鉄鼠とゼリーフライ(前編)
「うひゃぁぁあぁああぁあ!」
それは丑三つ時も過ぎ、お客さんもまばらになった夜更けも更け。
店の奥から藍蘭さんの叫び声が聞こえてきたのです。
「どうしました!? 太郎さんですか!?」
太郎さんとはこの店でのゴキブリの隠語。
この『酒処 七王子』はあたしが念入りに掃除しているとはいえ、飲食店の宿命には逆らえず太郎さんの侵入を許してしまう事もある。
「いいえ、侍女よ侍女が出たわ!」
そして、侍女とは鼠の隠語なのです。
語源は察して下さい。
うぬぅ、ついに侍女さんも登場しましたか。
最近多いってニュースにもなっていたわよね。
冬の寒い中、温かい飲食店に侵入するネズミが増加しているって。
「どこですか? どこ?」
あたしは台所に入り顔をキョロキョロさせて室内を見回す。
「あそこよ! あそこの野菜カゴの陰!」
藍蘭さんの指差す方向にあたしはそーっと近づく。
右手にはガムテープの裏巻き。
これでネズミを張り付けて、お外へポイ。
それがあたしの作戦。
「てやっ!」
あたしが野菜カゴを動かすと黒い影が飛び出す。
そしてそれはあたしの手をすり抜けた。
「ギャー! あっちいって! てばぁ!」
藍蘭さんの叫びと共に妖力が高まり、そしてそれが放たれる。
ドゴン!
ふっとんだ……
裏口のドアが……
空いた空間から、まだ寒い夜の空気が室内に流れ込む。
チュチュチュ
そして侍女さんは夜の闇に消えて行きました。
「もう、藍ちゃんさん、せめてドアは手で開けて下さい」
あたしは外れた戸を持ち上げて再び元の位置に戻す。
蝶番がゆがんじゃってるじゃないですか。
「藍ちゃんさんの方が強いんですから、そんなに怯えなくてもいいのに」
「戦えば勝てるけど、触れたくないの」
ちょっと頬をふくらませて藍蘭さんが言う。
まあ、確かに人間も太郎さんや侍女さんを見ると悲鳴を上げる人もいる。
あたしは平気。
さすがに等身大の太郎さんや侍女さんが出ると悲鳴を上げるけど。
「ふう、店じまいはアタシがやるから、珠子ちゃんは裏の戸締りをお願いね」
「えー、あたしが直すんですか、これ?」
「また侍女が入って来たら大変でしょ。おねがいねー」
んもう、壊したのは藍蘭さんなのに。
あたしは工具箱を取り出し、扉の修理に取り掛かる。
カチャ……カチャ……
その修理には少々時間がかかった。
藍蘭さんは早々と自分の部屋に入っていっちゃうし。
他の人は早々に寝てたり、そもそも帰っていなかったりしている。
んもう、あとで残業代を請求しますからね!
よしっ、終わり!
裏口の修理を終えたあたしはお店の方に戻る。
ぴちゃ……ぴちゃ……
ん? なにやらカウンターの中から音がする。
侍女さんがまだ残っているのかな?
あたしがそーっとカウンターを覗くと……、そこには黒い僧衣を着た等身大のネズミが酒を舐めていたのです。
「あ゛ー!? うあ゛らさあ゛どぁらくふぇー!?」
あたしは悲鳴を上げた。
◇◇◇◇
どどどどどどどどーしよう。
戦う!? 逃げる!? 助けを呼ぶ!? それとも冷製になる!?
冷製パスタって動物油を使うと固まっちゃうので植物油を使わざるを得ないけど、コクが足りなくなっちゃうのよねぇ。
違う! 冷静に!
たたたた助けを呼ぼう!
あれはどう見ても”あやかし”よ!
そしてお客様でもないわ!
「だだだだだれか~! 変質者です、変質者! あ~れ~、おかされる~!!」
「失敬な! だれがお前のような貧相な娘に!」
等身大の鼠がこっちを見て声を上げる。
よかった意志の疎通は出来そう。
「そっちこそ、酒が飲みたいのなら正面からお客様としていらっしゃって下さい!」
「いやだね! バカ正直に金を払うなんてバカがすることさ!」
うぬぬ、そういう考えなら、こっちだって考えがありますよ!
店の奥からダダダダダという足音が聞こえる。
よしっ、増援が来た。
みなさん! やっちゃってください!
「珠子ちゃん、どうした……ギャー!? ねねね、ねずみぃ!?」
一番最初にやってきたのは藍蘭さんが悲鳴を上げる。
そして高まる妖力。
それがあたしの頭にさっきの裏口の惨劇を思い出させる。
「だめです! 藍ちゃんさん!」
あたしは藍蘭さんと巨大ネズミとの間に割って入る。
カウンターの中には美味しいお酒とお高いお酒がいっぱいあるの!!
大切な物を! あたしは! 守る!
「えっ!? 珠子ちゃん!?」
強大な衝撃があたしを襲う。
吹っ飛ばされる身体、背中に衝撃、抜けていく足の力と意識。
「だ、大丈夫!? 珠子ちゃん、珠子ちゃーん!?」
遠のいていく意識の中、あたしには聞こえなかった。
瓶の割れる音は。
よかった……まもり……きれた……
◇◇◇◇
みょんみょんみょんよん
人間の声帯からは発せられない音が聞こえる。
「……あっ気づいた」
そう声をかけて来たのは橙依くん。
音の発生源はその掌。
そこには何かが吸い取られていて、それで妙な音を立てているみたい。
「……はい終わり。妖気のダメージは吸い取ったから、あとはただの打撲」
「ごめんなさい珠子ちゃん。でもあんな真似を?」
「いやー、カウンターのお酒が心配で」
あたしは半身を起こし、頬をポリポリかきながら言う。
「……そんな理由で!?」
「うん、だってカウンターには貴重でお高いお酒がいっぱいあるのよ」
「……もう止めて」
そう言って橙依くんはプイと横を向く。
うーん、ちょっと怒らせちゃったかな。
面倒をかけちゃったもんね。
「それで、あのお化けネズミは?」
「逃げちゃったわ。『うまい酒と飯だったぞ! また頂きにくるからな!』って捨て台詞を残して」
うえー、リピーターは歓迎だけど、つまみぐい泥棒の再来は御免だわ。
「何とか追い払う方法はないのでしょうか」
「うーん、荒事なら蒼明ちゃんかアタシだけど、アタシは嫌だわ。アイツを見ると背中がぞわぞわしちゃうんだもの」
そう言って藍蘭さんは背中をブルブルと震わせた。
「……ごめんね僕はバトルはあまり得意じゃないんだ」
少しシュンとして橙依くんがうなだれる。
「いいのいいの、橙依くんにそんな事はさせられないわ。蒼明さんに頼みましょ」
◇◇◇◇
「嫌です」
蒼明さんへのお願いは、けんもほろろに断られた。
「どうしてです!? 『酒処 七王子』の危機なんですよ!? こういう時は『これは貸しですからクィ』って引き受けてくれるものじゃないですか!?」
あたしはエア眼鏡をクィとしながら言う。
「ねずみさんのような可愛……弱きものを傷つけるなんて強者の行う事ではありません。自分で何とかして下さい」
うーん、そうなのか、蒼明さんは可愛いものに弱いのか。
「でもあれ、デカいんですけど」
「デカくてもダメです。お店の衛生を保つのも貴方の仕事でしょう」クイッ
「いーですよ! それならプロに頼みますから!」
そう言ってあたしはスマホを取り出した。
◇◇◇◇
「なるほど、それで拙僧に白羽の矢が当たったわけであるか」
カウンターで豆腐田楽をつまみに般若湯を飲んでいるのは慈道さん。
この店の唯一の人間の常連さん。
あたしがお願いするプロとはネズミ駆除の業者ではなく”あやかし”退治の英雄なのです。
あたしの見立てでは、あたしの人間の知り合いの中で最も霊力が高いお坊さんなのです。
まあ、破戒僧ともいうけど。
「その通りです、お礼は料理で払いますから。はいこれ、特製田楽三種です」
あたしはお皿に串に刺さった三種の田楽を出す。
「ほほう! 田楽三種とな!?」
「はい『コンニャク田楽』と『茄子田楽』に『がんもどき田楽です』」
四角く切ったコンニャクと、縦半分に切られた茄子、そして丸いがんもどき、その三つに味噌が塗られ軽い焦げ目と香ばしい匂いを立たせていた。
「がんもどきの田楽とは珍しいの」
「はい、食べればわかります」
「ほほう、ならば早速頂こう。まずはコンニャクから」
クキュッっと弾力と持ったコンニャクが慈道さんの口に入る。
「ほほっ! これは強い弾力と甘めの味噌が良い味を出しておる。それに……」
そう言って慈道さんは少し思案する表情をして、次の茄子田楽に手を出す。
「ほっ! これは表面はパリッとしてて、中身はトロトロで! 旨い汁が辛めの味噌と一体となって口の中にあふれてきおる!」
慈道さんの口が動くたびに、その顔がにやけるのがわかる。
「そして、最後のがんんもどき田楽だが……この香りは辛子味噌であるな」
慈道さんの言う通り、がんもどき田楽に塗られた味噌は薄い黄色。
そこから少しツンとする和辛子の匂いがあたしの所まで届いてくる。
「がんもと言えばおでんの具が有名であるが、さてこの田楽はどうかな」
ふふふ、そのがんもどきは少し小さめに作ってあるの。
ひとくちで食べれるように。
あたしの思惑どおり慈道さんはそれを丸ごと口に入れる。
じゅるり
あたしの涎の音ではない。
それは慈道さんの口から発せられた音。
「ほう! これは表面は乾いて焦げ目がまでついておるのに、中身は汁気たっぷりであるな!」
「はい! これは特製煮物田楽です! ひたひたの出汁で炊いたコンニャクと茄子とがんもどきを網に乗せてバーナーで炙りました!」
この特製田楽三種は普通の豆腐田楽と違って炭火で焼いていない。
煮上がった具に味噌を塗ったら、網の上で、上から下から横から四方八方からバーナーで炙る。
これで表面はカラっと、味噌は香ばしく、そして中身は出汁の旨みと汁がたっぷりになるの。
「これは嬉しい味じゃ! 口の中で具と味噌と汁の味がそれぞれの旨みを主張しつつも一体感を出しておる! 否! 一体になろうと調和進化しているのじゃ!」
「もちろん出汁は精進だしですよ」
この人なら魚や肉の出汁でも喜んで食べそうだけど、さすがにリクエストなしにお坊さんに生臭物を供するわけにはいかないわよね。
「どうせなら、家で再現出来ない料理をお出ししようと考えて作りました。一般家庭には料理用バーナーなんてありませんからね」
この前、年末大バーゲンで買ったこのバーナー、便利だわー、捗るわー。
「ううむ、魚や肉の出汁でも良いのに……やっぱ三種の浄肉があったりせんかのう?」
「ありません」
御仏の微笑みであたしは応える。
「さて、体もちょうどよくあったまった事じゃし、そろそろ仕事に取りかかるとしようかの」
「はい、お願いします」
あたしは、いや、あたしたちは感じている。
知り合いではない”あやかし”の気配を。
慈道さんが錫杖を手に取り、それで床をトンと突くとシャリーンと音が鳴った。
そして部屋の片隅の影がむくりと大きくなる。
「ほう、高野山の僧か。比叡山の僧であったら許さぬ所であったが、今なら見逃してやってもよいぞ」
影は僧衣の巨大ネズミとなってあたしたちの前に現れた。




