第十三話 教室
「はぁー、はぁー……!」
全力で駆けているはずなのに、背中にじわじわと張りついてくる気配があった。
足音はやけに軽いくせに、一定の間隔でぴたりぴたりとついてくる。
嫌な汗が、首筋をつうっと伝う。
視界の端に小さな影がちらつく。
土を蹴る乾いた音。弾むような息づかい。
まるでホラー映画で、逃げても逃げても追ってくる“なにか”に追い詰められているみたいだ。
ダメだ、引き離せない……!
「アイトー、まてーっ!」
元気いっぱいの声が、すぐ真後ろから飛んできた。
次の瞬間、腰のあたりにどすんと衝撃が走る。
小さな身体が思いきり飛びついてきて、その勢いのまま俺は前につんのめった。
「つっ、わっ!?」
なんとか転ばず踏ん張ると、背中に張りついた“なにか”が、楽しそうに声を上げた。
「つかまえたー! アイトすぐ捕まっちゃうから、“鬼ごっこ”つまんなーい!」
振り返るまでもなく、犯人は分かっていた。
腰にがっちり抱きついているのは、やっぱりココちゃんだった。
“鬼ごっこ”なんてこっちの世界の子どもたちに教えるんじゃなかったかもしれない。
この遊びを教えたときは、ただの気分転換のつもりだった。けれど――。
この森で育った獣人の子どもたちは、揃いも揃ってバカみたいに元気で、足もとんでもなく速かった。
結果、足が一番遅い俺はいつも真っ先に捕まり、年上としてのプライドはズタズタにされていた。
子どもの体力、恐るべしだ。
「いやいや、違うんだ。俺、怪我治ったばかりでベストコンディションじゃないからさ」
ぜえぜえと荒い息の中、言い訳してみるものの、ココちゃんは容赦なく首を横に振った。
「アイトそればっかー!」
本日何度目になるかわからない言い訳は、もはや効力を失っていた。
ココはここぞとばかりにぎゅうぎゅうと抱きついてきている。
捕まえるのが目的なのか、抱きつくのが目的なのか、もはや判然としない。
ココちゃんを引き剥がすのに苦戦していると、刺すような視線を感じた。
顔を上げるとそこにはユイリーがいて、俺を見下ろしていた。
片手に布に包まれた弁当箱を持ち、ぴくぴくと眉をひくつかせている。
そういえば弁当を持ってくるの忘れてたかも。
「……ふーん。お仕事だって聞いてたけど、なんか楽しそうなことしてるじゃん……」
「あ、ユイリー。わざわざ弁当、ありが――」
言い終わる前に、こつんと額に衝撃が走った。
強烈なデコピンだった。
「いった……なにするのさ」
「なにじゃないよ! お弁当忘れるし、お弁当届けにきたらココとベタベタくっついてるし!」
ぷいと顔をそむけられる。ユイリーの頬はわずかに膨れていた。
「授業の前にみんなで“鬼ごっこ”――あ、いや、追いかけっこしてたんだ。それでココちゃんに捕まっちゃっただけだよ」
「ふーん、まんざらでもなさそうに見えたけど?」
ユイリーは膨れ面でそっぽを向きながら、ぐいっと弁当箱を俺の胸元に押し付けてくる。
「もう知らない! 私は畑戻るから!」
それだけ言うと、くるりと踵を返した。
尻尾をむすっと立てたまま、足早に学舎の庭を後にしていく。
「あ、ちょ、ユイリー……?」
振り返ることもなく、ユイリーの尻尾だけがぶん、と不機嫌そうに揺れて遠ざかっていった。
弁当を届けてくれたのは大変ありがたいが、なぜデコピンされたのかはわからなかった。
俺はヒリヒリする額を撫でながら、理不尽だなぁと呟くのだった。
◇
その後、俺はどうにかココちゃんを引き剥がして教室に向かう。
子どもたちは自分の席に着き、授業が始まるのをわくわくした様子で待っていた。
子どもたちの前に立つと、視線がいっせいにこちらへ集まる。
「はい、じゃあ授業始めるよー。今日は、この前の足し算の続きからやってこうか」
授業はこれで三度目になるが、子どもたちはもうすっかり俺が授業をするのにも慣れてきたらしい。
そして俺のほうも、進め方についてはだいぶ手慣れてきた。
書板に式を書くと、何人かは先回りして答えを口にし始める。
最初は一桁の計算だけで精一杯だったのに、今では二桁同士でも平気な顔だ。
新しい問題を出すたびに手が一斉に上がって、「次は私!」「僕!」と声が飛ぶ。
子どもたちはとにかく意欲的で、教え甲斐がある。
当てるほうが追いつかないのは大変だけど、それがちょっとだけ嬉しくもあった。
「はい、じゃあこれは……ラトくん」
指名された少年が、少し得意げに正解を言い当てる。
周りから「おおー」と小さな歓声が上がって、それにつられて別の子も「次、次!」と身を乗り出してくる。
子どもは覚えるのが早いとはよくいうが、本当にその通りだなと痛感させられる。
そろそろ桁の多い計算用に、“筆算”を教えてもいいかもしれない――そんな考えが、ふと頭をよぎる。
前の世界なら、このあと分数だの小数だの、もっと先の計算にも進んでいくんだろう。
けれど、この森の暮らしに、そこまでの算数が本当に要るのかどうかは、正直まだよく分からない。
足し算と引き算を一通り終えて、かけ算の入口だけ軽く触れたところで、教室の前のほうからぱん、と軽い音が響いた。
書板の脇で授業を見守っていたフィーレアが、両手を打ち鳴らして合図する。
「はい、今日はここまでにしましょう。続きは、また今度ですね」
子どもたちの顔が一気にほころび、椅子を引きずる音と、駆け出していく足音がいっせいに教室にあふれた。
◇
放課後の学舎の庭は、まだ元気だった。
さっきまで教室で数字とにらめっこしていた子どもたちは、今度は校舎のまわりを駆け回っている。よほど“鬼ごっこ”が気に入ってくれたらしい。
俺とフィーレアは、その様子を木陰から眺めていた。
幹にもたれかかったフィーレアの隣で、俺はさっきユイリーから押し付けられた弁当箱を、ようやく空にしたところだった。
「もう今日で三度目の授業でしたね。実際に授業をしてみて、どうですか?」
ふいに、フィーレアがこちらを見る。
「そうですね……足し算と引き算くらいなら、もうみんな問題なく出来るようになってるし、覚えるのが早くて、正直驚いています」
言いながら、空になった弁当箱を足元の草むらの上にそっと置く。
木の枝の隙間からのぞく空を、しばらくぼんやりと見上げた。
「これから教えるかけ算やわり算も、きっとすぐ覚えちゃうんだろうなって思ってます。
この調子だと、俺の“教師としての仕事”も、すぐ終わっちゃいそうですね」
「子どもは覚えるのが早いものですからね」
フィーレアはふふっと楽しそうに笑ってそう言った。
「授業、いつも見させてもらっていますけど、アイトさん、教え方がお上手ですよ。子どもたちもみんな楽しそうです」
「そう、ですかね」
ならよかった――そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。
「今の俺って、先生っていうより、子どもの遊び相手といった方が正解というか……。楽しんでくれてるのはいいんですけど、こんなんでお役に立ててるのかなって……」
実際、子どもに教える算数なんて簡単で、教えることもそう多くない。
いまの俺は、いろんな遊びを知っているだけの“子どもの遊び相手”に近い。
それが本当に役に立っているのかどうか、少し不安だった。
半分は冗談で、半分は本音だった。
フィーレアはそのニュアンスを汲んだように、ふわりと笑う。
「それでもいいんですよ」
フィーレアはそう静かに答え、視線を庭に戻すといつもの穏やかな調子で続けた。
「こんな森ですから、なにもないんです。どうしても子どもたちは退屈しがちで、それがかわいそうだなっていつも思っていました」
走り回る子どもたちを見つめる目は、どこか優しくて、少しだけ心配そうだった。
「でもアイトさんがいろんな新しい遊びを教えてくれるから、子どもたちもとっても楽しそうです。
算数の授業も助かっていますけど、今の子どもたちの笑顔は間違いなくアイトさんのご協力のお陰ですよ」
さらりと言われた一言に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
鬼ごっこだけではなく、かくれんぼや缶蹴りならぬ石蹴りなんかを教えてきた。フィーレアは新しい遊びというが実際は元いた世界にあった遊びをそのまま教えているだけだ。
俺にとっては、前いた世界では当たり前すぎて意識もしなかった遊びだ。
けれど、この森の子どもたちにとっては、それも「知らなかった世界」のひとつなのかもしれない。
「……そう言ってもらえると、ちょっとは役に立ててる気がしてきます」
ぽつりと漏らすと、フィーレアはこくりと頷いた。
「もう十分、役に立ってくれていますよ。本当にありがとうございます」
庭のまんなかでは、さっきの“鬼ごっこ”の続きなのか、子どもたちがまた誰かを追い回していた。
ココちゃんの甲高い笑い声が響いて、その輪の外側で見ているだけの俺の胸のあたりが、少しくすぐったくなる。




