四
俺は彼女に何を求めていたのだろうか。
「かんぱーい」
闇夜に染まった窓に囲まれた食堂に響く、乾杯の音頭。小野山支店では転勤していく行員の送迎会を、居酒屋などではなく支店の二階にある食堂で行うことがある。若手の行員が手配したお酒や寿司、揚げ物パーティーセットが並べられたテーブルを囲み、人々は自分の持っているプラスチックグラスに一口目をつけていた。
「川崎さーん、えーん、寂しーい」
まるですでに酔っているかのようなテンションで川崎さんに絡んでいるのは、相変わらずの新井さんだ。言葉の内容が嘘か本当か、もはや分からない。俺は一口目でほぼ一気に飲み干してしまったグラスを、テーブルに軽く置いた。
「なんすか、なんすか、嫌なことでもあったんっすかー」
こちらも相変わらずの池垣、俺のグラスに缶ビールを必要以上になみなみと注ぐ。
「飲みにくいだろっ」
「盛り上がってますねー、女子が。というか、新井さんが」
給湯室付近できゃーきゃーやってる、ほぼ、というかもはや新井さんのみの声をBGMに、こぼさないように気をつけながら二口目をつける。川崎さんはいつも通りの冷静な横顔だ。
で。
『特に好きじゃありませんでした』って、どういうことだ?
あの球技大会から三日。彼女は明日からもうここにはいない。ここからいなくなること、正直まだ実感がないんだよな。でもそこに存在する気持ちは、感傷的というよりも、むしろ。
俺にとって川崎さんって、どういう存在だったんだろう、ということ。
仕事中、何度あの山吹色が頭をかすめたのだろう。
ねえ、川崎さん、俺はね。
あの色を思い出すと、余計なことを考えなくても済んでいたんだよ。
心が埋められて、もうそれ以上何も考えなくていいって。
君に救われていたんだ。
そう。
君のことを何も知らないのに。
「特に好きじゃないやつと付き合う、うん、まぁ長い人生そういうこともあるかもしれない、でも、なんかあの言い方だと」
「何ぶつぶつ言ってるんすか?あ、ビール取って来まっす~」
空いた缶を抱えた池垣は、新たなビールを求めて冷蔵庫の方へ。
「なんかあの言い方だとさ……」
誰も好きになりません、みたいな。
川崎さんの世界は、きっと彼女だけで完結してるんだ。
他人はいらない。
俺は、いらない。
「野田ちゃ~ん。飲んでる~?」
「お!一番他人を必要とするタイプの子が来た」
「え?なになに?なんか酔ってな~い?」
池垣がいなくなった途端に俺の隣に滑り込んできた新井さん。
「俺は君が嫌いじゃないよ」
「ひゃあっ。こぼしちゃった~。ちょっとお、池垣、池垣~。野田ちゃんがなんかすごいこと言ってきた~」
向こうから缶を数本持ちながら戻ってくる池垣に助けを求める体で、他人に自分の状況をアピールする彼女。
分かりやすいなぁ、かまってちゃん。
「野田さん、むっつりっすもんねぇ」
「おい池垣、俺がさっき何を言ったと思ってるんだよ」
「好きって言われたの~」
「いや、微妙に違うから」
「え~、何よ、それ~」
「セクハラじゃなくて愛の告白されたんっすか?」
またいつもの調子で二人が騒ぎ始めたところで、俺は頬杖をついた片腕の延長線上にいる川崎さんを見遣る。彼女はちょうど次長と話し始めたところだった。
君がいなくなる。
君が遠くに行く。
毎日そこにいたのに。
俺は君に何も言うことができない。
『付き合ってください』
もし奇跡が起こるとして。
唯一繋ぎ止められるかもしれないその言葉は、あまりにも自分の本意とのズレを感じる。
「野田ちゃ~ん、池垣がうざ~い」
本来の俺は、新井さんみたいなタイプと付き合うのが楽なんだ。勝手にわーきゃーやってくれて、良いも悪いも、俺はそれに付き合う。分かりやすいデートをして、分かりやすいケンカをして、分かりやすくホテルに行く。
今までもそうやってきて、そしてたぶん、これからも。
「分かりましたよ~、野田さんは結局酔ってるだけ!それでいいっすね?んじゃ、俺そろそろ酒ついできま~す」
川崎さん、俺は、君にとても救われていたはずなのに。
「じゃあ、俺もそろそろ動こうかな……」
結局、これ以上もこれ以下も。
「えー、じゃあ私もー」
どうすることもできないんだ。
黄色とオレンジに彩られた花束を、口元が隠れるような受け取り方をした彼女。
食堂に鳴り響くのは、今までの労いとこれからの活躍を祈るための拍手。
さようなら、川崎さん。
何も言えなかった。
何をどう言えばいいのか、分からなかった。
送別会も無事に終わり、皆は徐々に片づけモードに入っていく。
俺はすでにもう入りきらなくなった缶入りのゴミ袋を運ぶためと見せかけて、会場を離れる。
なんとなく一人になりたかった。
廊下は非常灯のみが煌々と輝き、角を曲がると自動販売機の異様な明るさに少し目がくらんで佇んだ。
まるで永遠に終わらないゲームをしているかのように規則的な点滅を繰り返す部分を目で追いながら、俺はこれからどうしようと思った。
川崎さん、川崎さん、川崎さん。
「野田さん」
弾くように振り返ると、そこには俺が、今も含めてこの支店にいる間、ずっとずっと名前を呼び続けていた川崎さんがいた。
「は、はい」
うつむき加減の彼女は、両手に一輪の花を持っていた。
赤みを帯びた黄色い花。それは、ほとんどあの山吹色。まるで、あの日のスカートのような。
「これを」
自動販売機の光を真正面から浴びた彼女が少し上げた顔の表情、それは今まで見たこともないような赤さを滲ませ、息を止めてしまいそうなほどの緊張感。
「あ、ありがとうございます」
「私」
「は、はい」
「私、野田さんに救われていました」
俺の指の動きに花が揺れ、心ではあの日のスカートが舞う。
「野田さんだけ、他の人と違うって、ずっと思っていたんです」
こんなに自分から話す彼女を見たことがない。必死に言葉を発している。
「繊細で、ちゃんと違和感を感じることができる人、ここにそういう人がいて、良かったなって、思って」
いちいち気にしていたら、仕事を効率よく回すことなんかできない。ずっと俺のダメなところだと思っていた部分。どうしても、心を殺すことができなかった。
「今まで本当に、ありがとうございました」
すべてを出し切ったかのような、吹っ切れた笑み。純粋な感謝に思えた。それ以上の他意がないくらい。
俺がずっと心に浮かべていた色が、彼女の気持ちと共に手元に一輪の花として降り立つ。
「俺も……」
人、一人の存在が、知らないところで誰かを救っているんだ。
そこに絶対、型通りの『男女の展開』をあてはめなければいけないのだろうか?
『あなたがいてくれたから』
そんな想いを伝えあうだけ、それだけの告白があったことを、俺はきっと。
一輪の山吹色の花を、もしまたどこかで目にすることがあるのなら。
心の片隅に思い出すのだろう。