金曜日の偶然
#金曜日の偶然
金曜日の午後、店内には三組の客がいた。
窓際には常連の老夫婦、奥のテーブルには二十代半ばと思われる女性が二人、そしてカウンターには大学生くらいの男子が一人。
珍しく賑わっている。
「マスター」カウンターの学生が恐る恐る声をかけてきた。「あの、おかわりって」
「ああ、二杯目は五十円引きですよ」
「マジですか。じゃあ、お願いします」
私は新しいコーヒーを淹れ始めた。この学生、さっきから何やら分厚い本とノートパソコンを広げて格闘している。
「試験勉強?」
「いえ、卒論です。もう三年なんで」
「へえ、何の研究?」
「『昭和の喫茶店文化における社会的役割について』です」
私は思わず手を止めた。
「え、喫茶店?」
「はい。それで、実地調査も兼ねてこちらに。いい雰囲気だなあと思って」
「そりゃどうも」
照れくさいような、くすぐったいような気分になった。この古臭い店が研究対象になるとは。
「あの、後で少しお話聞かせてもらえませんか? この店のこととか」
「ああ、いいですよ」
その時、奥のテーブルから笑い声が聞こえた。二人の若い女性が、何かを見ながら盛り上がっている。
「ちょっと、やばくない? これ絶対バレるよ」
「大丈夫だって。誰も見てないし」
私は少し気になったが、干渉しすぎるのも良くない。コーヒーのおかわりを学生に出した。
「ありがとうございます」学生は礼儀正しく受け取り、また本に向かった。
しばらくして、また奥のテーブルから声がした。
「すみませーん」
一人が手を挙げている。近づいていくと、スマートフォンを持った手が差し出された。
「写真撮ってもらえますか? インスタに上げたいんで」
「ああ、いいですよ」
スマートフォンを受け取る。最近の若い子は、本当によく写真を撮る。
「じゃあ、撮りますよ」
「待って待って」もう一人が慌ててコーヒーカップの位置を調整した。「ちょっとこっちに。あ、光が」
「ケーキも入れて。インスタ映え大事だから」
二人は何度もポーズを変え、私は五枚くらい撮らされた。
「ありがとうございまーす」
スマートフォンを返すと、二人はすぐに画面を確認し始めた。
「これいいんじゃない?」
「うーん、でも私の顔ちょっと」
「全然可愛いって」
カウンターに戻ると、学生が苦笑いしていた。
「大変ですね」
「まあ、時代ですよ」
「でも面白いですよね。昭和の喫茶店って、会話する場所だったじゃないですか。今は写真撮る場所になってる」
「そうかもしれませんね」
私はふと、店を始めた頃を思い出した。あの頃は携帯電話すら、まだそこまで普及していなかった。
「あ、でも」学生が続けた。「僕、それ別に悪いことじゃないと思うんです」
「というと?」
「写真撮るのも、ある種のコミュニケーションじゃないですか。
友達と一緒に撮って、SNSに上げて、また誰かと繋がる。形は変わったけど、喫茶店が人と人を繋ぐ場所っていうのは、変わってないのかなって」
「なるほど」
確かにそうかもしれない。私は感心した。若いのに、よく考えている。
その時、窓際の老夫婦が会計を頼んだ。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
老夫婦が出て行った後、学生が声をかけてきた。
「あの、今大丈夫ですか? 少しお話」
「ええ、どうぞ」
学生はノートパソコンを開き、真剣な顔になった。
「この店、何年やってるんですか?」
「二十年になります」
「始めたきっかけは?」
「本当に偶然の導きで。人にやってみないかって言われたんですよ」
私は正直に答えた。学生は一生懸命メモを取っている。
「常連さん、多いですか?」
「そうですね。大体同じ人が」
「その人たちは、何を求めて来ると思いますか?」
私は少し考えた。難しい質問だ。
「さあ、コーヒーじゃないですかね」
「コーヒー以外には?」
「うーん」
その時、奥のテーブルから声がした。
「マスター、ありがとうございました」
二人の女性が立ち上がっている。
「お会計お願いします」
「はい」
会計を済ませると、一人がこう言った。
「あの、写真SNSに上げてもいいですか? お店の名前も載せていいですか?」
「ああ、どうぞ」
「やった。絶対バズるって」
「バズらないよ」友人がツッコむ。
「バズるもん。だってこの店、雰囲気最高だし」
二人は笑いながら出て行った。
学生が微笑んでいた。
「ほら、やっぱり」
「何がです?」
「コーヒー以外のもの、求めてますよね。雰囲気とか、時間とか」
「そうかもしれません」
私は改めて店内を見回した。古びた椅子、年季の入ったカウンター、少し傾いた本棚。
「マスター、この店好きですか?」
突然の質問に、私は少し驚いた。
「好きですよ。まあ、自分の店ですから」
「いや、そうじゃなくて」学生は言葉を選んでいる。「自分が客だったとして、この店に来たいと思いますか?」
面白い質問だ。考えたこともなかった。
「どうでしょうね。多分、来ると思います」
「なんでですか?」
「自分好みで落ち着くから」
「それです」学生が嬉しそうに言った。「喫茶店の本質って、そこなんじゃないかって僕、思うんです。落ち着く場所。時代が変わっても、SNSがあっても、人は落ち着ける場所を求めてる」
「なるほど」
私は感心した。確かに、黄色いレインコートの吉村さんも、本屋の笹木さんも、さっきの女の子たちも、みんな落ち着きを求めて来ているのかもしれない。
「すみません、長々と」学生がパソコンを閉じた。「すごく参考になりました」
「いえいえ、こちらこそ」
「卒論、頑張ります。また来てもいいですか?」
「もちろん。いつでもどうぞ」
学生が出て行った後、私は一人になった店内でコーヒーを淹れた。自分用の。
カウンターに座り、自分の淹れたコーヒーを飲む。
うん、悪くない。
落ち着く場所か。確かに、ここは落ち着く。昭和の喫茶店も、令和の喫茶店も、結局求められているものは同じなのかもしれない。
窓の外を人が通り過ぎていく。みんな、どこかへ急いでいる。
でも、たまにはゆっくりコーヒーでも飲んで、一息つけばいいのに。
そんなことを思いながら、私は少しくたびれた椅子に深く腰を下ろした。
また明日も、誰かがこの扉を開けてくれるだろう。
そう思うと、少しだけ、嬉しくなった。




