↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/176

木曜日の雨音

# 木曜日の雨音


朝から降り続く雨が、店の窓を叩いている。こういう日は客足が遠のくものだが、不思議と雨の日を好んで来る常連客もいる。


「マスター、傘立て借りるわよ」


ドアを開けて入ってきたのは、近所で小さな書店を営む笹木さんだ。五十代半ば、いつも読みかけの文庫本をバッグに忍ばせている。


「どうぞ。今日は珍しく早いですね」


「ああ、今日は臨時休業」笹木さんは濡れた髪を手で払いながら言った。「水漏れでね。業者呼んだけど、午後まで店に入れないの」


「それは災難でしたね」


「まあ、たまにはいいわ。強制休暇ってやつ」


笹木さんがカウンター席に座ったちょうどその時、またドアベルが鳴った。


「うわ、降ってる降ってる」


派手な黄色いレインコートを着た男性が飛び込んできた。常連の吉村さん、自称フリーランスのグラフィックデザイナー。自称、というのは実際何をしているのか誰も知らないからだ。


「あら吉村さん、そのレインコート、目立つわねえ」


「でしょう? 昨日ネットで買ったんだ。雨の日こそファッションで遊ばないと」


「遊びすぎじゃない?」笹木さんが呆れたように笑う。


「いやいや、これくらいが丁度いいんですよ。だって考えてみてください。雨の日にみんな暗い色着て、街全体がグレーじゃないですか。そこに一人、ビタミンカラーがあれば」


「誰もビタミン求めてないと思うけど」


「手厳しい」


吉村さんは大げさに肩を落としてカウンターの隣に座った。


「マスター、いつものブレンドで」


「僕も同じで」


私は二つ分の豆を挽き始めた。雨音と豆を挽く音が重なって、妙に心地よい。


「そういえば笹木さん」吉村さんが思い出したように言った。「この前頼んだ本、入りました?」


「ああ、『世界の奇妙な条例集』でしょう? 入ったわよ。なんでまたそんな本」


「仕事の資料」


「どんな仕事よ」


「言えない。企業秘密」


笹木さんは疑わしそうな目を向けた。私も正直、気になる。


「でもね」吉村さんは声を潜めた。「その本、面白いんですよ。例えばイギリスのある町では、日曜日に掃除機をかけるのが違法なんだって」


「へえ」私は思わず相槌を打った。


「神聖な日曜日を騒音で汚すなってことらしいです。でも考えてみてください。土曜日、掃除するの忘れて。日曜日の朝、あ、やばい、今日友達来るんだった、って」


「逮捕よ」笹木さんが冷静に言った。


「厳しい国だ」


私はコーヒーを二人の前に置いた。


「ありがとう」吉村さんがカップを持ち上げる。「あ、これも書いてあったな。フランスのどこかの町では、豚に『ナポレオン』って名前つけちゃいけないんだって」


「なんで?」


「皇帝への冒涜ってことらしい。でもさ、もし僕がフランス人で豚飼ってたら、絶対ナポレオンって名づけたくなるよね」


「ならないわよ」笹木さんがきっぱり言った。


「禁止されると、やりたくなる。これ、人間の性」


「あなただけの性よ」


二人のやり取りを聞きながら、私は思わず笑ってしまった。この二人、本当に漫才みたいだ。


「マスター、笑ってないで」吉村さんが私に向き直った。「日本にも変な法律あるんですよ。確か、東京では雨の日に傘を逆さに持って歩いちゃいけないとか」


「それ、本当?」笹木さんが疑いの目を向けた。


「いや、今作った」


「最低ね」


笹木さんは呆れてコーヒーを飲んだ。


「でもさ」吉村さんは諦めずに続ける。「法律って不思議じゃないですか。誰かが『これ禁止』って言って、みんながはい分かりましたって従うわけでしょう」


「当たり前じゃない。社会のルールなんだから」


「でも誰が決めたの? 最初に『赤信号で止まれ』って言った人、天才だと思わない?」


「思わないわよ」


「僕は思う。だって考えてみてください。それまで誰も信号なんて見たことない時代に、急に『赤で止まれ』って」


「事故が多かったからでしょ」私が口を挟んだ。


「そうそう、必要だから生まれるんだ」笹木さんが頷く。


「じゃあ、豚にナポレオンって名前つけちゃいけないのも、何か必要性があったわけ?」


「さあ?」


三人で顔を見合わせて笑った。


その時、またドアベルが鳴った。今度は七十代くらいの男性。見慣れない顔だ。


「いらっしゃいませ」


「ああ、すみません。雨宿りさせてもらっても?」


「どうぞ。何かお飲みになりますか?」


「じゃあ、ホットコーヒーを」


男性は窓際の席に座り、外を眺めた。


「いい雨だ」男性が独り言のように言った。


「雨が好きなんですか?」私が尋ねると、男性は微笑んだ。


「年取るとね、雨の日はゆっくりできるからいい。若い頃は雨が嫌いだったけど」


「分かります」笹木さんが言った。「私も今日、水漏れで店休みになって、最初は困ったと思ったけど、今はちょっと嬉しい」


「人生、そういうものですよ」男性が穏やかに答えた。


吉村さんが急に立ち上がった。


「あ、やばい。今日、打ち合わせだった」


「ほら、やっぱり仕事あるじゃない」笹木さんが勝ち誇ったように言う。


「いや、これは別で、その、友達の」


「怪しい」


「怪しくない!」


吉村さんは慌ててレインコートを着た。黄色い姿が店内で異様に目立つ。


「マスター、お会計」


「はい、四百円です」


「また来ます。次は『世界の奇妙な条例集・第二巻』の話するから」


「いらない」笹木さんが即答した。


吉村さんが出て行くと、店内がまた静かになった。雨音だけが響いている。


「賑やかな人ですね」初老の男性が笑った。


「うちの名物みたいなものです」私は苦笑した。


「いい店だ。また来よう」


「お待ちしています」


笹木さんもコーヒーを飲み終え、立ち上がった。


「マスター、ごちそうさま。本、明日取りに来て」


「気をつけて」


一人になった店内で、私は窓を拭き始めた。雨はまだ降り続いている。


豚にナポレオンと名づけてはいけない国。掃除機をかけてはいけない日曜日。考えてみれば、この店だって妙なルールがある。コーヒーはこう淹れる、客席はこう配置する。


でも、そういう小さなこだわりが、この店を作っているのかもしれない。


黄色いレインコートの男と、本屋の女性と、雨宿りの老人と。


そして、少しくたびれた喫茶店のマスター。


今日も、何でもない一日が過ぎていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。