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金曜日の夜

# 金曜日の夜


金曜日の夜七時。普段ならそろそろ閉店の時間だが、今日は少し遅くまで開けている。


店内には三組の客がいた。


窓際には若いカップル、カウンターには常連の吉村さん、そして奥のテーブルには二十代くらいの男性が三人。会社帰りらしく、ネクタイを緩めている。


私はカウンターの奥で、静かにグラスを磨いていた。


「いや、マジで怖かったんだって」奥のテーブルから声が聞こえてきた。


「また始まった」


「嘘じゃないって」


私は手を動かしながら、何気なく聞いている。


「それで? 何が怖かったんだよ」


「だから、夜中に目が覚めたら、部屋の隅に誰かいたんだよ」


「誰か?」


「分かんない。でも、確かに人の形をしてた」


吉村さんが、こちらを見て笑った。怖い話か、という顔だ。


「で、どうしたんだよ」


「怖くて、目をつぶった」


「それで?」


「朝まで、ずっと目をつぶってた」


「チキンだな」


「だって怖いんだもん」


三人の笑い声が聞こえた。


「でもさ」一人が言った。「幽霊って、本当にいるのかな」


「いるわけないだろ」


「でも、俺の祖母ちゃん、見たって言ってたぞ」


「年寄りはみんなそう言うんだよ」


「そうかな」


私は新しいコーヒーを淹れ始めた。


「俺も、一回だけ変な体験したことある」別の一人が言った。


「お、何?」


「大学の時、友達と心霊スポット行ったんだ」


「定番だな」


「で、廃病院に入ったんだけど」


「うわ、廃病院」


「そこの三階の窓から、下を見たら」


「見たら?」


「自分がいたんだ」


一瞬、静かになった。


「は?」


「下に、俺がいたんだよ。上を見上げてる俺が」


「意味わかんない」


「だから、俺は三階の窓から下を見てるのに、下には俺がいて、上を見てるの」


「ドッペルゲンガーってやつ?」


「分かんない。でも、確かに俺だった」


私は思わず手を止めそうになった。


「で、どうなったの?」


「友達に『おい、下に誰かいる』って言って、もう一回見たら、もういなかった」


「怖っ」


「だろ? それ以来、あの病院には近づいてない」


吉村さんが、また私を見た。私は小さく首を振る。


「でもさ」最初に話した男性が言った。「一番怖いのは、生きてる人間だと思うんだよね」


「それはそうだけど」


「幽霊は、まあ、何もしてこないじゃん」


「するだろ。取り憑くとか」


「でも、人間の方が怖いことするよ」


少し、空気が変わった。


「まあ、それはそうだな」


しばらく静かになった。


「あ、そういえば」一人が思い出したように言った。「この前、終電で変なことあったんだ」


「変なこと?」


「うん。電車、ガラガラだったんだけど、隣に座ってきたおばあさんがいて」


「うん」


「そのおばあさんが、ずっと俺の方見ながら、何か呟いてるの」


「怖っ」


「で、何て言ってたの?」


「聞き取れなかったんだけど、『帰らなきゃ』って何度も言ってた気がする」


「帰らなきゃ?」


「うん。で、次の駅で降りようと思って立ち上がったら」


「立ち上がったら?」


「おばあさんが、俺の腕を掴んで、『一緒に来て』って」


「マジで?」


「マジ。すごい力で」


「で、どうしたの?」


「振り払って、降りた」


「良かったじゃん」


「でもさ、振り返ったら、おばあさん、窓からこっち見てて」


「見てた?」


「うん。すっごい悲しそうな顔で」


三人は黙った。


「それ、幽霊だったんじゃない?」


「分かんない。でも、腕掴まれた感触は今でも覚えてんだよ」


窓際のカップルが、会計を頼みに来た。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


二人が出て行った後、奥のテーブルの会話は続いている。


「でもさ」一人が言った。「怖い話って、なんで夜にしたくなるんだろうな」


「雰囲気だろ」


「昼間に聞いても、そんなに怖くないもんな」


「そうそう」


「不思議だよな」


私はコーヒーのおかわりを聞きに行った。


「おかわり、いかがですか?」


「あ、お願いします」


「三つですね」


新しいコーヒーを淹れながら、会話は続く。


「そういえば」一人が声を落とした。「この店、古いよな」


「ああ、確かに」


「もしかして、何かあったりして」


「やめろよ」


「いや、でも気になるだろ」


私は苦笑しながら、コーヒーを三つ持って行った。


「お待たせしました」


「すみません、変なこと言って」一人が申し訳なさそうに言った。


「いえいえ」私は笑った。「でも、この店で怖いことは、特にないですよ」


「そうなんですか」


「ええ。五十年続いてますけど、幽霊の話は聞いたことない」


「良かった」


三人はホッとした顔をした。


「でも」私は続けた。「前のマスターが、一度だけ変なことを言ってました」


「え、何ですか?」


吉村さんが、興味深そうにこちらを見た。


「夜、閉店した後に、誰かがドアを叩く音がするって」


「誰が?」


「分からないそうです。でも、開けても誰もいない」


「怖っ」


「それで、川崎さん、どうしたんですか?」


「放っておいたそうです」


「放っておいた?」


「ええ。きっと、帰る場所を探してる誰かなんだろうって」


三人は黙った。


「で、それからどうなったんですか?」


「いつの間にか、叩く音はしなくなったそうです」


「そうなんですか」


「ええ。川崎さんは、『帰る場所を見つけたんだろう』って言ってました」


私はカウンターに戻った。


三人は、しばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。


「いい話だな」一人がぽつりと言った。


「ああ」


「怖いけど、悲しい」


「うん」


吉村さんが会計を頼みに来た。


「マスター、いい話するね」


「作り話ですけどね」


「え、嘘?」


「ええ。川崎さんから、そんな話聞いたことない」


「なんだ」吉村さんは笑った。「でも、雰囲気出てたよ」


「ありがとうございます」


吉村さんが帰った後、奥のテーブルの三人はまだ話している。


「でもさ」一人が言った。「幽霊って、もしかしたら寂しいだけなのかもな」


「寂しい?」


「うん。帰る場所がなくて、誰かに気づいてほしくて」


「それで、怖がらせちゃうんだ」


「たぶんな」


「切ないな」


三人は静かにコーヒーを飲んだ。


「じゃあ、俺が見た部屋の隅の人も」


「寂しかったのかもな」


「そっか」


「次、見たら、声かけてやれよ」


「無理だよ、怖いもん」


三人は笑った。


やがて、三人も会計を頼んできた。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「また来ます」


「お待ちしています」


三人が出て行った後、私は一人になった。


店内は静かだ。


私は奥のテーブルを片付けに行った。


椅子を片付けながら、ふと思った。


もし本当に、夜中に誰かがドアを叩いたら。


私は、開けるだろうか。


きっと、開けるだろう。


そして、コーヒーを出すかもしれない。


帰る場所を探している人に。


そんなことを考えながら、私は電気を消し始めた。


金曜日の夜。


怖い話が、この店を通り過ぎていった。


でも、怖い話の後には、いつも優しさがある。


そんな気がした。


最後に店内を見回す。


誰もいない。


当たり前だ。


私は笑って、店を出た。


鍵をかけて、振り返る。


『コーヒーハウス 雨宮』の看板が、街灯に照らされている。


また明日。


そう思いながら、私は家路についた。


背後から、ドアを叩く音がした気がした。


でも、振り返らなかった。


きっと、風だ。


そう思うことにした。


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