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革命の果てに

 ベルゼブブの絶命によって、教会の崩壊は止まった。否、もはや大地が残るだけであり、文化的な痕跡はほとんど消失してしまっている。世界地図からは教会の存在は抹消されてしまっただろう。最初からなかったかのように、まっさらな状態に。

 誰も、覚えていない。祓魔師が世界を守ってきたことも、世界が悪魔の箱庭であることも。

 だが――皮肉なことに敵は覚えている。目の前の男は祓魔師の存在を知覚している。


「限りある人間たちは、記憶を保持しているだろう。だが、もはやお前たちの優位性は失われた。今までのように古き約定で国に干渉することはできない。不完全ではあるが、十分な成果だ。後は……」


 ナポレオンはカットラスの切っ先をローズマリーに向ける。新しく彼の横にやってきた死体が大砲の準備を始めた。


「お前を始末することで終わる。もはや説得は無意味だろう。今更何を言ったところで、お前は不屈の闘志とやらで私に刃向かってくる。戦う意味などなかろう。なのに、どうしてそこまで動くのか」

「エクソシストだから。他に理由なんて必要ある?」

「ああ、ないとも。放て!」


 ナポレオンは砲撃命令を出した。ローズは崩壊コラプスの名を持つレバーアクションライフルを撃つ。壺娘は教会が崩壊することを予期していたのかもしれない。だとしても……だとするならば、教会だけで済ますつもりはない。

 崩壊するのは退魔教会だけではなく、ナポレオンが思い描く新世界もだ。彼が世界に敷く規範すらも崩壊させて見せる。


「私がいなければフランスは再び戦火に包まれるだろう。それはお前とて許容しがたいはずだ」


 轟音が響いて、後方の地面を抉る。大砲への対処は理論こそ単純だが、実行するには困難だ。しかし、ローズはシンプルな対処方法を実現できるだけの実力を持っている。砲弾への対応策は、走って避けること。しばらく発射して、砲弾がローズに命中しないと知り、ナポレオンは言葉を発し始めた。


「我が友人であるマモンによって戦争の火種は世界中に拡散するだろうが、やはり、主戦場はヨーロッパだ。戦争はヨーロッパから持ち出され、ヨーロッパへと戻っていく。ヨーロッパには火薬庫がある。教会が崩壊する前ならばお前たちが介入しただろうが、それももう叶わない」

「だからあなたを逃せ、と? 冗談じゃない」

「私が目指す世界はお前たちと同じだぞ。ただ方法が異なっていただけだ」

「その方法が問題なの。あなたの目的が世界の統一でも平和でも、何だって構わない。私はあなたを祓う。これは決定事項よ。……定められた運命って奴ね」


 ウェイルズはローズを怪物だと見抜き、計画に利用した。ナポレオンもまたウェイルズの真の目的を知りながらも彼を配下とした。事の発端はもしや誰しも無関係なのかもしれなかったが、ローズ自身をランドマークとして運命という名の機関車は走り出した。

 そう、まだ走っている。終着駅ではない。だからローズは戦えて、ナポレオンも大砲を再装填する。


「運命とは皮肉なものだ。私に刃向かう最後の敵すらもウェイルズだとは」

「そう、最後。最後になるわ」


 ローズは確信し、ナポレオンも達観していた。どちらも似て非なる結末を想像している。ナポレオンの部下であるアンデッド兵を崩壊コラプスで撃ち崩すと突然周辺からたくさんのゾンビが集ってきた。簡易な魔獣。質よりも量で押すタイプの敵兵たち。だが、彼らは着実にローズにダメージを与えていた。

 肉体的ではなく、精神的に。彼らは守るべき国民たちであり、無実の人々だ。ただその場にいただけで屍兵として利用される。フランスが支配するのに最適だからとナポレオンが皇帝になったように。

 罪状などない。因果応報の法則は世界に働いていない。悪しき人間が相応の末路を辿るとは限らないし、善なる者に幸福の未来が待っているわけでもない。現実は理不尽だ。綺麗事を悪事が塗り潰し、そうしてまた純潔で高潔な精神がそうした悪を打ち破る。未来永劫まで続く戦いだ。まさに神と悪魔が無限の年月を争い続けてきたように。

 だが、だからこそ祓魔師は悪魔と戦い続ける。悪魔に取り込まれた人間を祓い続ける。いつか来るであろう終わりのために。

 その果てにあるものはただの破滅。無かもしれない。しかし、それがなんだ。例え未来が滅びであり、この教会のような光景が各所に散見するようになるとしても、それはローズが止まる理由にはなり得ない。


「私は怪物だから」


 改めて拒絶の意を銃弾と共に唱える。レバーを動かし薬室に弾薬を叩き込み、迫りくる死人たちを殺していく。死者は死なない。でも、殺せる。ローズは守るべき人たち、善い人間たちを殺していく。

 餌を見つけたカラスのように群がる敵を撃ち殺しながら、ローズは集団戦に最適な武器を発見した。ケイのレバーアクションショットガン、冷酷スピエタートだ。銀の散弾がきらきら輝いて、敵を血祭りにあげていく。いくらゾンビと言えども身体を撃ち砕かれれば行動不能に陥る。頭を吹き飛ばし、腕を千切り飛ばし、足を弾き飛ばした。血肉が転がり、地面とローズを濡らす。だが、一切不快には感じない。恍惚とし、信念すらも宿っている。撃ち飛ばした血を肉をローズは一身に浴び、その血肉の数だけ力が補強されていくように感じられた。

 復讐に意義を見出せない。だが、哀悼の意は胸の中に灯っている。あなたたちの死を無駄にはしない。あなたたちの生を無には帰させない。沸々と湧き上がっていく闘志に薪をくべるかのように、ローズは敵を猪突猛進の勢いで蹂躙していく。

 散弾銃の弾が切れたので、ローズは銃床で敵を乱暴に殴り倒した。瞬間、敵がいた場所にケイの残像が現れて苦笑する。――ローズさん、自分の身体を労わってくださいね。そう笑いかけてくる。


「無理な相談ね。少なくとも、今は」


 ケイの幻を見送って、ローズはナイフを引き抜いた。手や足の腱に一撃を見舞い、戦闘不能に陥れる。継承サクセションを取り出して、頭を的確に射抜く。数多の死者を薙ぎ倒し、再びローズは孤高の王と邂逅した。王は笑っている。余裕の笑みだ。自身の優位性は揺らいでいないと確信している笑み。

 だからローズは祓えるのだ。なぜなら……。


「あなたの辞書に不可能はないのでしょう?」

「そうとも、私のグリモワールにはな」

「なら、良かった。私があなたを祓うのも、不可能ではないってわけね」

「それは早計というものだぞ、ローズマリー!」


 ナポレオンは懐から新しい豪華な装飾が施された単発ピストルを取り出して、ローズに向かって穿ってきた。フリントロックの命中率など本来は低くて然るべきはずだが、今更銃の性能に言及したところで状況は変わらない。あるべきものはあるべきものとして受け入れる。その上で祓うのだ。

 ローズは弾丸を避けたが、まるで引力に引かれたかのように銃弾が戻ってきたのを肌で感じた。それを屈んで回避したところへさらなる銃撃。ナポレオン相手の銃撃戦は、通常の射撃戦とは異なる戦闘論で戦わなければならない。

 ローズはリボルバーによる跳弾射撃を用いて、ナポレオンに対抗しようと試みる。しばらく時代錯誤の撃ち合いに興じていたが、しびれを切らしたナポレオンがより実用的なフリントロックリボルバーを取り出した。手回し式のリボルバーとウェイルズが使用していたペッパーボックスの違いは回すのが銃身かシリンダーか程度でしかない。発射速度はウェイルズのそれとは大差なかったが、それはつまり十分驚異的だということだった。


「私を倒せはしない。私を止められはしない! 私は生まれた時から数多の困難に立ち向かってきたのだ!」

「私と同じね」


 ナポレオンの銃撃を躱し続け、弾切れになったことを悟ったローズはロープピストルを彼に向かって撃発。当然ナポレオンは避けるが、狙いは彼に肉薄することだったので問題ない。ロープに引かれるまま身体を宙へと浮かせて、ローズは悲劇トランジェディアをポケットから取り出す。携行性に優れた打撃武器を引力を利用して思いっきりナポレオンの身に叩きつける。ナポレオンは銃で拳武器を防いだが、勢いは完全に防げなかった。ロープを切り離して着地しながら、すかさず脇に提げていた水平二連をよろめいたナポレオンに撃つ。散弾が彼と、彼の持つ本を切り裂いた。ナポレオンが血を吐く。銃に身体を射抜かれたダメージというよりも、本に対するダメージが蓄積している。


「私のグリモワールを!」

「悪魔辞典なんて処分するに限るわ」


 言いながらも、ローズはナポレオンが次に放った一撃をまともに対処することができなかった。ただの蹴り。されど悪魔の蹴り。ローズの身体は物理法則が死滅してしまったかのような動きをみせて、しばらく宙を滑空するような状況になった。そのまま飛び続けて、近くの建物の壁を弾丸めいて打ち破る。瓦礫と共に家の床を転がり……笑った。壺娘の千里眼はどこまで的確なのか。そして。


(どうせ視えてるんなら教えてくれればいいのに)


 しかし壺娘は先の気になる未来は視ないという。理由は単純、つまらないから。

 理不尽に感じるが、その理由には共感できる。この先何が起こるか全てわかるのは一見理想的だが、酷い退屈に陥るだろう。満たされなくても不満を持つが、満たされ過ぎてもそれはそれで満足できなくなる。人とは、悪魔とは、怪物とは、かくも度し難い生き物なのだ。


「戦場で敗北を喫する敵兵を見た時、私は自分の未来を確信したのだ。より高みに、私は立てると。世界を支配できるとな」

「その未来は間違っていると言わせて頂く」


 崩れた壁から歩み来たナポレオンに返答しながら、ローズは真横に置いてあった武器を手に取った。訝しむナポレオンに武具の柄を向ける。トマホークピストルの銃部分を。斧とピストルの複合武器は通常の戦いにおいては無意味と言っても致し方ない組み合わせだが、やはり祓魔には有用だ。放たれた弾丸を目を見開いて避けたナポレオンへ、ローズは奇襲を仕掛ける。


「小賢しい真似を!」

「あなたよりはましだと自負してる」


 斧とカットラスの鍔迫り合い。だが、力比べでローズに勝ち目はない。またもや吹き飛ばされたが、今度は常識的な非常識の範囲に収まった。家の壁をへこませる程度の力でローズは壁に激突させられ、息を血と共に放出する。ナポレオンは喜々として指を弾き、背後に処刑台を準備した。


「やはり革命にはギロチンが付き物だ。そうは思わないか」


 ナポレオンは背を向ける。ローズが戦闘不能に陥ったと誤解したのか、或いは意図的な慢心か。どちらでも構わない。どうせ動くしか選択肢はない。

 ローズはロープピストルをもう一度構えて、天井に張り付く。そして、半ば呆れながら天井に仕込まれていたデリンジャーを手に取った。振り返ったナポレオンはローズがいないことに気付き、小口径の上下二連ピストルの発砲音を聞く。


「おのれ!」

「この銃、結構痛いわよ」


 自身の経験談を語りながら、ローズはロープを使って射撃を避ける。密閉空間ならローズの独壇場だった。クモの巣を張り巡らせるようにロープピストルを巧みに撃ち放ち、銃口から弾道を予測して回避していく。回避に徹したローズにナポレオンは癇癪を起し、大技に頼った。外から砲撃音が唸る。――その時をずっと待っていた。


「何ッ!?」


 ナポレオンの驚声。逃げると思った相手に攻撃を受けた事実から吐き出された正真正銘の驚愕だった。ローズはナポレオンに肉薄すると、水平二連の残弾を至近距離でナポレオンに撃つ。ウェイルズ家に伝わる銃の散弾がナポレオンの身体をずたずたに裂いた。しかし、彼はまだ死なない。ローズは散弾銃から手を放し、ナックルダスターとレバーアクションライフルの銃床を使ってナポレオンをひたすら殴打する。敵の回復を阻害する時間稼ぎ。大砲が家へと落着し、ローズの聴力を一時的に奪ったが、一切気に留めない。パーカッションロックリボルバーを取り出し即座にシリンダーを交換して、連射。ナポレオンの身体に無数の穴が開き、即座に閉じ始めようとする。そこへナイフをねじ込んで、ナポレオンの苦悶の声。矢継ぎ早に放たれた連続攻撃には、流石のナポレオンも行動力低下を余儀なくされたようだ。

 その結果に満足しながら、ローズは純潔イノセントという名のシングルアクションリボルバーの撃鉄を半起こしに。エジェクターロッドを使って素早く排莢すると、速やかに弾丸を流し入れる。ナポレオンが戦線復帰を果たした頃には、ローズの準備は整っていた。ぴたりと腹部に向けられた銃口が引き金を引きながら撃鉄を叩くという伝統的な射撃方法で不可能を可能にする辞書を八つ裂きにしていく。


「止せ! ぐ、ぬッ!」


 身体には一発も命中していないというのに、ナポレオンは悲鳴をあげながら後方に下がっていった。そして、背中が当たる。処刑台に。


「しまッ」


 四発目の弾丸が魔導書を破壊する。ナポレオンは絶叫して、処刑台に倒れる。ローズは五発目をギロチン設備に目掛けて撃った。留め具が外れてナポレオンの上半身が切断され、さらなる叫びをナポレオンは絞り出す。苦悶と苦渋に満ちた叫び声。しかし、そんなものを聞いてもローズの心は晴れない。死者が浮かばれることも、復讐心が満たされることもない。この渇きは、喪失感は二度と拭えはしないだろう。

 だが、怪物は満足している。それがせめてもの慰めだった。


「き、貴様! 私の、私の辞書グリモワールに、不可能は、ない……!!」

「だからあなたは負けたのよ」


 敗北すらも可能にしてしまうから。ローズはナポレオンに突きつけたリボルバーの引き金を引いた。

 仇敵の記憶が、ローズの心に開いた穴を埋めるかのように溢れ始める。



 ※※※



 執務室に座る男は窓の外で暴れ狂う民衆を憐れんでいた。それは高貴な者が劣った者を見下ろすような攻撃的な同情心ではなく、心の底から放たれた、悲哀と嘆きを含む共感だった。


「革命など無意味だ。彼らは気付いていない。フランスには指導者が必要なのだ。まだこの国は真なる意味で共和を成せるほどに成熟していないというのに」


 だが民衆は理解していない。いや、彼らはただ無知なだけなのだ。誰かが正しい思想を教え諭せば、彼らはきっと理解できる。しかしそのための指導者が存在していない。それは混迷を極めるフランスだけではないのだ。世界中のどこもかしこも、どれだけ優れた為政者さえも、未だ答えを見出していない。

 そもそも、答えなど存在しないのかもしれない。世界はずっと混乱したままだ。それらしく体裁を整えて、さも自然なように演出する遊戯が幾度と繰り返されていくのだ。

 それは悲劇だ。しかし、その悲劇を止める救世主は一向に現れる気配がない。


「誰かが彼らを導くべきだ。誰かが……」

「あなたがそれを成せばいい。違う?」

「誰だ?」


 誰も居ぬはずの方向から放たれた声に反応する。そこには……令嬢とも表現するべき少女がいた。紅茶を片手に持ち、漆黒のドレスに身を包む紫髪の少女だ。魅力的だが……それだけだった。


「ふふ、あなた、才能があるわ」

「才能だと? 私は……」


 男が疑問を述べると、少女は消失し背後へと回り込んだ。驚異的かつ神秘の一端を垣間見た気がしたが、それ以上のものは感じない。何となく対処方法は理解できた。混乱し、狂乱し、外の民衆のように愚かな振る舞いをすることも可能だったが、わざわざそのような狂気じみた錯乱をする理由が思いつかなかった。


「あなたは怪物を持っている」

「怪物とは何だ」


 悪口のように聞こえるが、しっくりくる表現でもあった。自分の心の底に秘めるわだかまりを氷解させるような。異端存在である少女に惹かれ始めている。否、興味を抱いたと言うべきか。

 知的好奇心を満たしたい欲求に駆られたが、その欲望は自制できた。


「いいわ。実にいい。あなたは上位者を目撃しても狂わないでいられる」

「それが怪物の条件だとでも言うのか」

「或いは、ね。ねぇ、あなた。人々を導く王にならない?」

「フランス人がコルシカ人の王を祀り立てる? 世迷言だ」

「でも今、世は迷っている」


 銃撃音が響き始めた。革命の推進をする過激派と衛兵の小競り合いが始まったのだろう。


「どうしようもなく迷っている。それはあなたも同じ。そうでしょう? 怪物さん」

「私は……そうだな。気の迷いがある。もしフランスを制御することができれば……コルシカ島に自由を取り戻すことができるだろう」

「そんな小さなことではないでしょうに。あなたの迷い心は」

「何だと?」


 少女は笑いながら今度は本棚に置かれた本に手を伸ばした。しかしそれは何かを執筆しようとして所持していたただの白紙の本だ。それを弄びながら、青年の本心を見透かしたかのように少女は告げる。


「あなたはフランスを、ひいてはヨーロッパを、そうして世界を一つにしたい。違う?」

「私は……そうだな。そういう想いもある。彼らは迷える羊だ。救済を求めている」

「ならあなたが救世主になればいい」

「そこまで世界が単純だとは思えない」

「あなたは世界の何を知っているのかしら? この世界の主が人間だとでも?」

「違うと言うのか、君は」

「もちろん」

「では、神か?」


 考えられるであろう存在を口にする。フランスの救世主ジャンヌ・ダルクも神の声を聞いて戦った。

 しかし少女は違うとばかりに首を振る。ならば、と考えられるもう一つの選択肢を声に出した。


「悪魔、か」

「ご明察」


 瞬間、合点がいった。目の前の少女と世界の主は同一存在だ。そのような上位者が、なぜわざわざ自分に目を掛けると言うのか。男は推察し、そもそも思考の余地がないことに気付いた。既に答えは提示されている。


「私が怪物であるからか」

「悪魔は敵を求めている。或いは、同じ目的を持った同志を」

「先程の話が真実ならば、私など取るに足らない存在に思えるが」

「そんなことはないわ。ええ、実に。賢い人間というのは素晴らしい。悪魔は確かに力だけならば、人類を圧倒している。でも、それが楽しいのは一時だけ。私たちは不老。何年も、何百年も、何千年も、何万年も、戦い、遊び、学び、生きてきた。そのせいで……心は涸れているの」

「贅沢な悩みだな。彼らとは無縁だ」


 男は窓の外で苦しみもがく群衆を見ながら言う。少女は同意したが、その瞳には苦悩が混ざっていた。


「そうね。でも、切実な悩みよ」

「強すぎるのも考え物か。そしてまた、弱すぎるのも問題だ」

「そう。丁度いい強さを持つのがいいのよ。そして、その強さの尺度が」

「……怪物。私は認められたのか」

「ええ」


 少女はぱらぱらと本をめくり始めた。不可思議なことに、何も書かれていないはずの本に文字が記されていく。だが、慄くことはない。ただその現象を眺めていた。もし、外にいる哀れな民たちであれば恐怖の叫びを上げて街中を逃げ惑うことだろう。


「そろそろあなたも乗り気になってきたでしょう。この契約に」

「いや、私は君と契約を結ばない。話を聞く限りでは、実に退屈そうだ」


 絶対的な力は不要だった。今必要なのは相対的な力だ。

 この混乱に立ち向かうには、対象に合わせた力が求められる。絶対的な力だと、いつか綻びをきたしてしまう。しかし、相対的な、標的に合致するように改変ができる力ならばあらゆる敵に対応ができる。


「なら、この本を使うといい。不可能を可能にする――辞書よ」

「グリモワール……だとでも言うのか」

「ええ、そう。グリモワール。これがあなたの力を最適な状態にしてくれる。彼らとも戦えるわ」

「エクソシストか」


 聡明な集団。しかし、無関心で不愛想な連中の呼称。彼らは歴史の分岐点とも言うべき時に現れるが、感心は常に悪魔を祓うことのみに向けられている。味方ではなく、また敵でもない。完全な中立を維持する彼らは、悪魔祓いの名の下に、世に憚る為政者を何人も葬ってきた。


「彼らに睨まれるだけでは済まない。私はもはや……彼らのエクソシズムの対象だろう」

「利用すればいいのよ。上手く立ち回ってね」

「敵を、利用するだと?」


 と訊ねながらも自身の質問が愚問であることはわかっていた。その方が理に適っている。祓魔師は時として、最大の支援者となってくれる場合もあるのだ。フランスが百年戦争に勝利できた起因、著名な祓魔師ジャンヌ・ダルクは、自らの死がフランスと世界のためになるとしてわざと処刑されたとは聞き及んでいる。ジャンヌが死んでフランス国民は孤軍奮闘し、イングランドに一泡を吹かせたのだ。


「なるほど……そうか、そうだな」


 男は改めて外で呻き声を漏らす人々を見直す。外の風景が凄惨なものから、とても素晴らしいものに思えてきた。そうとも、まるで運命のように、宿命のように、舞台は整っている。優れた思想を持つと感心するに値するロベスピエールすらも、今や利用できるだろう。

 王は死に、その隙に乗じて王位を簒奪する。否、王ではなく皇帝となるのだ。そして、フランスを、ヨーロッパを、ひいては世界を統制する。そうすることで、世界には平和がもたらされるだろう。

 誰かがやらねばならないことだ。それを、この私が、ボナパルトが成すのだ。


「良いとも。やろう」

「そう言ってくれると思ったわ。後で私の知り合いを紹介してあげる。彼と協力関係を結ぶといいわ」

「君はどうするんだ」

「私はサド侯爵のところへ」

「マルキ・ド・サド? あの悪趣味な……」

「それは果たして正当な評価かしら。さて……」


 少女は本を放る。男……若き日のナポレオンは本を受け取った。


「では、また後程。コルシカの怪物さん」


 少女は消失する。ナポレオンは魔導書を高く掲げた。


「――そうとも。革命は有意義だ。私は革命を成そう。この混乱に終止符を打つのだ」


 革命に消極的だったナポレオンが、革命に意義を見出した瞬間だった。



 ※※※



 ナポレオンが悪人かと問われれば、ローズは即座に返答できないだろう。

 彼の記憶を眺めて思う。悪事を成すのは悪人だが、大悪事を成すのは善人なのだ。ナポレオン自体は、革命の無意味さに気付いていた。革命の思想こそ優れていたが、ただ闇雲に喚いたところで何も変わりはしないのだと。

 だが、それでもやはりナポレオンは敵だった。ローズが祓魔師である限り。

 そしてその前提はもはや崩れ去ろうとしている。


「ぐっ……」


 ローズはふらついた身体を制御できずに床の上に倒れた。身体中から血が流れ出ている。底なしの海のように。だが、実際には海に底は存在する。そしてローズの血液量も。

 私はここで死んでしまうのだろう。ローズはぼんやりと考える。

 だが、それも悪い気はしなかった。役目は果たしたのだから。後悔は抱かない。全てを出し切り、成すべきことを成した。

 そう安心したのも束の間、ウェイルズとの約束が、ローズの脳裏にこだまする。

 ――今日からお前がチャーチだ。


「行かない、と……」


 気力を振り絞って起き上がる。我ながら矛盾的行動に飽きれた。行く前は死んでも構わないと思いながら、実際に死にかけるとまだ死ねないと立ち上がる。バカらしいが、これこそが不屈の闘志という奴なのだ。諦めるのは死んでから。それはつまり、生きている限り諦めてはならないことを意味するのだ。

 崩壊コラプスを杖の代わりにして、重傷を負った身体を動かしていく。革命の炎は消えて、黒い煙が周囲を満たしている。窒息しやしないかと少し心配になったが、息は問題なく吸えていた。


「早く、寝たいわね……早く……」


 睡眠を渇望しながら、足を進めていく。

 淡白で乾燥した終わり方。それがローズマリーの祓魔の終焉だった。

 ――しかし終わりは、新たなる始まりを意味する。



 ※※※



「ふふふ……」


 ローズの背姿を見送ったリリンはナポレオンの本を回収する。そして、レプリカを作り出すと、それを後ろからやってきた同胞に投げ渡した。背後の少女が器用に本を受け取る。


「おや、姫様。くれるのですか」

「ええ。きっと必要になるでしょう。オリジナルは渡さないけどね」


 リリンは青髪の少女に向かって言い、本の背を愛おしそうに撫でた。何の役にも立たない魔導書ではなく、ナポレオンが書き記していた小説だ。この物語はまだ終結していない。いわば、一部分、断片だけを描かれた状態だ。

 しかし執筆者は死んでしまった。誰かに継続してもらわなければならない。


「お次は誰ですか?」

「さぁてね」


 候補は限られている。怪物は貴重なのだ。だが、だからこそ美しい。


「マモンの目論見は成就するでしょう。マステマに酷いことをなさるつもりですね」

「それをするのは私じゃないもの。あなたにとってもメリットはあるでしょう?」

「ええ。悪魔の数が制限されれば、ソロモンの理想にも近づきますからね」


 だから、何が起こるかを知っていても、リリンも少女……ヴィネも干渉しない。悪魔同士で敵対はせず、また特に関心のない事柄ならば互いに影響を与えない。弱く愚かな人間とは違う。


「まぁ、次は……ドイツに」

「メフィストの縄張りですよ」

「ええ。だけど、それが何か?」

「いえ、別に」


 ヴィネは肩を竦めた。壺に入っていた時にはできない仕草だ。


「壺に入るのは飽きたの?」

「そりゃあ、一回ソロモンに入れられましたからね。まぁ、あの時に魅力に気付いたのですが、そろそろ飽きてきちゃったことは否めません」

「王の配下になるのも大変ね」

「でも、楽しいですよ。あなたも、楽しいから物事を行うのでしょう?」

「それはもちろん。では、また会う日までアウフヴィーダーゼーエン


 リリンは消失する。ほどなくして、ヴィネも黒煙の中に消えていった。

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