皇帝と配下
ローズマリーはマーセの亡骸を積んで大聖堂へと帰還すると、ケイとシュタイン、リュンを呼び出した。沈痛な面持ちでマーセの遺体を見下ろすケイと、黙祷を捧げるシュタイン。リュンは言葉を失って、蒼白な面持ちとなっていた。しばらく間をあけて、リュンが自責の念を吐露する。
「私の、せいね」
「いいえ。これは私のせい」
マーセはローズを苦しめるためだけに堕落させられた。孤児院にいた子どもたちも巻き添えとなった。
これは間違いなく自分のせいだ。そして、自分を標的とする協力者のせいだ。
直接的な原因でなくとも、一つの要因であるならば、自身が責任を感じ払拭するべきだ。
「でも、私が……あんなことをしなければ」
「いずれにしろマーセは単独で勝手に向かったと思う。お節介な奴だったから」
そうとも、鬱陶しいくらいに。あの騒々しい、くだらない話をもう聞けないとは。
「リュン、マーセを弔ってやって。孤児院の子どもたちも。それと、家族は外に。国の外に出して」
「……どうして」
リュンの問いかけに、ローズは大聖堂を見上げて答えた。
「ここが祓場となるからよ」
「でも、だったら私も」
「次の狙いはあなただと思うから、あなたには戦闘以外の支援をお願いしたいの。私にマーセを弔う時間はない。ケイ、シュタイン、あなたたちも……」
「私は堕落しません。あなたに同行します」
「あなたはまた……!」
シュタインはローズの言葉を不服とし、再び命令を聞かなかった。さらにはケイも同調する。
「僕だって、悪魔の誘惑からは逃れました。僕も、堕落しませんよ」
「堕落するかどうかだけが問題じゃない……。奴は私の友達を殺す気なのよ」
「私は友達ではないでしょう。あなたの従僕です」
と素知らぬ顔で言うシュタインに、なら命令を聞いてとローズは取り合わない。そこへ、良き仲介者であるリュンが落ち着いて、と悲哀の中にも理性を覗かせて仲裁した。
「二人の言葉は一理あるわ。私はマーセと、孤児院の子どもたちを葬るから、ローズはその……犯人を突き止めて。ケイとシュタインは共に強い。心強い味方となるはずよ。……私とは、違って」
助言だけでなく小声でリュンは何かを呟いたが、声量が小さくて聞き取れない。リュンの言葉は正しいが、やはり好ましいとは言えなかった。敵が何を企んでいるかは明白だ。問題は、その手順、方法だった。一体どうしようというのか。奴はどうやって教会を滅ぼすつもりだ。
ローズの疑問はそこにある。退魔教会の崩壊は大打撃であることに間違いないが、だとしても多くの祓魔師は生き残るのだ。確かにウェイルズの手配で多くの祓魔師は帰国しているが、それでも全員ではない。
だが、それを可能にする力を敵は持っている。恐らくは、所持する魔導書に術は記されているのだ。あれは敵自身の戦闘力すらも補強してもいるだろう。マーセすらもあっさりと殺す力がある。
だが、それでいい。敵が強大であればあるほどローズマリーの怪物は高まる。超常現象を駆使したところで、怪物は怖じず負けない。弱さは強さなのだ。ローズが弱く、相手が強いほど、ローズの勝率はぐっと高まる。
「……仕方、ないわね」
頑固な二人の説得を諦めて、ローズはしぶしぶ承諾する。どちらにせよ、未知数な魔導書を敵に発動させる気はない。その前に撃ち殺す手筈ではいる。
しかし、怪物は囁き、悪魔少女は笑っている。――絶対に、無理なくせに。そう、嘲笑っている。
「無理かどうかは私が決めるわ」
誰にでもなく嘯いて、ローズは大聖堂へと足を踏み入れた。
彼女を見送ったリュンも独り言を呟く。死体の親友と、生体の親友に向かって。
「ごめんなさい……」
大聖堂の中は意外にもいつも通りだった。いや、これが敵の恐ろしさだ。
敵がすぐ傍にいるのに、誰一人気付いていない。受付係のシスターも、依頼の受注をする祓魔師も。
数多くの祓魔師がいながら、誰もその正体を把握できなかった。教会を率いるウェイルズでさえも。ローズは考えて、ほんの少し疑問を感じる。
(ウェイルズ卿が気付かないなんて……)
自らの養父であり師でもあるウェイルズは、優れた退魔騎士だ。彼が本当に奴の存在を知覚しないなど有り得るのだろうか。もしや、自分に祓わせるためにわざと進入を許したのではないか。そんな予感がして、気の迷いだと思考を振り払う。
ウェイルズは自分を救ってくれた偉大な騎士だ。そんな彼が、自分を裏切るわけがない。
「ウェイルズ卿に報告はよろしいのですか」
「敵は間抜けじゃない。そんなことしたら逃げるわ」
いくら魔導書を所持しているとはいえ、大勢の祓魔師を同時に相手できるとは思えない。いや、あえて油断を誘っているのかもしれないが、それならば今の今まで時間を掛けていた理由が思いつかない。
そこまで考えて、そうじゃないと己の考えを訂正する。理由ならあったのだ。
それは人によって小事に思えるが、情熱を燃やす人間にとっては人生の命題ともいえる行為。
それを彼は最初に言っていた。長年の夢だったと。白紙の本を持ち、笑みを浮かべながら。
「二人は私が合図したら突入して」
有無を言わさぬ気迫に、今度は二人も反発しない。堕落者は憐れむに値する人間。ローズは今までずっとそう思ってきた。いや、堕落者を生み出す原因となった人々もそうだ。彼らも悪魔や社会環境に狂わされてきた。自己責任の一言で人々は片づけようとするが、人生とは、社会とは、そうではないのだ。もはや誰にもどうしようもないほどに社会は肥大して、人間は当の昔に統制を執れなくなった。自分で社会を動かしている気になっている人々はもはや過去のものだ。近代に入ってから、世界は人間の手を離れ、独自の論理で動き始めている。これからは多くの革新的な出来事が起こって、世界はもう少しだけましとなるのだ。
だが、悪魔の存在を許諾すれば、それは叶わない。退魔教会の滅亡も同義だ。過去に比べればちょっとだけまともになった世界を、悪魔が、マモンが牛耳ろうとする。それを避けるために退魔教会は必要だ。
ローズは強い信念をもって、ノックした。部屋から入室を許可する声が響く。
招き入れた男は部屋の真ん中の椅子に座っていた。ローズは恐れることなく男の前に立つ。
学者風の男――コルシカは、最初に賞賛を述べた。
「おめでとう。よく私の元に辿り着いた」
「あれほどヒントを残しておいてよく言う」
「とは言え、気付かない者も大勢多いだろう。当然ではある。まともな論理ではない。あらゆる現実的な論証は無効化される。巷で噂を聞くようになったロンドンのベイカー街に住む探偵も、導き出すのは厳しいのではないか。彼は人間の殺人事件の専門家だ。悪魔祓いではない。だが、君は悪魔専門の怪物だ。他者よりも聡明な」
コルシカは眼鏡を外した。絵画で見たことのある顔がそこにはある。
だが例え見覚えがあっても、誰も気付くはずはない。目の前の男は六十年以上も昔に死んでいる。いや、死んだことになっていた。しかし、悪魔と契約していれば不可能を可能にできる。
「白馬が似合いそうね、コルシカ」
「あれは偽装だ。私はロバに乗っていた。だが、民衆は好むだろう」
「得意分野ってわけね。偽装は」
「今回に関しては、素の私そのものだ。陰謀は好まない。私は元々作家志望だった。ルソーに感銘を受けたのだ。だが、彼はそう……六十年しか生きなかった」
コルシカは心の底から残念そうに言う。だからあなたは寿命を延ばしたの、という問いにコルシカは呆れるように応じた。
「私が生に執着していると考えているのか? それは誤解だ。私は私の居場所を求め、その結果、不老を会得したに過ぎない。……私からもいくつか質問をしてもよいかね?」
ローズは黙して首肯。気をよくしたコルシカが問いを投げる。どうして私に気付いた? と解ではなく道筋を訊ねた。
ローズが思い起こすのは、シュタイン……影亡き暗殺者についてだ。
「あなた、撃たれたでしょ?」
「ああ。しかし傷は完治している」
「あのライフル、本当ならそんな程度の怪我じゃすまないのよ。それこそ身体が千切れるくらいの威力らしいわ」
「なるほど。迂闊だった」
コルシカは失敗を気にした様子もなく言う。実際にどうでもいいのだろう。
あの事件を小さな起点として、とローズは説明を続ける。饒舌とまではいかないが。
「あなたは不審過ぎた。私が洗った外国人の中で……傍にいながら、ノーマークの男がただひとりだけいた。それがあなた。退魔教会に深く入り込みながら、さも仲間のふりをして協力する不審な男」
「元より、そういう気質でね。私は生まれ故郷の敵国の指導者となった男だぞ」
「そう、最後にそれ。ばかばかしいと思える推理……奇想天外なつじつま合わせ。でも、悪魔とはそういうもの。いずれにせよ、あなたは真実に近すぎた。答えと遜色ない位置に立っていた」
「ほう? どういう意味だ?」
ローズは酷薄笑いのコルシカに、うんざりしながら講釈した。
「名前を調べたの。アジャクシオ・コルシカ。どちらも地名ね。――ナポレオン・ボナパルトの生まれ故郷」
「如何にも。私はボナパルトだ」
コルシカ――ナポレオンは笑みを浮かべる。私の異名を知っているかね、と臆面なく話を続け、
「私は数多の呼び名を持つが、その内の一つ――いや、二つか。こう呼ばれていたコルシカの怪物、または悪魔だと。実に理を得ている。私は怪物であり、悪魔なのだ」
ナポレオン・ボナパルトは饒舌に語る。誇らしげな表情で胸を張っている。
コルシカの悪魔という異名は本来別称や畏怖、嫌悪の意味を込めて作られた造語のはずだ。だが、彼はそれを賛辞とし、自発的に用いていた。
「フランスを奪われたことへの報復?」
ローズは自信に満ち溢れた雰囲気を醸し出すナポレオンに動機を訊ねる。ナポレオンが皇帝の座から退くことになった最大の理由は祓魔師が追い詰めたからだ。軍神とまで言われた男を始末するため、祓魔師は連合軍を焚き付け、直接戦場に馳せ参じた。悪魔祓いがひとりの兵士として戦った。
そのことに不満を思う理由はわからなくはないが、彼は自身が殺された訳を理解しているはずだ。彼自身、悪魔と契約を交わしていたのだから。
ゆえに、彼がローズの質問を一蹴したのも、予定調和と言えた。
「フランスに興味などない。意外に思うかもしれないが、私にとってフランスとは、私が皇帝になるべくしてなった土俵でしかないのだ。皇帝となれるのならば、どの国でもよかった。私が念頭に置いていたのはヨーロッパの統制だ……ひいては、世界のな」
「……でも、あなたは負けた。ヨーロッパはあなたを拒否し、全ての原因があなたにあるとして、セントヘレナ島へ幽閉。そして」
「私にとって二人目のウェイルズ――今いるウェイルズ卿の父親が私を毒殺した。巷では、私は胃ガンで亡くなったことになっているらしいな。悲壮感があって実にいい」
「あなたの失敗は、悪魔だけでなくエクソシストも利用しようとしたことよ」
「私にとって一人目のウェイルズ……祖父だな。彼は優れた男で、私に力を貸してくれていた。君は立派な指導者として大成するだろう、と。彼の言葉は励みとなった」
悦に浸るナポレオンだが、ウェイルズの祖父は彼自身が始末した。二人は良き協力関係を築いていた――ある時、ナポレオンの背後に悪魔がいるとウェイルズの祖父が掴むまでは。
協力者を殺したナポレオンはフランス皇帝として君臨し、ヨーロッパの国々を侵略し始めた。彼は平和のためなどと崇高なことをのたまっていたが、大勢の人間を殺して、ヨーロッパを征服していった。
「民衆は愚か者だ。優れた統治者がいなければ何もできない。フランス革命は幸運だった。無知な民衆は、全てを責任を国王に押し付け、貴族たちは優位に立とうとくだらないゲームを繰り広げていた。私はそこへ一石を投じ、空席だった皇帝の座を獲得したに過ぎない」
「……革命でフランスは何も変わらなかった」
「――つい最近まではな。私亡き後、フランスは元の王政へ戻り、それから二度革命を起こさねばならなかった」
これこそが彼らの愚かさの象徴だろう? ナポレオンはかつて統治していた人々をあざ笑う。
「共和国など、優れた指導者がいなければ崩壊する制度に過ぎない。だから私は皇帝となり、私亡き後は王政へと戻った。……矛盾を孕んだ制度なのだ。民衆が愚かである限り、指導者のない真の共和が訪れることはない。それは、君たちもよく理解しているはずだな」
「そうね。否定しない。人々はもっと学ぶ必要がある。この世界のことを。人間のことを。――悪魔の、ことを」
世界の在り方。人間とは何か。社会はどう動かしていけばいいか。信ずるに足る信条は何なのか。
誰が敵で誰が味方なのか。そういった様々なことを人々は学ばなければならない。無知は罪ではない。だが、無知は敵に狙われてしまうのだ。明確な、わかりやすい急所として。
「しかし学んだ人間でも堕落する。人間とは本当に救い難い。そうは思わんかね。エクソシストジャンヌ・ダルクが自身をフランス国民だと表明しなければ、フランス人は自らがフランス人であることを自覚すらしなかった。指導者が必要なのだ。強大な力を持った、カリスマ性のある指導者が。それが今までは退魔教会であり、エクソシストだった。しかし、時代は変わる。歴史は、エクソシストと悪魔による合意の上の作り話だった。だが、これからは私が創作する」
「そんなことはさせない!」
ローズが見るも鮮やかな動作でリボルバーを引き抜くのと、背後の扉が開くのは同時だった。かちゃり、と二つの銃口がそれぞれ別の対象に向けられる。ローズと、ナポレオンに。
ナポレオンを狙うローズは振り向かずに警句を投げた。
「シュタイン――私の命令を」
「彼女じゃありません。僕です」
その言葉に意表を突かれる。ローズをダブルアクションリボルバーで狙うのは忠実なしもべを自称しながらも命令を反故するシュタインではなく、頼れる後輩であるはずのケイだった。
ナポレオンはその様子を見守りながら、先程と変わらぬ表情を維持している。少々驚きを混ぜながら。
「これは意外だな。そう思わないか」
「どうして……!」
「来てください。早く。危険に晒されるのはあなただけではありません」
ケイの後ろではシュタインにもう一丁のリボルバーが照準を合わせている。ローズは憤怒の表情でケイの指示に従い、ナポレオンの部屋を後にせねばならなかった。廊下に出たローズは、ケイに促されるまま先に進んでいく。そして、唐突にケイへと振り返り詰問した。周囲に大声を響かせながら。
「一体どういうつもり!?」
「あなたを救うつもりでした、ローズさん」
ケイはローズに詰め寄られながらも、どこか悲哀に憂いた表情をしている。彼の気持ちは共感できるが、納得しがたい。それはシュタインにも言える。彼女もケイと同じ思考で動き、あえて人質に取られたのだ。ローズマリーのためになると信じて。脳裏にマーセの顔が移る。同じようにローズを心配し、頼んでもないことを無断で実行し、地獄の炎で焼かれた親友の顔が。
「頼んでない!」
「ええ、頼まれてません。でも、ここでナポレオンを撃ち殺すのは賢明だとは言えません。……そう思ったんです」
「奴が黒幕! 間違いない!」
ローズは確信している。あの男がマモンを手引きし、多くの無実の人々を、マーセを葬った犯人だ。ケイも同意するように頷きながらも、ローズの推論に異説を挟んだ。
「それは間違いありません。ですが、やはり彼一人の犯行だとは思えないんです」
「私も同感です」
二人の言葉は正しいが、正しさが最善だとも限らない。
ナポレオンが悪魔の協力者であり魔導書を持っていたとしても、教会に現れる堕落者や魔獣の範囲が広すぎた。それに、二人だけで数多の工作をすることは不可能だ。そもそもどうやってナポレオンは国を渡ってきたのだろうか。
最初に出会った語り口から推測するに、彼は海を渡ってきた。侵入自体は容易いだろうが、退魔教会に堂々と身を隠すためにはそれなりの伝手と仲間……配下とでも言うべき存在が必要となる。
二人は先にその配下を炙り出せと言っている。暗に示すのではなく直接的な表現で。
だがそれは致命的な時間の浪費だ。奴の祓魔に時間が掛かれば、それだけ被害者は増えていく。
またもや自分のせいで。それが気に入らない。だが、そんな考えを見透かしているかのように、シュタインはローズに助言を述べた。
「まずは協力者のところへ向かうべきです。優れた武器を手にする必要があります」
誰を祓うかの順番はともかく、シュタインの提言は間違っていない。先程は感情と怪物に身を任せてそのまま対決しようとしていたが、彼自身何らかの特殊能力を秘めている可能性は否めない。千里眼を持つ壺娘に武器を選んでもらうか何らかの助言を受けるかした上で指針を決めるのは何らおかしくはない。
だが、やはりローズの中の怪物は憤っている。奴を祓いたくてうずうずしていた。怪物と感情が同期するのは非常に珍しい。いつもは片方が片方に反発するのだが、今回は意見が一致していた。
ただひとり冷静な理性が二人の言う通りにしろと口答えし、ローズの方針が定まる。不服さを隠そうとしないローズは黙々と武器庫へと進んで扉を開いた。
そして、目の前に広がる光景に反射的に銃へ手を伸ばす。
「これは……」
物事としては単純明快。壺が割れていた。
だが、問題は壺の中身だった。壺娘がよく使用していたころころと稼働する不可思議な壺が割れ、中からはトマトジュースのような赤い液体が滴っている。無論、その液体の匂いや香りで、野菜を粉砕して作られたジュースでないことは簡単に見破れた。
ローズは周囲の状況を確認しながら壺の中身を確かめる。たっぷりの血が割れた壺の中に満たされているが、死体はない。
「こちらにも遺体はないですね」
ケイが祓魔師としての仕事に取り掛かる。シュタインも忠僕としての任務を遂行した。
「武器も大半が使えなくなっています。何者かが武器庫を襲撃したようです」
「……配下ね」
推測できる犯人を呟きながら、ローズは使い物にならなくなった武器庫を見渡した。
しかしひどく穏やかな空気が漂っている。死の臭い、血の臭いが含まれていることは明らかなのに、不思議と争った形跡はない。荒らされた痕跡はある。だが、壺娘が抵抗したようには見えなかった。
(そもそもあの子が攻撃を受ける姿が想像できない。……まさか)
ローズは再び壺の中身を検閲し、血だまりの中から羊皮紙を取り出した。血で真っ赤に濡れているはずなのに、なぜか文字が読める。奇妙な感覚を味わいながらも、そのダイイングメッセージらしきものを閲覧した。
――あなたの怪物が綺麗である限り、壺娘武器店はいつでもあなたの味方ですよ。
書いてあったのは遺言でも犯人を示すための手がかりでもない。ただの置手紙という表現がふさわしかった。ローズは手紙をポケットの中に入れると、部屋の隅に光り輝く何かを見つめた。
近づいて、手に取る。いち早く反応したのはシュタインだった。
「ありえま、せん。戻ってくるはずが……」
「ええ、戻ってはきてない。戻ってきたのなら、こんな手口は行わないわ」
「マモンの金貨、ですか」
遠目でローズが弄ぶ金貨を見つめたケイが言う。ローズは首肯し、金貨に血が付着していることに気付いた。ふと床へ視線を向けると、血が点となって続いている。それは重要な手がかりのように見えて、獲物をエサで釣る狩りの手法のようにも見えた。獣狩りならぬ人狩りだ。
「罠ですよ」
「わかってる。あなたたちはウェイルズ卿へ報告を。私もこいつを祓ったらそっちに行く」
「賛同――」
「できないのは知ってる。けど、罠だからこそ、よ。全員で向かう必要はない。そして、マモンの眷属ならマモンを追い詰めたことのある私が適任」
有無を言わさず会話を打ち切る。今度こそ邪魔立てされるつもりはない。ケイとシュタインは顔を見合わせて、これ以上の干渉は無理だと引き下がる。そうとも、誰にも干渉される気はない。
やはり一人で戦うべきなのだ。自分は。元よりそうしてきた。ウェイルズが教示してくれた祓魔術を的確に守り、あらゆる悪魔や堕落者、魔獣と戦い祓ってきた。
怪物はそうするべきだ。そうであるべきだ。だが、同じ怪物であるナポレオンに思いを馳せて、歴史の授業からある場面を思い描く。
ナポレオンは怪物ながら、大勢の人間を率いて戦争を行ってきた。そんな彼が発した珍しい弱音がある。
――血を流すのは、もうたくさんだ!
血痕を辿るのは容易だった。下手をすれば素人でも簡単に追跡できただろう。それほどまでに粗野な――或いは、目的に適した痕跡だった。案の定、ローズは襲撃場所として相応しい公園に誘い込まれている。
「……悪趣味ね」
その場所を一瞥して吐き捨てる。そこはローズとマーセ、リュンの三人で遊んだことのある場所だ。無論、ローズが仕方なくだったことは言うまでもないが、この公園には優しい思い出が詰まっている。決して、殺し合いをするようなところではない。だが、敵はこの場所を指名した。
ローズは敵の意図を考える。ナポレオンの、もしくはマモンの配下のことを。
配下は一体何の考えがあってローズを呼び出したのだろうか。ローズを殺すため?
だとすれば失策のようにも思える。ローズが恐れるのは他人の死だ。自分を起因とする他者の堕落。
だが、ケイもシュタインも別行動中。そしてリュンもまた然りだ。
(リュン)
彼女を名前を思案して、ローズは黙考する。リュンはローズの親友だ。それは今も恐らくこれからも変わらない。
だが、最近の彼女の様子はおかしかった。特に、マモンの手下に家族を攫われてからは。ローズの知るリュンは聡明な仲裁者で、あらゆる揉め事を丸く収めることができる。……例え、ローズを救うためだったとしても、彼女ならマーセの独断を止めたはずだ。三人で挑めば勝てると、同行者を個人的感傷から拒否するローズを諭したはずだ。
だから……途中から、いや、最初から配下の正体には気付いていたのかもしれない。ローズに見つからず裏で動くためには、ローズが敵だと思わない相手こそ最適だ。
ゆえにその登場はあまり劇的とは言えなかった。予定調和……計画通りだ。
「ローズ……わかってたのね」
声がローズの心を鋭く抉るが、怪物は嬉しそうに吠える。暗闇の中から颯爽と姿を現した狙撃手が、ライフルを両手に持って気さくに話しかけた。
だが、その距離は遠い。友達には遠く、敵としては近すぎる。
リュンは悲しそうな顔をして、こちらに視線を投げていた。ローズもまた悲哀に満ちた表情を浮かべる。
「脅されたの」
推理を述べる。リュンは複雑な顔をして、首肯した。
「選べなかった。でも……そうね。私はクズ」
「そんなことない……リュン」
なぜだろう。疑問が湧いて溢れてくる。
なぜ私の親友はお前のせいだと糾弾しないのだろうか。リュンが家族を人質に取られたのはローズのせいなのだ。悪魔はローズを焚き付けるために、近親者を狙っている。親友を、仲間をエサと定めている。
なのに、彼女たちは一向にローズを非難する気配がない。自分のことを卑下している。
「いいえ、私は……マーセの言葉を借りれば、クソ野郎よ。金貨に魅せられてもいた……お金がね、奪われたの。盗まれちゃった……家族を養うために貯めたお金が、全部。何でなんだろうね」
悪魔のせいだ、とわかっている。二人とも。だが、だからこそ抗えないのだ。原因がわかるから、感情を抑制できるわけではない。例えば大事な人が殺されたとしよう。だが、その犯人は他者から不当な暴力を受け、金品を盗まれ、家族を人質に取られていた。だから、放免するべきだ。
そういったところで、被害者が納得できるかと言えば難しい。中には恩赦する者もいる。だがそれは全員ではない。
だが、マーセならばリュンを赦したことだろう。その確信がある。マーセはリュンに負い目を感じていたし、親友だ。彼女が自発的に今回の事件を引き起こしたのなら、許容できなかったかもしれない。しかし事情があったのだ。マーセは自分のことと他人のことを等しく平等に考えられる気質だった。
そしてそれはローズも同じだ。告解し、再び仲間となってくれるのなら、ローズは手を広げて迎え入れる。きっと逆の立場ならリュンも同じことをしてくれたはずだ。
だが、それは無理だと怪物が喜んでいた。ローズが近づくと、以前馬車で怯えたようにリュンが後ずさりする。
「ごめん……ごめんね。わかってるわ。わかってるの。でも……身体が抗えない」
「リュン……」
金を盗まれた時の反動だろうということは、すぐに察せた。似たようなケースを見たことがある。
ゆえにローズは驚きながらも、どこかで冷静さを保てていた。自分自身に反吐が出る。身体が震えることも、声音を乱すこともなく、平然とその事実を受け入れてしまう自分の怪物に。
「ごめんね……ローズ」
「私こそ、ごめん」
ローズは崩壊を構える。リュンも同じようにライフルを握った。
「気付いてあげられなくて」
あなたの苦悩を。あなたの迷いを。あなたの罪を。気付いてあげられなくて。
懐かしい思い出が残る公園で、二発の銃声が轟いた。綺麗な思い出を撃ち砕くかのように。




