表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/61

月曜日の午後

# 月曜日の午後


月曜日の午後二時。店内には二組の客がいた。


窓際には常連の笹木さんが一人で本を読んでいる。そして奥のテーブルには、三十代くらいの男性が二人。一人は疲れた顔をしていて、もう一人は心配そうな表情だ。


私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。


「いや、もう、眠いわ」疲れた顔の方が、大きなあくびをした。


「夜勤、お疲れ」


「ありがとう。今朝、上がったばっかりでさ」


「じゃあ、寝なくていいの?」


「寝たいけど、お前と約束してたから」


「無理しなくてよかったのに」


「いや、いいんだよ。久しぶりに会いたかったし」


私は手を動かしながら、何気なく聞いている。


「でも、本当に疲れてるみたいだな」


「疲れてるよ。昨日の夜、大変だったんだ」


「何があったの?」


「あ、いや」疲れた顔の方が、急に口ごもった。「別に、大したことじゃないけど」


「大したことじゃない?」


「うん。まあ、色々あってさ」


もう一人の男性が、コーヒーを飲みながら尋ねた。


「色々って?」


「えーっと」疲れた顔の方が、少し考えた。「昨日、駅前で酔っ払いがさ」


「うん」


「ベンチで寝てて、通報があったんだよ」


「それで?」


「それで、起こしに行ったんだけど、全然起きなくて」


「へえ」


「で、やっと起きたと思ったら、『俺は悪くない! お前らが悪い!』って叫び出して」


「困ったね」


「困ったよ。でも、まあ、よくあることだから」


私は、コーヒーを淋れ始めた。


「あ、あとさ」疲れた顔の方が続けた。


「うん」


「その後、コンビニで万引きがあってさ」


「万引き?」


「そう。高校生が、お菓子盗んだんだって」


「それで、捕まえたの?」


「捕まえた。でも、泣き出しちゃってさ」


「泣いた?」


「泣いた。『親に言わないでください』って」


「まあ、高校生だもんな」


「そうなんだよ。でも、ルールはルールだから」


私は、思わず耳を傾けた。警察官なのか。


「大変だな、警察って」もう一人の男性が言った。


「大変だよ。でも、まあ、仕事だから」


笹木さんが、本から目を上げてこちらを見た。私は小さく頷く。


「他には?」


「他にはね」疲れた顔の方が、また話し始めた。「夜中の三時くらいに、家庭内トラブルの通報があって」


「家庭内トラブル?」


「そう。夫婦喧嘩らしくて」


「それも対応するの?」


「するよ。行ってみたら、奥さんが家から出てきて、『もう帰りません!』って」


「それで?」


「それで、話を聞いたんだけど、旦那さんが浮気したとかで」


「ああ」


「で、奥さん、めちゃくちゃ怒っててさ」


私は、コーヒーを二人のテーブルに運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


カウンターに戻ると、また会話が続いていた。


「それで、どうなったの?」


「結局、奥さん、実家に帰るって言ってて」


「そっか」


「うん。でも、旦那さんも、『俺は悪くない』って言い張っててさ」


「ああ」


「もう、面倒くさくて」


もう一人の男性が、少し心配そうな顔をした。


「あのさ」


「うん」


「それ、話しちゃっていいの?」


「え?」


「だって、守秘義務とかあるんじゃないの?」


「あ」疲れた顔の方が、ハッとした。「やばい」


「やばいでしょ」


「でも、名前とか、場所とか、言ってないから」


「言ってないけど、内容は言ってるよ」


「お前が聞いたんじゃないか」


疲れた顔の方が、少し焦った顔をした。


「忘れてくれ」


「忘れるけど」


「頼む」


「分かったよ」


二人は、コーヒーを飲んだ。


しばらく静かになった。


「でもさ」疲れた顔の方が、また口を開いた。


「うん」


「昨日、一番びっくりしたのがさ」


「まだあるの?」


「あるんだよ。聞いてくれ」


「いいけど、大丈夫?」


「大丈夫大丈夫、大丈夫なやつだけ話す」


もう一人の男性が、不安そうな顔をしている。


「それで?」


「明け方、五時くらいに、公園で不審者がいるって通報があって」


「不審者?」


「そう。で、行ってみたら」


「行ってみたら?」


「おじいさんが、公園でラジオ体操してるだけだった」


「それ、不審者?」


「不審者じゃないよ。ただのラジオ体操」


「それを、誰かが通報したの?」


「したんだよ。『怪しい人がいる』って」


「早朝のラジオ体操なんて、普通じゃない?」


「普通だよ。でも、通報した人は、怪しいと思ったんだろうな」


二人は笑った。


「それ、面白いね」


「面白いでしょ。おじいさんも、びっくりしてたよ。『警察が来た』って」


「そりゃびっくりするよ」


もう一人の男性が、また心配そうに言った。


「あのさ、本当に大丈夫? その話」


「え、どれ?」


「全部」


「全部?」


「そう。守秘義務、大丈夫?」


「うーん」疲れた顔の方が、少し考えた。「やばいかな」


「やばいと思うよ」


「でも、お前にしか言ってないし」


「俺だって、言っちゃダメなんじゃないの?」


「そうかもな」


疲れた顔の方が、頭を抱えた。


「どうしよう」


「どうしようって」


「クビになるかな」


「このくらいならならないと思うけど、気をつけた方がいいよ。いつかポロッとヤバいこと言いそう」


「そうだな」


私は、カウンターの奥で、静かに聞いていた。


迂闊な警察官だな、と思った。


「あのさ」もう一人の男性が言った。


「うん」


「お前、眠いんだよな」


「眠い」


「だから、喋りすぎてるんじゃない?」


「そうかも」


「普段は、こんなに喋らないでしょ」


「喋らない。いや、喋るけど、ここまでじゃない」


「だろ? 眠いと、判断力、鈍るから」


「そうだな」


「今日は、もう帰って寝た方がいいよ」


「そうする」


疲れた顔の方が、大きくあくびをした。


「でもさ」


「うん」


「最後に、一つだけ」


「まだあるの?」


「あるんだよ。これは、面白いから」


「面白い?」


「そう。昨日、パトロール中にさ」


「うん」


「猫が、道路の真ん中にいてさ」


「猫?」


「そう。で、車が来てるのに、動かないの」


「危ないじゃん」


「危ないよ。だから、俺が降りて、猫を抱っこして、脇に置いたんだ」


「優しいね」


「優しいでしょ。でも、その猫がさ」


「うん」


「俺の手を、ガブって噛んだの」


「痛そう」


「痛かったよ。血が出た。ほら見て?」


「……痛そうだな。それで?」


「それで、病院行ったんだけど、先生に『猫に噛まれた警察官』って笑われた」


「そりゃ笑うよ」


二人は、また笑った。


私も、カウンターの奥で、思わず笑いそうになった。


「でもさ」もう一人の男性が真面目な顔で言った。


「うん」


「その話も、たぶん言っちゃダメなんじゃない?」


「え、猫にプライバシーなんてないだろ?」


「猫の話も。パトロール中の出来事だから」


「うーん、そうかなぁ……」


疲れた顔の方が、また頭を抱えた。


「俺、今日、喋りすぎた」


「喋りすぎたね」


「どうしよう」


「どうしようもないから、今後、気をつけなよ」


「うん」


疲れた顔の方が、深くため息をついた。


「お前さ」もう一人の男性が優しく言った。


「うん」


「警察官、向いてるの?」


「向いてると思うんだけどな」


「でも、口、軽いよ」


「軽いかな」


「軽いよ。今日だけで、どれだけ喋ったと思ってるの」


「そうだな」


二人は、しばらく黙った。


「でもさ」疲れた顔の方が、小さな声で言った。


「うん」


「誰かに話したくなるんだよ」


「話したくなる?」


「うん。仕事で、色んなこと見るじゃん」


「うん」


「それを、誰かに聞いてもらいたくなる」


「そっか」


「一人で抱え込むの、辛いんだよ」


もう一人の男性が、頷いた。


「分かるよ」


「分かる?」


「分かる。でも、話す相手は選ばないと」


「そうだな」


「俺は、口が堅いから大丈夫だけど」


「ありがとう」


「でも、他の人には、話さないようにね」


「うん。気をつける」


二人は、コーヒーを飲み終えた。


「じゃあ、そろそろ帰るわ」疲れた顔の方が立ち上がった。


「うん。ちゃんと寝ろよ」


「寝る」


二人は、会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「あの」疲れた顔の方が、少し恥ずかしそうに言った。


「はい」


「さっきの話、聞こえちゃいましたよね」


「少しだけ」私は正直に答えた。


「すみません」


「いえ、大丈夫ですよ」


「忘れてください」


「はい」


疲れた顔の方が、ホッとした顔をした。


「ありがとうございます」


「お疲れ様でした。ゆっくり休んでください」


「はい」


二人が帰った後、笹木さんが会計に来た。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「面白かったわね」笹木さんが小声で言った。


「そうですね」


「警察官なのに、口が軽いなんて」


「疲れてたんでしょうね」


「そうね。でも、ちょっと心配だわ。通報しようかしら」


「まあ、そこまでじゃないでしょう」


笹木さんが帰った後、私は一人になった。


迂闊な警察官。


眠くて、判断力が鈍って、色々喋ってしまった。


でも、誰かに話したかったんだろう。


仕事の辛さを。


一人で抱え込むのは、辛い。


それは、分かる気がした。


私はコーヒーを一口飲んだ。


酔っ払い、万引き、家庭内トラブル、ラジオ体操のおじいさん、猫。


色んな出来事が、一晩にあったんだろう。


警察官も、大変だ。


月曜日の午後。


迂闊な警察官の話が、この店を通り過ぎていった。


守秘義務を守れなかった話。


でも、友人が心配してくれて、良かった。


きっと、あの警察官も、次からは気をつけるだろう。


そう思いながら、私は静かに店を閉める準備を始めた。


また明日も、誰かがこの扉を開けてくれる。


どんな人が、どんな話を持ってくるだろう。


そんなことを思いながら、私は笑った。


猫に噛まれた警察官。


また笑いがこみ上げてきた。


月曜日の午後。


また、面白い一日だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ