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木曜日の午後

# 木曜日の午後


木曜日の午後二時。店内には四人の客がいた。


カウンターには常連の吉村さん。窓際には笹木さんが文庫本を読んでいる。入り口近くのテーブルには、四十代くらいの男性が一人。カウンターの端に、二十代後半くらいの女性が一人。


私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。


男性は汗をかいていた。額に。首の後ろに。鼻の頭にも。自前のスポーツタオルで、せっせと拭いている。注文はアイスコーヒーだった。着ているのは半袖のTシャツ一枚だ。


女性の方は、ダウンジャケットを着込んでいた。マフラーも巻いている。膝の上に手袋まで置いていた。注文はホットコーヒーだった。


同じ木曜日の、同じ午後に、同じ店にいる。


吉村さんが、小声で私に言った。


「ねえ、あの二人、全然服装が違う」


「そうですね」


「どっちが間違ってると思います?」


「さあ」


「いや、さあって。同じ気温でしょう」


「体感は人それぞれですから」


吉村さんが、また男性を見た。


「でも、あれは普通に寒くなりますよ。四月ですよ」


「もう四月ですよ」


「まだ四月ですよ」


私は何も言わなかった。


汗をかいている男性は、アイスコーヒーをごくりと飲んだ。


「あー、うまい」


独り言だった。


吉村さんが小さく首を振った。


しばらくして、女性の方がコーヒーカップを両手で包みながら言った。


「今日、寒いですね」


吉村さんが「そうですよね」とすぐに反応した。


「朝からずっと寒くて」


「ですよね」と女性が言った。「昨日、天気予報で最高気温二十度って言ってたから、油断したんです」


「二十度って言ってましたよね」


「言ってました。だから少し薄手の格好で外に出たら、朝、死ぬかと思って」


「分かります」


「ダウンに、マフラーに、手袋まで持ってきました。完全装備です」


「正解でしたね」


「でも」と女性が困ったように笑った。「昼間、外を歩いてたら汗かいて」


「動くと、そうなりますよ」


「でも脱いだら絶対後悔すると思って」


「我慢したんですか」


「ずっと我慢しました」


「えらい」


「えらいですか」


「えらいと思います」


女性が少し笑った。


吉村さんが、男性の方を横目で見た。


「あちらは逆の後悔をしそうですけどね」


女性が男性を見た。男性は窓の外を見ながら、タオルで首を拭いていた。


「あの方、半袖ですね」


「半袖です」


「今日、それで来たんですか」


男性が、ふと気づいたように振り向いた。


「えっ、俺に聞いてます?」


吉村さんが少し固まった。


「いや、その、天気の話を……」


「俺、朝から半袖だったんです」


男性は特に気にした様子もなく、「朝、暑かったんですよ」と言った。「長袖で寝たんですけど。布団の中が。起きたら汗びっしょりで」


「布団の中が」


「布団の中が暑かったから、今日は半袖だろうと思って」


「布団の中で服を決めたんですか」


「そうしたら外、思ってたより寒かったですけど」


「でしょうね」


「でも昼間、暖かくなって。やっぱり半袖で正解だったと思ったんですよ」


「日が出ていると暖かかいですよね」


「そうそう。で、今また少し寒くなってきてますけど」


男性が窓の外を一瞥した。


「まあ、帰りだけ我慢すればいいか、と」


「我慢する気なんですか」


「コーヒー飲んで温まれますし」


吉村さんが「温まれませんよ、アイスコーヒーでは」と言った。


「いや、気持ちが温まるんです」


「気持ちが」


「おいしいものを飲むと、気持ちが温まるじゃないですか」


吉村さんが私を見た。私は何も言わなかった。


笹木さんが、本から目を上げた。


「それは、わかる気がします」


男性が笹木さんの方を見た。


「でしょう」


「おいしいと、あったかいですよね。気分が」


「そうなんですよ」


「私も今日、迷ったんです」と笹木さんが言った。「ホットにするかアイスにするか」


「何にしたんですか」


「ホットにしました」


「寒かったから?」


「寒かったから。でも」と笹木さんが続けた。「あなたを見てたら、アイスもよかったかなと思って」


「おいしいですよ、アイス」


「そうですよね」


「四月のアイスコーヒーって、夏のと違うんですよね」


「違いますか」


「うまさが違う。外が少し寒いぶん、なんか、ぐっと来る」


笹木さんが静かに頷いた。


「次はアイスにしてみます」


吉村さんが、呆れた顔で私を見た。


私はグラスを磨いていた。


「マスターはどう思う?」


「ご本人が気持ち良さそうですから」


「気持ちよくても、風邪引きますよ」


「そうかもしれません」


「そうかもしれませんって」


吉村さんが男性の方に向き直った。


「あの、一応言っておきますけど、夕方、けっこう冷えますよ。今日」


男性が「あー」と言った。


「ありがとうございます。でも、大丈夫だと思います」


「思います、って」


「なんか、根拠はないですけど」


「根拠がないのが一番怖いんですよ」


男性が少し笑った。


「じゃあ、風邪引いたら、また来ます。ホットコーヒー飲みに」


吉村さんが「本末転倒でしょう、それは」と言った。


男性は気持ちよさそうに笑った。


ダウンジャケットの女性が、くすくすと笑った。


それからしばらく、店内は静かになった。笹木さんが本のページをめくる音。カップが置かれる音。外を車が通り過ぎる音。


男性がタオルを鞄にしまった。汗はすっかり引いていた。窓の外が、少し暗くなってきた。四月の日暮れは早い。


男性が伸びをしながら言った。


「そろそろ帰りますか」


それから自分のTシャツの袖を見た。半袖だ。窓の外の暗さを確かめた。


「……少し寒そうですね、外」


「だから言ったじゃないですか」と吉村さんが言った。


「でも、まあ、大丈夫でしょう」


「大丈夫じゃないですよ、絶対」


「着るものも持ってきてないですし」


「なおさら最悪じゃないですか」


男性が、会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「あの」と男性が言った。「また来ます」


「風邪は引かないでくださいね」と私は言った。


「ははは」と男性は笑って、扉を開けた。


一瞬、外の空気が入ってきた。冷たかった。


男性は少し肩をすくめて、でも特に急ぐ様子もなく、のんびり歩いていった。


ダウンジャケットの女性も、しばらくして会計に来た。


「楽しかったです」


「ありがとうございました」


「また来ます。次はもう少し薄着で」


「お気をつけて」


女性も帰った。笹木さんが本を閉じた。


吉村さんが言った。


「マスター、今日のあれで、何か思いましたか」


「何がですか」


「あの半袖の人ですよ」


「さあ」


「さあって。何か思ったでしょう」


私はしばらく考えた。


「風邪を引かなければいいな、とは思いました」


吉村さんが少し笑った。


「それだけですか」


「それだけです」


笹木さんも小さく笑って、立ち上がった。


吉村さんが首を振りながら会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


二人が帰った後、私は一人になった。


完全装備で来て、昼間は汗をかいた女性。布団の中の気温で半袖を選んで、夕方の冷気に肩をすくめながら帰っていった男性。


どちらも、自分の判断で今日を生きていた。


正しかったかどうかは、わからない。でも、コーヒーはおいしそうに飲んでいた。


私はコーヒーを一口飲んだ。温かかった。


木曜日の午後。四月の、三寒四温の、真ん中あたり。


また、一日が終わる。


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