月曜日の午後
# 月曜日の午後
月曜日の午後二時。店内には二組の客がいた。
窓際には常連の笹木さんが一人で本を読んでいる。そして奥のテーブルには、三十代くらいの男性が二人。一人は疲れた顔をしていて、もう一人は心配そうな表情だ。
私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。
「いや、もう、眠いわ」疲れた顔の方が、大きなあくびをした。
「夜勤、お疲れ」
「ありがとう。今朝、上がったばっかりでさ」
「じゃあ、寝なくていいの?」
「寝たいけど、お前と約束してたから」
「無理しなくてよかったのに」
「いや、いいんだよ。久しぶりに会いたかったし」
私は手を動かしながら、何気なく聞いている。
「でも、本当に疲れてるみたいだな」
「疲れてるよ。昨日の夜、大変だったんだ」
「何があったの?」
「あ、いや」疲れた顔の方が、急に口ごもった。「別に、大したことじゃないけど」
「大したことじゃない?」
「うん。まあ、色々あってさ」
もう一人の男性が、コーヒーを飲みながら尋ねた。
「色々って?」
「えーっと」疲れた顔の方が、少し考えた。「昨日、駅前で酔っ払いがさ」
「うん」
「ベンチで寝てて、通報があったんだよ」
「それで?」
「それで、起こしに行ったんだけど、全然起きなくて」
「へえ」
「で、やっと起きたと思ったら、『俺は悪くない! お前らが悪い!』って叫び出して」
「困ったね」
「困ったよ。でも、まあ、よくあることだから」
私は、コーヒーを淋れ始めた。
「あ、あとさ」疲れた顔の方が続けた。
「うん」
「その後、コンビニで万引きがあってさ」
「万引き?」
「そう。高校生が、お菓子盗んだんだって」
「それで、捕まえたの?」
「捕まえた。でも、泣き出しちゃってさ」
「泣いた?」
「泣いた。『親に言わないでください』って」
「まあ、高校生だもんな」
「そうなんだよ。でも、ルールはルールだから」
私は、思わず耳を傾けた。警察官なのか。
「大変だな、警察って」もう一人の男性が言った。
「大変だよ。でも、まあ、仕事だから」
笹木さんが、本から目を上げてこちらを見た。私は小さく頷く。
「他には?」
「他にはね」疲れた顔の方が、また話し始めた。「夜中の三時くらいに、家庭内トラブルの通報があって」
「家庭内トラブル?」
「そう。夫婦喧嘩らしくて」
「それも対応するの?」
「するよ。行ってみたら、奥さんが家から出てきて、『もう帰りません!』って」
「それで?」
「それで、話を聞いたんだけど、旦那さんが浮気したとかで」
「ああ」
「で、奥さん、めちゃくちゃ怒っててさ」
私は、コーヒーを二人のテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カウンターに戻ると、また会話が続いていた。
「それで、どうなったの?」
「結局、奥さん、実家に帰るって言ってて」
「そっか」
「うん。でも、旦那さんも、『俺は悪くない』って言い張っててさ」
「ああ」
「もう、面倒くさくて」
もう一人の男性が、少し心配そうな顔をした。
「あのさ」
「うん」
「それ、話しちゃっていいの?」
「え?」
「だって、守秘義務とかあるんじゃないの?」
「あ」疲れた顔の方が、ハッとした。「やばい」
「やばいでしょ」
「でも、名前とか、場所とか、言ってないから」
「言ってないけど、内容は言ってるよ」
「お前が聞いたんじゃないか」
疲れた顔の方が、少し焦った顔をした。
「忘れてくれ」
「忘れるけど」
「頼む」
「分かったよ」
二人は、コーヒーを飲んだ。
しばらく静かになった。
「でもさ」疲れた顔の方が、また口を開いた。
「うん」
「昨日、一番びっくりしたのがさ」
「まだあるの?」
「あるんだよ。聞いてくれ」
「いいけど、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、大丈夫なやつだけ話す」
もう一人の男性が、不安そうな顔をしている。
「それで?」
「明け方、五時くらいに、公園で不審者がいるって通報があって」
「不審者?」
「そう。で、行ってみたら」
「行ってみたら?」
「おじいさんが、公園でラジオ体操してるだけだった」
「それ、不審者?」
「不審者じゃないよ。ただのラジオ体操」
「それを、誰かが通報したの?」
「したんだよ。『怪しい人がいる』って」
「早朝のラジオ体操なんて、普通じゃない?」
「普通だよ。でも、通報した人は、怪しいと思ったんだろうな」
二人は笑った。
「それ、面白いね」
「面白いでしょ。おじいさんも、びっくりしてたよ。『警察が来た』って」
「そりゃびっくりするよ」
もう一人の男性が、また心配そうに言った。
「あのさ、本当に大丈夫? その話」
「え、どれ?」
「全部」
「全部?」
「そう。守秘義務、大丈夫?」
「うーん」疲れた顔の方が、少し考えた。「やばいかな」
「やばいと思うよ」
「でも、お前にしか言ってないし」
「俺だって、言っちゃダメなんじゃないの?」
「そうかもな」
疲れた顔の方が、頭を抱えた。
「どうしよう」
「どうしようって」
「クビになるかな」
「このくらいならならないと思うけど、気をつけた方がいいよ。いつかポロッとヤバいこと言いそう」
「そうだな」
私は、カウンターの奥で、静かに聞いていた。
迂闊な警察官だな、と思った。
「あのさ」もう一人の男性が言った。
「うん」
「お前、眠いんだよな」
「眠い」
「だから、喋りすぎてるんじゃない?」
「そうかも」
「普段は、こんなに喋らないでしょ」
「喋らない。いや、喋るけど、ここまでじゃない」
「だろ? 眠いと、判断力、鈍るから」
「そうだな」
「今日は、もう帰って寝た方がいいよ」
「そうする」
疲れた顔の方が、大きくあくびをした。
「でもさ」
「うん」
「最後に、一つだけ」
「まだあるの?」
「あるんだよ。これは、面白いから」
「面白い?」
「そう。昨日、パトロール中にさ」
「うん」
「猫が、道路の真ん中にいてさ」
「猫?」
「そう。で、車が来てるのに、動かないの」
「危ないじゃん」
「危ないよ。だから、俺が降りて、猫を抱っこして、脇に置いたんだ」
「優しいね」
「優しいでしょ。でも、その猫がさ」
「うん」
「俺の手を、ガブって噛んだの」
「痛そう」
「痛かったよ。血が出た。ほら見て?」
「……痛そうだな。それで?」
「それで、病院行ったんだけど、先生に『猫に噛まれた警察官』って笑われた」
「そりゃ笑うよ」
二人は、また笑った。
私も、カウンターの奥で、思わず笑いそうになった。
「でもさ」もう一人の男性が真面目な顔で言った。
「うん」
「その話も、たぶん言っちゃダメなんじゃない?」
「え、猫にプライバシーなんてないだろ?」
「猫の話も。パトロール中の出来事だから」
「うーん、そうかなぁ……」
疲れた顔の方が、また頭を抱えた。
「俺、今日、喋りすぎた」
「喋りすぎたね」
「どうしよう」
「どうしようもないから、今後、気をつけなよ」
「うん」
疲れた顔の方が、深くため息をついた。
「お前さ」もう一人の男性が優しく言った。
「うん」
「警察官、向いてるの?」
「向いてると思うんだけどな」
「でも、口、軽いよ」
「軽いかな」
「軽いよ。今日だけで、どれだけ喋ったと思ってるの」
「そうだな」
二人は、しばらく黙った。
「でもさ」疲れた顔の方が、小さな声で言った。
「うん」
「誰かに話したくなるんだよ」
「話したくなる?」
「うん。仕事で、色んなこと見るじゃん」
「うん」
「それを、誰かに聞いてもらいたくなる」
「そっか」
「一人で抱え込むの、辛いんだよ」
もう一人の男性が、頷いた。
「分かるよ」
「分かる?」
「分かる。でも、話す相手は選ばないと」
「そうだな」
「俺は、口が堅いから大丈夫だけど」
「ありがとう」
「でも、他の人には、話さないようにね」
「うん。気をつける」
二人は、コーヒーを飲み終えた。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」疲れた顔の方が立ち上がった。
「うん。ちゃんと寝ろよ」
「寝る」
二人は、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「あの」疲れた顔の方が、少し恥ずかしそうに言った。
「はい」
「さっきの話、聞こえちゃいましたよね」
「少しだけ」私は正直に答えた。
「すみません」
「いえ、大丈夫ですよ」
「忘れてください」
「はい」
疲れた顔の方が、ホッとした顔をした。
「ありがとうございます」
「お疲れ様でした。ゆっくり休んでください」
「はい」
二人が帰った後、笹木さんが会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「面白かったわね」笹木さんが小声で言った。
「そうですね」
「警察官なのに、口が軽いなんて」
「疲れてたんでしょうね」
「そうね。でも、ちょっと心配だわ。通報しようかしら」
「まあ、そこまでじゃないでしょう」
笹木さんが帰った後、私は一人になった。
迂闊な警察官。
眠くて、判断力が鈍って、色々喋ってしまった。
でも、誰かに話したかったんだろう。
仕事の辛さを。
一人で抱え込むのは、辛い。
それは、分かる気がした。
私はコーヒーを一口飲んだ。
酔っ払い、万引き、家庭内トラブル、ラジオ体操のおじいさん、猫。
色んな出来事が、一晩にあったんだろう。
警察官も、大変だ。
月曜日の午後。
迂闊な警察官の話が、この店を通り過ぎていった。
守秘義務を守れなかった話。
でも、友人が心配してくれて、良かった。
きっと、あの警察官も、次からは気をつけるだろう。
そう思いながら、私は静かに店を閉める準備を始めた。
また明日も、誰かがこの扉を開けてくれる。
どんな人が、どんな話を持ってくるだろう。
そんなことを思いながら、私は笑った。
猫に噛まれた警察官。
また笑いがこみ上げてきた。
月曜日の午後。
また、面白い一日だった。




