木曜日の雨音
# 木曜日の雨音
朝から降り続く雨が、店の窓を叩いている。こういう日は客足が遠のくものだが、不思議と雨の日を好んで来る常連客もいる。
「マスター、傘立て借りるわよ」
ドアを開けて入ってきたのは、近所で小さな書店を営む笹木さんだ。五十代半ば、いつも読みかけの文庫本をバッグに忍ばせている。
「どうぞ。今日は珍しく早いですね」
「ああ、今日は臨時休業」笹木さんは濡れた髪を手で払いながら言った。「水漏れでね。業者呼んだけど、午後まで店に入れないの」
「それは災難でしたね」
「まあ、たまにはいいわ。強制休暇ってやつ」
笹木さんがカウンター席に座ったちょうどその時、またドアベルが鳴った。
「うわ、降ってる降ってる」
派手な黄色いレインコートを着た男性が飛び込んできた。常連の吉村さん、自称フリーランスのグラフィックデザイナー。自称、というのは実際何をしているのか誰も知らないからだ。
「あら吉村さん、そのレインコート、目立つわねえ」
「でしょう? 昨日ネットで買ったんだ。雨の日こそファッションで遊ばないと」
「遊びすぎじゃない?」笹木さんが呆れたように笑う。
「いやいや、これくらいが丁度いいんですよ。だって考えてみてください。雨の日にみんな暗い色着て、街全体がグレーじゃないですか。そこに一人、ビタミンカラーがあれば」
「誰もビタミン求めてないと思うけど」
「手厳しい」
吉村さんは大げさに肩を落としてカウンターの隣に座った。
「マスター、いつものブレンドで」
「僕も同じで」
私は二つ分の豆を挽き始めた。雨音と豆を挽く音が重なって、妙に心地よい。
「そういえば笹木さん」吉村さんが思い出したように言った。「この前頼んだ本、入りました?」
「ああ、『世界の奇妙な条例集』でしょう? 入ったわよ。なんでまたそんな本」
「仕事の資料」
「どんな仕事よ」
「言えない。企業秘密」
笹木さんは疑わしそうな目を向けた。私も正直、気になる。
「でもね」吉村さんは声を潜めた。「その本、面白いんですよ。例えばイギリスのある町では、日曜日に掃除機をかけるのが違法なんだって」
「へえ」私は思わず相槌を打った。
「神聖な日曜日を騒音で汚すなってことらしいです。でも考えてみてください。土曜日、掃除するの忘れて。日曜日の朝、あ、やばい、今日友達来るんだった、って」
「逮捕よ」笹木さんが冷静に言った。
「厳しい国だ」
私はコーヒーを二人の前に置いた。
「ありがとう」吉村さんがカップを持ち上げる。「あ、これも書いてあったな。フランスのどこかの町では、豚に『ナポレオン』って名前つけちゃいけないんだって」
「なんで?」
「皇帝への冒涜ってことらしい。でもさ、もし僕がフランス人で豚飼ってたら、絶対ナポレオンって名づけたくなるよね」
「ならないわよ」笹木さんがきっぱり言った。
「禁止されると、やりたくなる。これ、人間の性」
「あなただけの性よ」
二人のやり取りを聞きながら、私は思わず笑ってしまった。この二人、本当に漫才みたいだ。
「マスター、笑ってないで」吉村さんが私に向き直った。「日本にも変な法律あるんですよ。確か、東京では雨の日に傘を逆さに持って歩いちゃいけないとか」
「それ、本当?」笹木さんが疑いの目を向けた。
「いや、今作った」
「最低ね」
笹木さんは呆れてコーヒーを飲んだ。
「でもさ」吉村さんは諦めずに続ける。「法律って不思議じゃないですか。誰かが『これ禁止』って言って、みんながはい分かりましたって従うわけでしょう」
「当たり前じゃない。社会のルールなんだから」
「でも誰が決めたの? 最初に『赤信号で止まれ』って言った人、天才だと思わない?」
「思わないわよ」
「僕は思う。だって考えてみてください。それまで誰も信号なんて見たことない時代に、急に『赤で止まれ』って」
「事故が多かったからでしょ」私が口を挟んだ。
「そうそう、必要だから生まれるんだ」笹木さんが頷く。
「じゃあ、豚にナポレオンって名前つけちゃいけないのも、何か必要性があったわけ?」
「さあ?」
三人で顔を見合わせて笑った。
その時、またドアベルが鳴った。今度は七十代くらいの男性。見慣れない顔だ。
「いらっしゃいませ」
「ああ、すみません。雨宿りさせてもらっても?」
「どうぞ。何かお飲みになりますか?」
「じゃあ、ホットコーヒーを」
男性は窓際の席に座り、外を眺めた。
「いい雨だ」男性が独り言のように言った。
「雨が好きなんですか?」私が尋ねると、男性は微笑んだ。
「年取るとね、雨の日はゆっくりできるからいい。若い頃は雨が嫌いだったけど」
「分かります」笹木さんが言った。「私も今日、水漏れで店休みになって、最初は困ったと思ったけど、今はちょっと嬉しい」
「人生、そういうものですよ」男性が穏やかに答えた。
吉村さんが急に立ち上がった。
「あ、やばい。今日、打ち合わせだった」
「ほら、やっぱり仕事あるじゃない」笹木さんが勝ち誇ったように言う。
「いや、これは別で、その、友達の」
「怪しい」
「怪しくない!」
吉村さんは慌ててレインコートを着た。黄色い姿が店内で異様に目立つ。
「マスター、お会計」
「はい、四百円です」
「また来ます。次は『世界の奇妙な条例集・第二巻』の話するから」
「いらない」笹木さんが即答した。
吉村さんが出て行くと、店内がまた静かになった。雨音だけが響いている。
「賑やかな人ですね」初老の男性が笑った。
「うちの名物みたいなものです」私は苦笑した。
「いい店だ。また来よう」
「お待ちしています」
笹木さんもコーヒーを飲み終え、立ち上がった。
「マスター、ごちそうさま。本、明日取りに来て」
「気をつけて」
一人になった店内で、私は窓を拭き始めた。雨はまだ降り続いている。
豚にナポレオンと名づけてはいけない国。掃除機をかけてはいけない日曜日。考えてみれば、この店だって妙なルールがある。コーヒーはこう淹れる、客席はこう配置する。
でも、そういう小さなこだわりが、この店を作っているのかもしれない。
黄色いレインコートの男と、本屋の女性と、雨宿りの老人と。
そして、少しくたびれた喫茶店のマスター。
今日も、何でもない一日が過ぎていく。




