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日曜日の朝

# 日曜日の朝


日曜日の朝九時。私は健太と二人で、開店準備をしていた。


「マスター」健太が窓を拭きながら言った。「店の名前って、なんで『雨宮』なんですか?」


「ああ」私は豆を袋に詰めながら答えた。「前のマスター、川崎さんの奥さんの名字だったんだよ」


「奥さん?」


「うん。雨宮さんっていう方で、この店を始める時に、奥さんの名前をつけたらしい」


「へえ、素敵ですね」


「川崎さん、奥さんのこと大好きだったからね」


健太は嬉しそうに窓を拭き続けた。


「でも、奥さんはもう?」


「ああ、川崎さんより先に亡くなったんだ。それで、川崎さんは奥さんの名前を店に残したまま、一人で続けてた」


「そうなんですか」


「俺が引き継ぐ時も、この名前は変えないでくれって言われてね」


「マスター、優しいですね」


「優しいというか」私は苦笑した。「この名前が気に入ってたから」


健太はテーブルを拭き始めた。


「『雨宮』って、雨の日が似合う名前ですよね」


「そうだな」


「雨の日に来たくなる喫茶店」


「それ、いいキャッチフレーズだな」


二人で笑った。


時計を見ると、もうすぐ十時。開店時間だ。


「よし、看板出すか」


「はい」


健太と一緒に看板を出す。『コーヒーハウス 雨宮』という文字が、朝日に照らされている。


「今日は、どんなお客さんが来るかな」健太が楽しそうに言った。


「さあね」私は笑った。「でも、誰が来ても、いいコーヒーを淹れるだけだよ」


「はい」


ドアを開けると、朝の風が店内に流れ込んできた。


日曜日の朝。


また新しい一週間が始まる。


『雨宮』という名前と共に。


そう思いながら、私は店内に戻った。


看板を出してしばらくすると、最初の客が来た。


七十代くらいの女性。見たことのない顔だ。


「いらっしゃいませ」


「あの」女性は少し戸惑ったように店内を見回した。「ここ、昔と変わってないわね」


「あ、以前も来られたことが?」


「ええ。もう、三十年くらい前かしら」


私は驚いた。三十年前といえば、まだ川崎さんの時代だ。


「それは、ようこそ。どうぞ、お好きな席へ」


女性は窓際の席に座った。健太がおしぼりを持っていく。


「コーヒーをいただけますか」


「かしこまりました」


私はコーヒーを淹れ始めた。健太がカウンターに戻ってきて、小声で言った。


「三十年ぶりって、すごいですね」


「ああ。よく覚えてたもんだ」


「何か思い出があるんですかね」


「かもしれないな」


コーヒーが出来上がり、私は女性のテーブルに運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとう」女性は一口飲んで、目を細めた。「ああ、この味」


「お口に合いましたか?」


「ええ。昔と同じ味がする」


「それは良かったです」


私は席を離れようとしたが、女性が話しかけてきた。


「前のマスターは?」


「ああ、川崎は二十年前に亡くなりました」


「そう」女性は少し寂しそうに笑った。「やっぱり」


「ご存知だったんですか?」


「いえ、でも、もうご高齢だったから」


女性はまたコーヒーを飲んだ。


「実はね」女性が言った。「ここで、昔、主人と待ち合わせをしたの」


「ご主人と」


「ええ。結婚する前、まだ付き合ってた頃」


健太がカウンターから興味深そうに聞いている。


「その頃、私たち、遠距離恋愛だったのよ。主人は東京、私は大阪」


「へえ」


「で、月に一度、この街で会ってたの。ちょうど中間地点だったから」


「なるほど」


「いつも、ここで待ち合わせをして、コーヒーを飲んで、それから街を歩いた」


女性は窓の外を眺めた。


「あの頃の街並みは、もうないけどね」


「そうですか」


「でも、この店だけは、変わってない。嬉しいわ」


私は少し胸が熱くなった。


「ご主人は?」


「三年前に亡くなったの」


「それは、失礼しました」


「いいのよ」女性は優しく笑った。「今日はね、主人の命日なの。だから、思い出の場所に来てみたくて」


健太が、ハンカチで目を拭いている。


「そうだったんですか」


「ええ。ここでコーヒー飲んで、主人に報告しようと思って」


「報告?」


「うん。孫が、来月結婚するの」


「それは、おめでとうございます」


「ありがとう。主人に、会わせたかったわ」


女性はゆっくりとコーヒーを飲み続けた。


私はカウンターに戻り、健太に小声で言った。


「ああいうお客さんもいるんだ」


「いい話ですね」健太が涙目で言った。


「泣くなよ」


「だって」


その時、またドアベルが鳴った。


入ってきたのは、三十代くらいの男性。スーツ姿だが、どこかくたびれている。


「いらっしゃいませ」


「あの、コーヒーを」


「はい、おかけになってお待ちください」


男性はカウンターに座った。健太の近くだ。


私はコーヒーを淹れながら、男性の様子を窺った。疲れた顔をしている。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


男性は黙ってコーヒーを飲んだ。


しばらくして、男性が口を開いた。


「この店、いつからあるんですか?」


「五十年くらいになります」


「五十年」男性が感心したように言った。「すごいですね」


「前のマスターから引き継いだんです」


「そうなんですか」


男性はまたコーヒーを飲んだ。


「実は」男性が言った。「今日、引っ越しの荷造りしてて、疲れて」


「引っ越しですか」


「ええ。転勤で、来週から大阪なんです」


「それは大変ですね」


「十年住んだ街なんで、名残惜しくて」


健太が横で頷いている。


「それで、最後にこの街を歩いてたら、この店を見つけて」


「そうでしたか」


「入って良かったです。落ち着く」


男性は少し笑顔になった。


「大阪でも、こういう店見つけたいな」


「きっとありますよ」


「そうですかね」


「ええ。どこにでも、こういう場所はあるもんです」


男性はコーヒーを飲み干した。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


男性が帰った後、健太が言った。


「マスター、いいこと言いますね」


「何が?」


「どこにでも、こういう場所はあるって」


「本当のことだよ」


「でも、ここは特別ですよ」


「そうかな」


「そうですよ」


窓際の女性も、会計を頼んできた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ。また来てもいいかしら」


「もちろんです。いつでもどうぞ」


「嬉しいわ。今度は、孫を連れてくるわね」


「お待ちしています」


女性が出て行った後、健太が言った。


「マスター、泣きそう」


「泣いてないよ」


「目、赤いですよ」


「気のせいだ」


二人で笑った。


ドアベルがまた鳴った。今度は常連の吉村さんだ。


「よう、日曜も営業してるんだ」


「ええ、最近始めたんです」


「へえ、いいね」


吉村さんがカウンターに座る。健太が「いつものブレンドですか?」と聞いた。


「おお、健太君、もう覚えてくれたか」


「はい」


「偉いね」


私は吉村さんのコーヒーを淹れながら、ふと思った。


日曜日に店を開けて良かった。


三十年ぶりに来た女性も、引っ越し前の男性も、日曜日だから来られたのかもしれない。


「マスター」吉村さんが言った。「日曜営業、続けるの?」


「どうでしょうね」


「続けた方がいいよ」


「なんでですか?」


「日曜日って、特別じゃん。平日とは違う気持ちで、街を歩く人がいる」


「そうですかね」


「そうだよ。で、そういう人が、ふらっと入れる店があるのは、いいことだ」


健太が頷いている。


「僕もそう思います」


「じゃあ、しばらく続けてみるか」


「はい!」健太が嬉しそうに言った。


吉村さんがコーヒーを飲みながら、店内を見回した。


「それにしても、この店、名前いいよね」


「雨宮ですか?」


「そう。雨宮。なんか、詩的じゃん」


「前のマスターの奥さんの名字なんです」


「へえ、そうなんだ」


「ええ。川崎さん、奥さんのこと大好きだったらしくて」


「ロマンチックだね」


健太が「いい話ですよね」と言った。


「うん、いい話だ」吉村さんが頷いた。「そういえば、雨宮って、雨の神様みたいな名前だよね」


「そうですね」


「雨の日に、傘を忘れた人が逃げ込んでくる。そういう店」


「なるほど」


私は笑った。確かに、雨の日の客は多い気がする。


「マスター」健太が言った。「雨宮って、英語で何て言うんですかね」


「さあ。Rain temple?」


「かっこいい」


「でも、看板に英語は要らないでしょ」


「そうですね」


三人で笑った。


ドアベルがまた鳴り、若いカップルが入ってきた。


「いらっしゃいませ」


「すみません、二人なんですけど」


「どうぞ、お好きな席へ」


カップルは窓際の席に座った。健太がメニューを持っていく。


「コーヒー二つで」


「かしこまりました」


店内が少し賑やかになってきた。


吉村さんがコーヒーを飲み終え、立ち上がった。


「じゃあ、また来るよ」


「ありがとうございました」


吉村さんが出て行った後、健太が言った。


「マスター、日曜日、楽しいですね」


「そうだな」


「平日とは、なんか違う」


「どう違う?」


「うーん」健太は考えた。「みんな、ゆっくりしてる気がします」


「確かに」


「急いでる人が、いない」


「そうかもな」


私は新しいコーヒーを淹れながら、窓の外を見た。


日曜日の街。歩く人も、どこかのんびりしている。


この店も、そういう空気に包まれている。


「健太」


「はい」


「お前、この仕事、向いてるかもな」


「本当ですか?」


「ああ。お客さんをよく見てる」


「ありがとうございます」


健太は嬉しそうに笑った。


コーヒーを二つ、窓際のカップルに運ぶ。二人は仲良く、外を眺めながら話している。


私はカウンターに戻り、また豆を挽き始めた。


豆を挽く音。


窓の外の鳥の声。


カップルの笑い声。


日曜日の朝の、穏やかな時間。


「マスター」健太が言った。「僕、ずっとここで働きたいです」


「まだ二日目だぞ」


「でも、もう決めました」


「そうか」


「はい」


私は笑った。


「じゃあ、しっかり覚えろよ」


「はい!」


健太は張り切って、テーブルを拭き始めた。


若いって、いいものだ。


そう思いながら、私はコーヒーを淹れ続けた。


『コーヒーハウス 雨宮』


川崎さんの奥さんの名前を冠した、この小さな店。


五十年続いて、これからも続いていく。


健太が、いつかこの店を継ぐ日が来るかもしれない。


そんなことを、ふと思った。


でも、それはまだ先の話だ。


今は、目の前のコーヒーを、丁寧に淹れる。


それだけでいい。


日曜日の朝。


静かで、でも温かい時間が、流れていく。


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