31 月夜の甘い我儘
お試し交際がスタートしたその日の夕方。
私はなぜか、王宮の奥深くにある超VIP仕様の『特別室』へと案内されていた。
「あ、あの……セーリナ様。これは一体?」
「何って、未来の第二王子妃の部屋に決まっているでしょう? しばらく王宮に滞在していくといいわ。あの子とのお試し期間なのだから」
セーリナ様はふふっと意味深に笑い、私をこの豪華絢爛な部屋に押し込んだのだ。
天蓋付きのふかふかなベッドに、アンティークの美しい家具。
部屋の隅には、母国では見たこともないような高級な魔法具まで置かれている。
(すごい……一泊いくらするんだろう、この部屋)
私は落ち着かなくて、とりあえず窓辺の長椅子にちょこんと座り込んだ。
ここに来るまでの出来事を、なんとなく振り返ってみる。
実家を飛び出して、辺境のルシェルシェで受付嬢として雇ってもらって、冒険者になって、ジュリアンさんの馬車で王都へ来て。
ブラック職場を一日で攻略したと思ったら、大国の王子様とお付き合いすることになって、今は王宮のVIPルーム。
「なんだか、とんでもない大ごとになっちゃったな……」
ぽつりと呟くと、少しだけしんみりとした気持ちになった。
私はただ、可笑しく楽しく平和に生きたかっただけなのに。
不思議と後悔はないんだけど。
さすがに出来過ぎだと、思っている。
父上、私がアルヴェリア王宮に居るって知ったら、どんな顔するんだろう。
カイルは……まさか乗り込んでこないよね。
怒涛の日々をしんみりと振り返っていると、控えめなノックの音が響いた。
扉を開けると、そこに立っていたのはレオンさんだった。
「夜分にすまない。こちらに居ると聞いてな……ユフィ起きているか?」
「レオンさん! えっと、お仕事は……」
「……兄上に、今までのツケだと言われて、通常の五倍の書類を押し付けられた。結局、こんな時間までかかってしまった」
気まずそうに目を逸らすレオンさんに、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「一刻半で終わらせる」と豪語していたのに、しっかり深夜まで働かされたらしい。
シベリウス様、なかなかに容赦がない。
「お疲れ様です。中へ入りますか?」
「いや……もしお前が疲れていないなら、少し歩かないか? 夜の庭園は、静かで涼しい」
彼がスッと差し出した大きな手を、私は迷わずに取った。
月明かりに照らされた王宮の庭園は、昼間とは違う幻想的な美しさがあった。
私たちは手を繋いだまま、ゆっくりと石畳の小道を歩く。
「……今日、仕事の合間に母上と話をした」
ぽつりと、レオンさんが口を開いた。
「母上が毒婦を演じていた理由。俺を王位継承の争いから遠ざけ、兄上を守るためだったこと……すべて聞いた」
「そう、だったんですね」
「俺は、母上を権力に執着する愚かな女だと思い込み、ずっと憎んでいた。兄上のことも、いつか殺し合う政敵だと、心のどこかで線を引いていたんだ」
レオンさんは立ち止まり、庭園に咲く白い薔薇を見つめた。
「この王宮は、氷のように冷たくて息が詰まる場所だった。家族でさえ信じられないのだから、他人なんてまして……お前と出会うまでは」
繋いでいた手に、きゅっと力がこもる。
レオンさんが振り返り、月の光に照らされた翡翠の瞳で、私を真っ直ぐに見下ろした。
「ユフィ。お前が俺の凍りついた世界を溶かしてくれた。母上の本当の心に気づかせてくれた。……ありがとう」
その声は、かつてなく穏やかで、深い愛情に満ちていた。
氷の狂犬と呼ばれていたらしき彼が、こんなにも優しく切ない表情をするなんて。
「私は、ただお茶を淹れただけですよ。それから、少しだけお話し相手に。レオンさんが、ちゃんとセーリナ様やシベリウス様と向き合ったからです」
「それでも、だ。俺にはお前が必要だ」
真剣な声に、私は顔を熱くしながら小さく頷いた。
★
「……送ってくれて、ありがとうございます。おやすみなさい、レオンさん」
私の部屋の前まで戻ってくると、扉に手をかけて彼に微笑んだ。
深夜まで仕事をして疲れているはずだから、早く休ませてあげないといけない。
しかし。
レオンさんは「ああ」と頷いたものの、その場から一歩も動こうとしなかった。
「レオンさん?」
「…………」
彼は扉の前に立つ私の前にすっと距離を詰めると、じっと私の目を見つめてきた。
その大きな手が、私の頬にそっと触れる。
「もう少しだけ……このまま、お前と」
「えっ……でも、明日も仕事が……」
「構わない。……帰したくない。いや、ここはお前の部屋か……」
甘く掠れた声。
親指が私の唇の端を優しくなぞり、彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
逃げ場のない扉を背にして、彼の体温と微かな甘い香りに包み込まれ、私の心臓は早鐘のように鳴り始めた。
(お、お試し交際初日から、これは心臓に悪すぎる……っ!)
ゆっくりと、端正な顔が近づいて来て。
睫毛、長い。
「ユフィ、余所見をするなよ。俺を見ていろ」
「は、はいっ」
限界突破した溺愛モードのレオンさんに、私はギュッと目を閉じることしかできなかった。




