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水曜日の午後三時

今日から新連載スタートします。

一挙五話を時間を開けて投稿予定なのでお楽しみに。

明日からは毎日更新します。


ゆるい作品なのでゆるい目線で読んでいただけると幸いです。

# 水曜日の午後三時


カウンターの奥で、私は湯気の立つコーヒーカップを磨いていた。窓から差し込む午後の光が、店内の古びた木のテーブルを優しく照らしている。開店して二十年、この喫茶店「コーヒーハウス・雨宮」は、時代に取り残されたように静かに佇んでいる。


時計の針が三時を指した頃、ドアベルが軽やかな音を立てた。


「いらっしゃいませ」


入ってきたのは、見覚えのある二人組だった。六十代後半と思われる女性客、田所さんと山田さん。二人は月に二度ほど、決まって水曜日の午後に訪れる。


「マスター、今日も静かねえ」


田所さんが窓際の席に腰を下ろしながら言った。


「ええ、まあ。静かなのがうちの売りですから」


私は苦笑しながら答え、メニューを差し出す。もっとも、二人がいつも頼むものは決まっているのだが。


「ブレンドコーヒー、二つね」


案の定、山田さんがそう言った。


豆を挽く音が店内に響く。私はこの音が好きだ。何かが始まる予感がする音。ドリップする間、カウンター越しに二人の会話が聞こえてくる。


「ねえ、聞いた? 商店街の魚屋さん、息子さんが継ぐことになったんですって」


「まあ、良かったじゃない。あそこ、閉めるって噂だったのに」


「でもね」田所さんが声を潜めた。「息子さん、四十過ぎまで銀行マンだったのよ。それが急に魚屋って」


「人生、何があるか分からないものねえ」


山田さんがしみじみと言う。私はコーヒーをカップに注ぎながら、ふと自分のことを思い出していた。かつて私も、まさか喫茶店のマスターになるとは思っていなかった。


「はい、お待たせしました」


二つのカップをテーブルに置く。立ち上る湯気が、午後の光の中で揺れている。


「ありがとう。いい香り」


田所さんがカップに顔を近づけた。


「でもね」山田さんが話を続けた。「私、ちょっと羨ましいと思ったの。四十過ぎてから、全然違う人生を選べるなんて」


「あら、あなたまだ何か始めたいの?」


「そういうわけじゃないけど」山田さんは少し照れたように笑った。「可能性があるって、素敵じゃない」


私はカウンターに戻り、また別のカップを磨き始めた。二人の会話は心地よいBGMのように店内に流れている。


「そういえば」田所さんが急に思い出したように言った。「マスター、ここを始める前は何をされてたの?」


突然話を振られて、私は少し驚いた。常連のお客さんでも、私の過去を知る人は少ない。


「広告代理店で、営業をしていました」


「まあ、意外。全然そんな感じしないわね」


「よく言われます」


私は笑った。本当に、よく言われる。スーツを着て、クライアントの顔色を窺っていた頃の自分を、今の私は想像できない。


「どうして喫茶店を?」


「さあ、なんででしょうね」


私は正直に答えた。当時の自分でもよく分からなかった決断だ。ただ、朝の通勤電車で、ふと「このままでいいのか」と思った。それだけのことだった。


「かっこいい」


山田さんがぽつりと言った。


「え?」


「だって、分からないけど飛び込んだんでしょう? それって勇気よ」


「勇気というか」私は頭を掻いた。「単に無謀だっただけかもしれません」


「無謀と勇気の違いなんて、紙一重よ」田所さんが言った。「結果的にうまくいけば勇気、失敗すれば無謀。でも、やってみなきゃ分からないじゃない」


コーヒーを飲みながら、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


「私たちもね」山田さんがカップを置いた。「実は、来月から習い事を始めるの」


「へえ、何をされるんですか?」


「社交ダンス」


「まあ」私は思わず笑顔になった。「素敵じゃないですか」


「でしょう?」田所さんが嬉しそうに言った。「もう七十近いのにって娘に呆れられたけど、七十近いからこそよ」


「その通り」


私は心からそう思った。年齢なんて、ただの数字だ。


ドアベルがまた鳴り、今度は若い男性が一人入ってきた。スーツ姿で、少し疲れた顔をしている。かつての自分を見ているようだった。


「いらっしゃいませ」


男性は無言で頷き、カウンター席に座った。


「コーヒーを」


「かしこまりました」


また豆を挽く。その音に、男性が少しだけ表情を緩めたように見えた。


「マスター」田所さんが会計を頼んだ。「ごちそうさま。今日も美味しかったわ」


「ありがとうございます。来週もお待ちしてます」


「ええ、また来るわ。それまでにダンスシューズ、買っておかなきゃ」


二人は笑いながら店を出て行った。ドアが閉まり、また店内は静かになる。


私は男性にコーヒーを出した。


「お疲れ様です」


「ああ、ありがとう」


男性は一口飲んで、ふうと息をついた。


「この店、落ち着きますね」


「そう言っていただけると嬉しいです」


「僕、近くに転勤してきたばかりで。今日、たまたま通りかかって」


「そうでしたか」


私は微笑んだ。たまたま、という言葉が好きだ。人生の転機は、いつもたまたまやってくる。


「また来てください」


「ええ、来ます」


男性は少し明るい顔で答えた。


窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めていた。古びた時計が、静かに時を刻んでいる。この店に流れる時間は、外の世界よりも少しだけゆっくりだ。


私はまたカップを磨きながら思う。明日はどんなお客さんが来るだろう。どんな会話が聞けるだろう。


四十五歳、少しくたびれた喫茶店のマスターの、何でもない水曜日の午後。でも、悪くない。むしろ、これが私の選んだ人生だ。


コーヒーの香りが、店内を満たしている。


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