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火曜日の午後

# 火曜日の午後


火曜日の午後三時。店内には二組の客がいた。


窓際には常連の笹木さんが一人で本を読んでいる。そして奥のテーブルには、二十代前半くらいの男性と、四十代くらいの男性が座っている。年齢の離れた先輩後輩といった雰囲気だ。


私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。


「先輩、最近、なんか疲れちゃって」若い方が、ぐったりした様子で言った。


「疲れた?」


「はい。朝、起きるのが辛くて」


「ああ、それ、五月病じゃないか?」


「五月病ですか?」


「そう。今、四月だから、そろそろ来る頃だぞ」


私は手を動かしながら、何気なく聞いている。


「五月病って、何ですか?」


「知らないのか?」先輩が、少し驚いた顔をした。


「知らないです」


「新入社員が、ゴールデンウィーク明けくらいに、やる気がなくなる現象だよ」


「そんなのあるんですか」


「あるある。俺も、新人の時、なったし」


若い方が、不安そうな顔をした。


「僕も、なるんですかね」


「なるかもな」


「やだな」


「まあ、でも、予防できるから」


「予防?」


「そう。五月病にならない方法、教えてやるよ」


私は、コーヒーを淋れ始めた。


笹木さんが、本から目を上げてこちらを見た。


「まず」先輩が、指を一本立てた。


「はい」


「完璧を求めるな」


「完璧を求めるな?」


「そう。新人は、完璧にやろうとしすぎるんだよ」


「でも、ミスしたら怒られるじゃないですか」


「怒られるけど、完璧になんてできないんだから」


「そうですか?」


「そうだよ。最初は、60点でいい」


「60点?」


「60点。で、徐々に70点、80点にしていけばいい」


「なるほど」


若い方が、メモを取り始めた。


「次」先輩が、指を二本立てた。


「はい」


「比べるな」


「比べる?」


「そう。他の新人と、自分を比べるな」


「でも、同期が優秀だと、焦っちゃいます」


「焦るよな。でも、それが五月病の原因なんだ」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。人はそれぞれペースが違う。早い奴もいれば、遅い奴もいる」


「はい」


「お前は、お前のペースでいい」


「お前のペースで」


若い方が、また熱心にメモを取っている。


私は、コーヒーを二人のテーブルに運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


カウンターに戻ると、また会話が続いていた。


「三つ目」先輩が、指を三本立てた。


「はい」


「休め」


「休む?」


「そう。無理するな。疲れたら、ちゃんと休め」


「でも、先輩たち、みんな働いてるのに」


「みんな休んでるよ。見えないだけで」


「見えないだけ?」


「そう。トイレで休憩したり、タバコ吸いに行ったり」


「あ、そうなんですか」


「そうなんだよ。だから、お前も、適度に休め」


「はい」


若い方が、また真剣にメモを取っている。


「四つ目」先輩が続けた。


「はい」


「相談しろ」


「相談?」


「そう。一人で抱え込むな。困ったら、すぐ相談しろ」


「でも、先輩たち、忙しそうで」


「忙しくても、相談されたら、答えるよ」


「本当ですか?」


「本当だよ。新人が一人で悩んで、ミスする方が困るんだから」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。だから、遠慮するな」


若い方が、少し安心した顔をした。


「五つ目」先輩が、片手全部の指を広げた。


「はい」


「楽しめ」


「楽しむ?」


「そう。仕事を、楽しめ」


「でも、楽しくないです」


「今は、楽しくないだろうな」先輩が笑った。


「はい」


「でも、少しずつ、楽しくなるよ」


「本当ですか?」


「本当だよ。できることが増えると、楽しくなる」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。だから、今は、辛くても、続けてみろ」


若い方が、コーヒーを飲んだ。


「先輩」


「うん」


「先輩も、新人の時、辛かったですか?」


「辛かったよ」先輩が、遠い目をした。


「本当ですか?」


「本当だよ。毎日、辞めたいと思ってた」


「先輩が?」


「俺が」


「でも、続けたんですね」


「続けた。なんとなく」


「なんとなく?」


「そう。辞める理由も、特になかったから」


若い方が、少し笑った。


「それでいいんですか?」


「それでいいんだよ」


二人は、また黙ってコーヒーを飲んだ。


「でもさ」先輩が、真面目な顔で言った。


「はい」


「五月病になる原因も、教えておくか」


「お願いします」


「まず」先輩が、また指を一本立てた。


「はい」


「頑張りすぎ」


「頑張りすぎ?」


「そう。新人は、最初、頑張りすぎるんだよ」


「でも、頑張らないと」


「頑張るのはいいけど、頑張りすぎると、疲れる」


「そうですか」


「そうなんだよ。で、ゴールデンウィークで、急に休むと、糸が切れたみたいになる」


「糸が切れる」


「そう。それが、五月病」


若い方が、また熱心にメモを取っている。


「次」先輩が続けた。


「はい」


「理想と現実のギャップ」


「ギャップ?」


「そう。新人は、会社に理想を持ってるだろ」


「持ってます」


「でも、現実は、違う」


「違いますね」


「そのギャップに、やられるんだよ」


「なるほど」


「だから、最初から、期待しすぎるな」


「期待しすぎない」


若い方が、また真剣にメモを取っている。


「三つ目」


「はい」


「人間関係」


「人間関係?」


「そう。会社の人間関係、うまくいってるか?」


「うーん」若い方が、少し考えた。「微妙です」


「微妙か」


「はい。なんか、まだ馴染めなくて」


「そうか。それも、五月病の原因だな」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。人間関係がうまくいかないと、ストレス溜まるから」


「確かに」


「だから、少しずつでいいから、話しかけてみろ」


「はい」


先輩が、コーヒーを飲んだ。


「四つ目」


「はい」


「生活リズムの乱れ」


「生活リズム?」


「そう。ちゃんと寝てるか?」


「寝てます。でも、夜更かししちゃって」


「それだよ」


「それ?」


「それが、五月病の原因」


「寝不足?」


「寝不足。体が疲れてると、心も疲れるんだよ」


「なるほど」


「だから、ちゃんと寝ろ」


「はい」


笹木さんが、会計を頼みに来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「いい先輩ね」笹木さんが小声で言った。


「そうですね」


「後輩、助かってるわね」


「ええ」


笹木さんが帰った後、二人の会話はまだ続いていた。


「最後」先輩が言った。


「はい」


「目標がない」


「目標?」


「そう。お前、仕事の目標、ある?」


「目標」若い方が考えた。「ないです」


「ないか」


「はい。ただ、毎日、こなしてるだけです」


「それが、五月病の原因だな」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。目標がないと、何のために頑張ってるか、分からなくなる」


「確かに」


「だから、小さくてもいいから、目標を作れ」


「小さくても?」


「小さくてもいい。『今週は、これをマスターする』とか」


「なるほど」


「そういう小さな目標を、積み重ねていけばいい」


「はい」


若い方が、メモを見返した。


「先輩、たくさん教えてくれて、ありがとうございます」


「いいよ。俺も、新人の時、先輩に教えてもらったから」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。で、お前も、いつか後輩に教えてやれ」


「はい」


二人は、コーヒーを飲み終えた。


「じゃあ、そろそろ戻るか」


「はい」


二人は、会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「あの」若い方が、私に言った。


「はい」


「すみません、聞こえちゃいましたよね」


「少しだけ」


「恥ずかしいです」


「いえ。いい先輩ですね」


「そうなんです。優しくて」


先輩が、照れたように笑った。


「やめろよ」


「本当なんです」


二人は、嬉しそうに帰っていった。


一人になった店内で、私はコーヒーを一口飲んだ。


五月病にならない方法。


完璧を求めるな。


比べるな。


休め。


相談しろ。


楽しめ。


五月病になる原因。


頑張りすぎ。


理想と現実のギャップ。


人間関係。


生活リズムの乱れ。


目標がない。


どれも、大切なことだ。


私も、新人の時、知っていたら、もっと楽だっただろうか。


そんなことを思いながら、私は窓の外を見た。


火曜日の午後。


年齢の離れた先輩後輩が、この店を通り過ぎていった。


優しい先輩と、素直な後輩。


いい関係だ。


そう思いながら、私は静かに店を閉める準備を始めた。


また明日も、誰かがこの扉を開けてくれる。


どんな人が、どんな話を持ってくるだろう。


そんなことを思いながら、私は笑った。


火曜日の午後。


また、一日が終わる。



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