
リオンが鼻を鳴らす。
一瞬だけ、彼の目がわずかに細くなったように見えた。
それが褒め言葉の代わりなのかどうかは、わからなかった。
でも、黒い丸の真ん中に矢が立っているのを見ていると、胸の奥でなにかがかすかに誇らしくなった。
◇
訓練がひと段落したころ、リオンは弓を手から離した。
「そろそろ、狩りに出してもいいかもしれないな」
あまりにも何気ない調子で、そう言った。
尻尾が、勝手にぴんと立った。
慌てて力を抜く。
「本当に、ですか」
出来る限り、落ち着いた声を出す。
リオンは、わずかに頷いた。
「弓の扱いは、もう基礎が出来ている。森の歩き方も、ある程度は身についている。
実際に狩りを経験しなければ、いつまでも半人前のままだからな」
半人前、という言葉が、少しだけ胸に刺さった。
私は他の子どもたちより大人だと思っていた。
畑だけではなく、森のことも知っている。
弓だって引ける。
でも、リオンの目から見れば、まだ半人前なのだ。
「次の狩りに同行しろ」
リオンはそう言って、弓を肩に担いだ。
「浮かれるな」
振り返りざまに、短くそう付け加える。
「狩りは遊びではない。獲物を取り損ねれば、集落の腹が空く」
分かっている。
分かっているからこそ、私は尻尾を抑えた。
浮かれないように。
子ども扱いされないように。
「はい」
短く答えて、私は的に立った矢を一本一本抜いていった。
◇
初めて狩りに出た日は、空が高かった。
朝の森の空気はひんやりとしていて、葉の間を抜ける光が斜めに差し込んでいた。
リオンの背中を追いながら、私は慎重に足場を選んで歩いていく。
「足音を殺せ」
リオンが言う。
「獣は、森の音に敏感だ。落ち葉を踏む音、枝を折る音。
それだけで逃げられることもある」
私は、言われたとおりに足を置く。
柔らかい土の上、木の根の間。
落ち葉をなるべく踏まないように。
畑仕事のときよりも、ずっと身体を細かく意識していた。
森の中ほど近く、小さな足跡が見えた。
「角ウサギだ」
リオンが、低く言う。
名の通り角の生えた、ウサギの亜種だ。
角の生えた小さな体で、森の草を食べている。
集落の食卓によく乗る、ここらではありふれた獲物だ。
「見ていろ」
リオンが、手で制する。
彼は弓をゆっくり構え、角ウサギの動きをじっと追った。
風向き、距離、獣の歩幅。
全てを測るように。
矢が放たれる。
ひゅ、と音がして、矢は角ウサギの首元にきれいに突き刺さった。
獣は短く身を震わせて、すぐに動かなくなる。
「こうだ」
リオンが短く言う。
私は、息を呑んでいた。
訓練場の板に刺さる矢とは違う。
そこには、命の重さが乗っていた。
「次はおまえだ」
リオンが、角ウサギの死骸を回収しながら言う。
「同じようにやってみろ」
◇
そのあと、私は何度も矢を放った。
角ウサギの気配を追い、姿を見つけるたびに弓を構えた。
でも、獣は板の的とは違った。
動き続ける。
耳を立てて周囲をうかがう。
風向き一つで、すぐに逃げる。
最初の一矢は、距離を誤って土に突き刺さった。
角ウサギが跳ねるように逃げる。
次の一矢は、音を立てて枝を折り、獣に気付かれて逃げられた。
その次も、その次も、矢は獣のすぐ横を通り抜けるだけだった。
失敗するたびに、胸の奥に苛立ちが積もっていく。
「的なら当てられるのに……」
訓練場の板なら、黒い丸に何度も当てられた。
でも、角ウサギの動く身体には、届かない。
「集中しろ」
リオンの声が、少しだけ低くなる。
それが怒りなのか、苛立ちなのかは分からなかった。
ただ、「半人前」の言葉が、頭の中で何度も響いていた。
◇
日が傾き始めたころ、リオンは空を一度見上げた。
「そろそろ、戻る時間だ」
短くそう告げる。
角ウサギの死骸は、リオンが仕留めた一本だけだった。
私の矢は、一度も獲物に届かなかった。
尻尾が、勝手に下がりそうになる。
歯を食いしばって、無理やり上げた。
「最後に一度だけ、やらせてください」
初めての狩りをこんな形で終わらせたくはなかった。
だから食い下がるように懇願した。
「それで駄目なら、今日はここまでだ」
リオンはそう言って、歩きだす。
その言葉は、狩人としての区切りの声だった。
「……はい!」
私は、矢筒を握り直した。
◇
少し歩いた先で、草むらが揺れた。
角ウサギが、一匹だけ草を食べていた。
風は、こちらの背中側から草むらのほうへ吹いていた。
獣の鼻は、私たちの匂いをまだ嗅いでいない。
リオンが、小さく顎で合図を送る。
「行け」
今度こそ。
私は、ゆっくり弓を構えた。
訓練場の板ではない。
でも、狙う場所は知っている。
首の付け根。
心臓の上。
角ウサギの耳が、ぴくりと動いた。
息を止める。
弦を引き絞る。
指を離した。
ひゅ、と音がして、矢が走る。
草を裂く感触が、目に見える。
次の瞬間、矢は角ウサギの首元に突き刺さっていた。
獣が、一瞬だけ足を震わせる。
すぐに、動かなくなる。
私は、弓を握りしめたまま、しばらく息ができなかった。
「……よくやった」
隣で、リオンの声がした。
いつもより、ほんの少しだけ柔らかい声だった。
珍しく、それは「褒め言葉」だった。
私は、矢に貫かれた角ウサギを回収しながら、自分の胸のあたりにじんわりと広がっていく熱を感じていた。
板の的ではない。
集落の誰かの腹に乗る獲物を、自分の手で仕留めた。
その事実が、私の中の「半人前」にひとつ矢を通した気がしていた。




