三、 最初の村
その村の名を孤児は知らなかった。
両親を失った草っ原のど真ん中から、大人の足で歩いて二日もかかる場所。
そんな遠くにある村まで、悪魔はほんの数分で辿り着いてしまった。
小さな村だった。娯楽施設など何もない。
家と畑と教会、あとはパン屋や酒場、青果店と最低限の日用品を取り扱う商店が幾件かあるだけだ。
その中で、たった一軒の酒場が宿屋も兼ねて営業していた。
そこへ向かうまでの道すがら、家々から漂う昼餉の香りを嗅いで、孤児の腹の虫がぐうと鳴いた。
『どうした坊や、変な鳴き声を上げて?』
横を歩く悪魔が尋ねる。
「鳴き声じゃないよ。お腹が空いたんだよ」
と孤児は答えた。
『腹が減っただと?』
「……昨日の夜から何にも食べてないんだ」
悪魔は片方の眉を上げて、うーむと唸ると、銀貨を一枚孤児に投げてよこした。
『それで、そこらの店から何でも買って来い』
孤児は、悪魔がどこから銀貨を出したのか不思議に思ったが、そういうものなのだろうと判断して、銀貨を片手に目に付いたパン屋に入っていった。
店内には焼きたてのパンの芳しい香りが満ちていた。
「いらっしゃい、坊や。おつかいかい?」
店員の少年が、焼きあがったばかりのバケットを籐で編んだ籠に移しながら、孤児に声をかけた。
「何が欲しいのかな?」
「それは何ですか?」
孤児が指差して尋ねると、店員の少年は半分に切られたバケットを一つばりばりと割って、まだ湯気を立てているそれを孤児に手渡してくれた。
「食べていいよ。試食ってことで。
それはただの白パンだけど、ウチではジャムやバターも売ってるよ」
「おいしい!」
温かいパンを一口齧ると、やわらかくほんのりと小麦の甘味がして、孤児は感嘆の声を上げた。
「そりゃそうさ。焼き立てよりおいしいパンなんかないぜ?」
店員の少年は、少し得意げに答えた。
「あっちのクロワッサンもさっき焼き上がったばかりだよ。
それとも甘い菓子パンの方がいいかな?」
「僕、これがいい」
もう一口、バケットのかけらを頬張って、孤児が言う。
少年はにっこり笑った。
「そうか。どれくらい?一個でいい?」
「一個でいいです。でも、切ってもらえますか?すぐに食べたいので」
「いいとも。お弁当かい?
じゃあサンドイッチにしてあげよう。ちょっと待ってて」
半分サイズのバケットを持って、少年は奥に引っ込んだ。
孤児が少しの間待っていると、少年は茶色い紙袋に包んだサンドイッチを持って戻ってきた。
「卵サラダと、ハムとチーズのサンドイッチだよ。気をつけて持っていってね」
孤児は銀貨で代金を払い、パンの包みとおつりを受け取って店を出た。
「ありがとう、お兄さん!」
店員の少年は、孤児に店の入り口から手を振って答えてくれた。
『遅いぞ、何してたんだ?』
悪魔のところに戻ると、悪魔は訝しげな顔で、孤児の提げた紙袋を睨んだ。
『お前、何を買ってきたんだ?』
「サンドイッチだよ。パンを買ったら、お兄さんがサンドイッチにしてくれたんだ」
紙袋を覗き込んで、匂いを嗅ぎ、悪魔は奇妙な顔で頷く。
『成る程。確かに只のサンドイッチだ』
「どうかしたの?」
『いや、別に』
その態度に少しばかり疑問は残ったが、孤児は気にしないことにした。
宿まで歩きながら、サンドイッチを頬張る。
旅人が珍しいのか、村の人は時々振り返って孤児と悪魔を見た。
宿について、悪魔は二人部屋を取った。
部屋は狭くて埃っぽく、決して上等とは言えなかったが、昨夜のように草っ原の真ん中で野宿することに比べたら、遥かにマシだった。
きれいに平らげてくしゃりと丸めたサンドイッチの紙袋を、孤児は悪魔目掛けて床の上に転がした。
紙袋は悪魔にぶつかる前にぱちんと弾かれて、ころころとあさっての方に行ってしまった。
『何だ?』
「何をしているのかな、と思って」
孤児の正面にあるベッドに腰掛けた悪魔は、片足をもう一方の膝に乗せた恰好で、どこからともなく取り出した分厚い紙の束を膝の上に据えて、同じくどこからともなく取り出した大きな真っ白い羽ペンで、何か長い文章を書き散らしているところだった。
『そんなことで物を投げるんじゃないよ。お行儀の悪い子だ』
孤児に顔を向けながらも、悪魔の手と羽ペンは止まることはない。
すらすらと進んで紙を黒く埋めていく文字が紙面の下端に達すると、紙はひとりでに捲れてひらひらと落ちてゆく。
いつの間にか、床は一面紙きれで覆われていた。
「お前だって散らかしてるじゃないか」
孤児が言うと、
『私はあっという間に片付けてしまえるからいいのさ。おもちゃを散らかすお前とは違うんだ』
と悪魔はせせら笑った。
『さぁ出来た』
悪魔が、羽ペンをくるりと手の中で一周させて言うと、途端に床の上で死んだふりをしていた紙達がざわめきだした。
隅からベッドの下から次々に舞い上がって、一斉に悪魔の手元へ集まってくる。
それは、ゆうに五十枚……いや、百枚はありそうだった。
枚数を数えて、悪魔が満足そうに頷いた時には、書き残しの分厚い束はどこかへと消えていた。
けれど、羽ペンはまだ悪魔の手にあって、悪魔はそれで一番最初のページの下の方に、さらさらとサインを入れた。
それから、その文字だらけの紙の束と羽ペンを孤児に差し出した。
『さぁ、お前も名前を書くんだよ。契約のサインだ』
孤児は紙も羽ペンも受け取らずに、さっと両手を後ろに回して悪魔を睨んだ。
「僕は契約なんかしないよ!」
『いやいや、言い方が悪かった。
私とお前がゲームをするという、その約束だよ』
約束?と孤児は聞き返した。
『そうさ。ゲームをするにはルールを決めなくちゃな』
悪魔は紙の束をめくって、何枚目かを孤児に突きつけた。
『読むんだ。お前はルールを知る義務がある』
孤児は紙を手に取ったが、そこに書かれてあるのは見たこともない複雑な文字ばかりで、孤児は頭がくらくらした。
「こんなの読めないよ!僕は悪魔の文字なんて知らないもの!」
『おやおや!辛抱のない子だな。
じっと良く見て、読もうという気になってみろ』
仕方なく孤児は言われた通りに、じっと文字を見つめた。
やはりただの複雑怪奇な直線と曲線の図形にしか見えなかったが、それでもよくよく眺めてみた。
すると、突然にそれが意味するところの文章が脳裏によぎって、孤児はそれを理解できることを知った。
『悪魔の文字は特別なんだ。
書けなくても、読むことだけなら誰にでも出来る』
驚く孤児に、悪魔がそう言った。
孤児は紙の上の文字を読んだ。端から端まで全部読んだ。
読む側から自然と頭に入ってきて、驚くほどすんなりと意味が分かった。
読み終わって顔を上げた孤児に、悪魔は言った。
『これは契約じゃない』
悪魔の言葉は正当だった。
「うん、これは契約じゃないんだね。“ルール”だ」
孤児は頷いて見せた。
『でも契約書と同じ紙で書いた。だからこのルールは、契約と同じように私とお前を縛る』
悪魔にとって、契約は絶対だ。勿論、悪魔と契約を交わした人間にとっても。
契約書にはこう書かれていた。
【甲が乙の名を言い当てれば、甲の勝ち。
乙が甲の名を言い当てれば、乙の勝ち。
乙が勝利するより先に甲が死ねば、甲の勝ち。
甲が勝利するより先に乙が死ねば、乙の勝ち。
甲が勝てば、乙は速やかに甲の目前から消え失せて、二度と干渉しないこと。
乙が勝てば、甲は速やかにその魂を乙に差し出すこと。
回答権は一日に五回まで。
名を言い当てられた時は、その旨を正しく宣告し、正しく契約に従うこと。
虚偽の申告には、死を持って償うべし】
それがルールだ。
公平なルールで、イカサマは許されない。
もしも言い当てられたことを隠したりすれば、その瞬間命を奪われる。例えそれが悪魔でも。
悪魔は孤児に契約書と羽ペンを渡した。
『お前がサインした瞬間からゲームの開始だよ』
「そっちの残りは何?」
孤児は目を通した以外の紙の束を指差した。
『あぁ……読みたければ読むか?』
悪魔は何故か疲れたような顔で言った。
紙束の一部を、悪魔は孤児に見せた。
それに目を通して、孤児は奇怪な悪魔文字を初めて見た瞬間とはまた別の眩暈に襲われた。
そこにはこんなことが書いてある。
――たゆたう木の影は安寧の暗闇 ぬくもる焚き火は地獄の炎
獣の慟哭は不心得者の心臓を食い破り 正しくも邪なる理と誓いを果たす
憤怒の王の剣 誘惑の女王の眼差し 傲慢の騎士の誇り
全てこの身と魂に宿りて 強欲の道化の遊戯を興ず
パンと食らいワインを飲み干し まどろみ 遊び 嗤い……
以下、延々と続く。
要約すれば、契約を守りますとか、悪魔の矜持と誇りがどーとか、それから悪魔は遊び心を忘れてはいけないとか、良い悪魔とは常に高貴さを纏うものとか、そういったことが抽象的な言葉で気が遠くなるほど長々と綴られている。
魔王への賛辞、天への呪い、路傍の小石にすら意味を見い出し、堕落の享楽について切々と説いている。
紙束のほとんどがそれに費やされていた。
「何なのこれ?」
『定型という奴さ。契約に対する姿勢とその他諸々について。
契約書にはどの悪魔が契約主かを示すために、サインの代わりにそんなものを使うんだ』
肩を竦め、眉を顰めて言った悪魔の表情からは、うんざりした様子が伝わってきた。
悪魔は名前を変える。特定の氏名は持たず、頻繁に呼称を変えるのは、真実の名を悟られないためだ。
悪魔の名前は特別な意味を持っていて、それを知っている相手には逆らえなくなってしまう。
だから、悪魔は名を隠すために偽の名を使い、契約書にすら本当の署名をしない。
悪魔の契約書に綴られた無駄に長い詩篇は、悪魔の個人を表すための署名代わりなのだ。
これほどの長さが必要なのは、よく似た“署名”がないようにと魔王様が定めたせいである。
とはいっても、ジョンですらこのタイプの自己主張にはもう飽き飽きしてしまって、どうにか省いてしまえないものかと考えているようだが。
『さぁ、名前を書くんだ』
と悪魔は言った。
孤児は小さく首を傾げて応えた。
「サインを読み上げて名前を当てたことにするつもり?」
悪魔はひどく心外だといった顔で、自分のサインを指差した。
【乙: オールド・ジョン】
『悪魔の契約は絶対だ。
どんな名を書いても、サインしたのがお前である限り、契約……いや、このルールからは逃れられない』
孤児はサインした。
【甲: オーウェン】
「それで、ゲームのルールは分かったよ。
でもゲームの進め方が分からない」
取り出した時と同じように、分厚い紙束をどこかへと仕舞った悪魔に、孤児が尋ねた。
『簡単なことだ。5つ名前を言ってみろ。
違ってたら私はそう言う。合っていても、私はそう言う』
「急に言われても思いつかないよ」
『何だっていいさ』
と悪魔は言ったけれど、本当に孤児には思いつかなかったので、孤児は思いつくまで考えに耽ることにした。
「思いついたら戻ってくる」
『どこに行く?ここで考えろよ』
「悪魔と一緒になんて居たくないんだ」
そう言って、孤児は部屋を飛び出した。
狭くて小さい村だが、子供が一人ぼんやりする場所くらいどこにでもある。
孤児は村の広場のベンチに座って、空を眺めていた。
この空は、あの草っ原にも繋がっている。
もしかすれば、今頃はそこで死んでいたかもしれない草っ原。
あそこからどれだけ離れたのかは知らないけれど、代わりにとんでもないものを背負い込んでしまったことを、改めて孤児は自覚した。
その時、孤児に掛けられる声があった。
「やぁ、坊や」
「お兄さん?」
孤児の背後から覗き込んできたのは、パン屋で孤児にサンドイッチを作ってくれた店員の少年だった。
「お兄さん、お仕事は?」
「今日はもう終わりなんだ。どうしたの一人ぼっちで?」
少年は孤児の隣に腰掛けた。
気に掛けてくれたのは嬉しいが、いくら何でも悪魔と命がけのゲームをする羽目になったとは気軽に言えない。
黙り込んでいると、勝手に納得できる理由をつけてくれた。
「さては友達と喧嘩したな」
少年は、孤児の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
孤児は、五つの名前をこの少年に考えてもらえないかと思った。
「お兄さん、名前を5つ言ってみて」
「名前?」
脈絡のない会話に、少年はきょとんと孤児を見返した。
「僕、ゲームをしてるんだ」
「ははーん、そのゲームに負けちゃったんだな」
やっぱり勝手に納得してくれた少年は、思いつく限り5つの名前を挙げてみせた。
「ティム、ディーン、レイ、アーサー、えーとそれから、アリス。
こんなもんでどう?」
「女の子の名前はダメなんだ」
「そうなの?じゃあアルバート。
これどんなゲームなの?」
「内緒」
と答えて、孤児はベンチから飛び降りた。
「ありがとうお兄さん。それで試してみるよ」
「行っておいで」
少年は、笑顔で孤児を見送ってくれた。
残念ながら、少年が教えてくれた名前はどれもはずれだった。
「ティム」
『ナイン(いいえ)』
「ディーン」
『ニーテ(はずれ)』
「レイ」
『ファルシュ(違う)』
「アーサー」
『ガンツフェアシーデン(全然違う)』
「アルバート」
『これで五つだ。坊やの今日のチャレンジはおしまいだ』
孤児は少し考えた。
「六つ目を言ったらどうなるの?」
『どうにもならないさ』
悪魔は答えた。
『私もお前も、それに答える義務を持たないだけさ。
当たっていようとなかろうとね』
さぁ今度は私の番だ、と悪魔が言った。
『ティム』
「ナイン(いいえ)」
『ディーン』
「ニーテ(はずれ)」
『レイ』
「ファルシュ(違う)」
『アーサー』
「ガンツフェアシーデン(全然違う)」
『アルバート』
「五つだ。これでおしまいだね」
『そうだよ坊や』
悪魔の真似をして答える孤児を、悪魔は愉快そうに見ていた。
己の公平さを誇らしく思っている表情で。
悪魔がゲームに対して公平だという点では、孤児にも何ら異論は無い。
一日に五つというルールもその内だ。
知っている名前の数なら悪魔の方がずっと多い。
いつでもいくつでも試せるのなら、悪魔は一日に百個も尋ねることができただろう。
だけど悪魔はそうしなかった。
一日に五つというルールをもうけて、イカサマの罰則には自分の命さえ賭けた。
だからゲームのルールに関しては、とにかく悪魔は信用に足ると孤児は思っていた。
「ゲームは終わり?」
『今日のゲームは終わりだよ。また明日だ』
「じゃあ僕は何をすればいいの?」
くつくつと含み笑いで、悪魔は孤児の問いに答えた。
『何もしなくていいさ。好きにおし。
遊びに行ってもいいし、昼寝しててもいい。
だけど明日になれば、また五つの名前に答えなくちゃいけない。
いいかい坊や、忘れるなよ。もしも五つの答えに嘘をついたら……』
「死ぬんだろう。分かってるよ」
『そうだ』
反則勝ちなんてつまらないからな、と笑った悪魔はベッドに寝転んだ。
悪魔とこうしていても仕方が無いと思ったので、
「遊びに行ってくる」
と言い残して、孤児は部屋を出た。
『気をつけて行っておいで』
見送る代わりに、悪魔はベッドの上からひらひらと手を振った。
「やぁ、坊や」
特に行く当ても無かったので、孤児は広場のベンチに戻ってきた。
少年はまだそこに座っていた。
「どうだった?」
「勝てなかったよ。でも負けなかった」
「そいつは上出来だ」
笑って答えた孤児に、少年も笑い返してくれた。
「負けなきゃ次があるからね」
勢いを付けて立ち上がりながら、少年が言う。
「おいで。アイスクリームおごってあげる」
一瞬孤児は、知らない人と一緒に行ってはいけないと母に言われたことを思い出して躊躇ったが、結局少年について行った。
咎める母は既にいないのだし、それに少年はもう知らない人ではないと思ったから。
村の集会場になっていそうな小さな喫茶店へ入って、少年は窓際の小さな丸テーブルの席に座った。
孤児はその向かいに腰掛けた。
メニューの中でアイスクリームは、バニラとチョコレートとストロベリーしかなかった。
孤児はチョコレートを頼み、少年はバニラを注文した。
やって来たアイスクリームには、チョコレートソースがかけられ、ウエハースが二枚刺さっていた。
礼儀正しく「いただきます」と言ってから、小さなスプーンでアイスクリームを頬張った孤児に、同じくアイスクリームを頬張りながら少年が尋ねる。
「坊やはこの村の子じゃないよね。遠くから来たの?」
唇の端についたチョコレートソースを紙ナプキンで拭きながら、孤児は頷いた。
「うん、ずっと遠く」
「そっか。俺も遠くに居たんだよ」
少年は、指先についたソースを舌ですくって舐め取った。
少年の言葉に、孤児は目を丸くした。
「お兄さん、この村の人じゃないの?」
「違うよ。お金を貯めながら、あちこち歩いているんだ。
いろんな所に行ってみたいからね」
「旅をしているんだね」
「そうだよ」
「一人で?」
「そうだよ」
少年は笑った。
少年は、一人で生きている。
孤児が、決してできないと思ったことを、少年は実行している。
少年は孤児よりずっと年上だけれど、それでも大人と言うにはまだ遠かった。
孤児は少年を羨ましく思った。同時に尊敬した。
「すごいなぁ。僕にも旅ってできるかなぁ?」
できるさ、と少年はウエハースを齧りながら言った。
「でも坊やはまだ小さいから駄目だよ。
お父さんもお母さんも心配するだろう?」
孤児は俯いた。
「僕、パパもママも、もう居ないんだ」
ウエハースを咥えたままで、少年はきょとんと孤児を見返した。
「何だ、それなら俺と同じだ。
俺は生まれた時からパパもママも居ないんだよ」
今度は孤児が少年を見返す番だった。
「居ないの?パパも、ママも?」
「居ないよ」
少年は、ひどく朗らかに言った。
「寂しい?」
孤児の問いに少年は、考えるように窓の外を少し眺めて、
「正直わからない。ずっと一人だったから。
それよりは、仲良くしてくれた人達と別れる方が寂しい」
と言った。
「坊やは寂しい?」
孤児は答えられず俯いた。
「わからない。寂しいのかもしれない。悲しいのかもしれない。
でも、今は……怖い」
両親のことは悲しい。置いて行かれたことはとても寂しい。
けれど何よりも孤児を苛むのは、命の危険ということだった。
父親に会いたかった。
母親の声が聞きたかった。
けれどそれは最早、永遠に与えられないのだと、孤児はあの草原で知っていた。
理解してしまった以上、それは既に過去。結果でしかない。
取り残された傷は痛みを発しても、それ以上深くなることはない。
尤も、今はまだその傷の大きさを、孤児自身よく分かっていないのかも知れないが。
それでも、孤児の心を占めるのは悪魔への恐怖が大きかった。
少年は不思議そうに頷いた。
「そっか。でもどこかにいるならいいよね。
今は離れてても、どこかにいてくれるなら。
どこにもいないよりはずっといいよね」
にっこりと笑った少年の笑みには何の屈託も無い。
慰めるでなく、励ますでなく、単純にそう感じているというだけの言葉。
それが、何故だか孤児にはすんなりと受け入れられた。
そして、孤児はこの話題が終わったことを知った。
「お兄さんは、またどこかへ行くの?」
「うん?次の町?
そうだな、そろそろね」
ずいっと身を乗り出して、少年は孤児に尋ねる。
「坊やはどこから来たの?いいところだった?」
「えぇと、ずっと向こうの方から」
孤児は大体の方向を指差して答えた。
「ずっと草っ原だったよ。とっても遠くまで町は無いんだって」
「草原越えかぁ。何日くらい掛かるのかなぁ」
「二日くらいは……何にも無いと思う」
その“二日掛かる”草原に、今朝まで孤児は居たのだ。
そこからほんの数分でここまでやって来たなんて、今でもとても信じられない。
“二日”。
ふとそのキーワードが、孤児の脳裏にこびりついた。
孤児は気づいた。
「お兄さん、僕帰らなくちゃ!」
孤児は勢いよく立ち上がった。
アイスクリームはまだ少し残っていたけれど、すぐにでも確かめたいことがあった。
「そう、じゃあ出よう」
代金を払って、少年は店の外まで孤児を見送ってくれた。
「ありがとうお兄さん、ごちそう様でした」
そう言って駆け出した孤児に、
「またね」
と少年は手を振ってくれた。
孤児は息せき切って、宿まで走って帰ってきた。
慌てて部屋に飛び込んで、ベッドの上で昼寝していた悪魔を叩き起こす。
「起きてよ悪魔!聞きたいことがあるんだ!ねぇってば!」
『何だい、騒々しい』
悪魔は渋々目を開けて、孤児の方を振り返った。
「悪魔、いつまでここにいるのさ。ねぇ、いつまでいるの?」
孤児は悪魔の胸倉に掴みかかる勢いで尋ねる。
悪魔は意地悪に笑って、聞き返した。
『何だい、お友達でもできたかい?
お前がここを気に入ったと言うのなら、いつまでだって居ていいんだよ?』
孤児の目に希望が宿った。
「じゃあ明日も居るね?居るんだね?」
孤児のその問いに、悪魔はやけににこやかな笑みで答えた。
その笑みが何を意味するものかは、この時の孤児には到底察することなどできなかった。
悪魔は知っていた。
孤児が何に気づいたのかも、その結末も。
悪魔は何でもお見通しだ。
だけど孤児は知らなかった。
悪魔が何でもお見通しなことも、その笑みは悪魔が一番残酷な悪戯を思いついた時に見せるものだと言うことも。
新しい太陽が昇って、新しい朝が訪れた。
夜が明けるや飛び起きた孤児は、朝食もそこそこに宿を飛び出した。
『おいオーウェン、どこへ行く?』
悪魔の声も無視した。
孤児は真っ直ぐに村の広場へ向かった。
村の外へ続く道は、ここから北へ伸びるものしかない。
つまり、外からやって来る者は全てこの道を通るしかないのだ。
孤児もここを通ってやって来た。
孤児が村に着いたのが昨日の昼。
孤児が両親と別れたのが一昨日の昼。
草原のあの場所からは、一番近い村まで――つまりこの村まで、歩いて二日。
“二日”。
悪魔の手によってその距離を全く無かったものにできた孤児は、いつの間にか両親を追い向いてしまっていたのだ。
ちらりとだけ見たことのある父の手にあった地図には、この村以外人の住む集落は描かれていなかった。
とすれば、必ず両親はこの村に立ち寄るはずだ。
別れから二日後の、“今日”中に。
孤児は広場のベンチに腰掛けて待った。
ずっと待った。
太陽はどんどんと高度を上げて、時間はどんどんと過ぎ去った。
太陽が中天に達した時、孤児のお腹が空腹に鳴った。
『物好きだな、お前も』
不意に背中から声が聞こえた。
振り返るまでもない。悪魔だ。
「何しに来たのさ」
『こいつはご挨拶だな。お前が腹を空かせてやしないかと様子を見に来てやったのに』
肩を竦めて悪魔は言った。きっと孤児の腹の虫の声を聞いていたのだろう。
「お腹なんか空いてないよ」
『そうかい?もうお昼だよ。それならいいけど』
孤児が凭れたベンチの背に肘をついて、悪魔は孤児に問う。
『で、お前は一体何をしているわけだ?こんなところで座りっぱなしで』
「何でもいいだろう。あっち行ってよ」
孤児は悪魔を一瞥すらせず答えた。
『つれないじゃないか。教えてくれよ。
ずっと向こうの道を見ているね。何か待っているのかな?』
孤児は悪魔の嫌味な口調にだんだん腹が立ってきた。
(きっと知ってるんだ。知ってるのに僕をからかってるんだ)
そう思った孤児は、きっと悪魔を睨み付けた。
その時、孤児に話しかける声があった。
「やぁ、坊や」
振り返った孤児の目にはもうすっかり見慣れた顔が、そこにはあった。
「お兄さん、お仕事は?」
少年はにっこり笑って答えた。その背中には大きな荷物がある。
「もう終わったんだ。お金が貯まったからね。
今から別の町に行くんだよ」
荷物は旅支度だった。
「お兄さん、行っちゃうの?」
「うん、そんなに長い間一つの場所に居られないしね」
何故か、とは孤児は問わなかった。
聞いてはいけないことのような気がしたし、きっと旅とはそんなものなのだと思ったから。
「遠くに行っちゃうの?」
「そうだね、うんと遠くまで行こうと思ってるよ」
「どれくらい?」
少年は少し考えて答えた。
「できれば、世界の果てまでかな」
それがどれほど遠いのか、孤児には想像もつかなかった。
悪魔ならば知っているやもと、ふとそちらに目をやれば、何故か悪魔は恐ろしい目で少年を睨み付けていた。
孤児はぞっとした。
草原で孤児が悪魔を怒らせた時よりずっと怖い。
あれが炎だとしたら、今は氷だ。ありとあらゆる生命を許さない、永久凍土の絶対的な拒絶。
悪魔の体から漂って来る風が冷たい。硫黄の焼けた臭いではなく、鉄錆に似た生臭い風。
悪魔が何故怒っているのか、孤児には分からなかった。
けれど、悪魔は怒っていたのではない。
それは憤怒ではなく、憎悪だ。
『貴様か……どうりで嫌な臭いがするわけだ、蛆虫め』
悪魔の釣り上がった目に睨まれても、少年は困ったように笑っているだけだった。
孤児は、少年に驚きを禁じ得なかった。
側にいるだけで手足が震えて寒くなり、冷たい汗が出てくるのに、悪魔の殺気を真正面から受けている少年が平気な顔でいる事が信じられなかった。
「弱ったなぁ。この人、坊やの友達?」
違うと言いたかったが、孤児の喉からは声が出てこなかった。
「可哀想に。怯えてるじゃないか」
少年が孤児の頭を撫でようと差し伸べた手を、悪魔が叩き落した。
少年の手の甲に、赤い跡が残った。
『薄汚い手で触るな、それは私の獲物だ。
目障りだ。とっとと消えろ豚の餌』
地獄の底から響いてくるかの如き恐ろしい悪魔の声に、しかし少年は哄笑でもって答えた。
「アハハハハハハッ!
驚いた!すごい友達がいるんだね坊や」
心配しなくてもすぐに消えるよと呟いて、少年は肩に食い込む荷物を背負い直した。
孤児は震える手を持ち上げた。
待って、と言いたかった。もっと話を聞かせて欲しいと思った。
けれど、それは間に合わなかった。
「またね!」
最後ににっこり笑いながら手を振って、少年は去って行った。
「……何であんなこと言ったの!何であんな酷いこと言ったのさ!」
少年の背中が遠くなってしまってから、孤児は悪魔に食って掛かった。
恐ろしい寒気も不吉な臭気も消えていたけれど、悪魔はまだ不機嫌だった。
『あいつが気に入らないからさ。
お前、昨日の昼飯を買ったのもあいつの所だろう。どうりで嫌なにおいがしたわけだ』
何なんだよ!と孤児は叫んだ。
「お前の言うことがちっとも分からないよ!」
『分かる必要なんてないさ。お前はここでパパとママを待っていればいいじゃないか』
悪魔の酷薄な笑みが、孤児の忍耐を断ち切った。
「そうだよ、パパとママを待ってるんだ!
お前なんかあっちへ行けよ!行けったら!」
『おい、ヒステリーを起こすなよ。
分かった。いいことを教えてやるから機嫌を直せ、な?』
「うるさい!聞きたくない!あっちへ行け!」
『おぉ、怖い』
孤児の剣幕に、悪魔は大げさな動作で後ずさって見せた。
『怖いからとっとと退散しよう。
いいことを教えてやろうと思ったけど、やめた』
言い終わるが早いか、悪魔の姿は煙のように消えていた。
悪魔の言う “いいこと” なんかろくなものではないと判断した孤児は、悪魔の言葉などさっさと忘れて、再び道の向こうからやって来る人影を待つのに専念した。
仲良くしてくれた少年に、さよならも言えなかった事が悲しかった。
太陽が地平線の向こうに沈んだ後で、孤児は宿に帰ってきた。
両親は現れなかった。
どれほど待っても、道の向こうからはどんな来訪者もやっては来なかった。
『お帰り坊や』
肩を落として帰ってきた孤児に、悪魔は笑いかけた。
全てを見透かしているような、あのにやついた笑み。
「パパとママはどうしたの?」
悪魔を見上げて、孤児は掠れた声で問うた。
「お前なら知ってるはずだ!パパとママはどうしたの!
お前が何かしたの!?」
悪魔は力一杯否定した。
『冗談じゃない!そんな無駄なことするものか。
教えてやろうとしたのに、お前が聞かなかったんじゃないか』
昼間、悪魔が言っていた “いいこと” の意味を、孤児はこの時知った。
孤児はもう一度悪魔に問う。
「パパとママはどうしたの……?」
『教えないよ。聞きたくないって言ったじゃないか』
孤児の手が、悪魔のシャツの裾を掴んだ。
「教えてよ!パパとママはどこに行ったの!
怪我したの?元気なの!」
悪魔は意地悪く笑った。
血のように真っ赤な目が、愉快そうに細められる。
服を掴む小さな手をそっと解いて、その手に指を絡ませながら呟く。
『お前のパパとママはね、馬車に乗ったよ。
お前を置いてきたあの場所からここに向かう途中で、運良く商人の馬車と出会ったんだ。
パパとママはお金を払ってそれに乗せてもらった。
だから今頃は、どこか遠くの町にいるさ』
悪魔のひやりとした手を、今は冷たいと思わなかった。
それよりは、足元から襲ってくる寒気の方がずっと強い。
「……パパとママはどこに行ったの?どこにいるの?」
『さぁ、そこまでは知らないな。ずっと見てたわけじゃないからな』
孤児の手が、悪魔の指をぎゅっと握った。
小さな爪が指の付け根に食い込んだけれど、悪魔はその程度を痛いとは思わない。
孤児の目には、大粒の涙が溜まっていた。
その内の一滴、また一滴が、やわらかい頬っぺたの産毛を濡らして、ゆっくりと落ちていった。
悪魔の顔から笑みが消えた。
眉根を寄せて、困ったような表情で孤児の顔を覗き込む。
『どうして泣くんだ?お前の親がお前を捨てたことくらい、とっくに分かってたじゃないか』
「泣いてない……」
涙を零しながら、孤児はそれを否定した。
悪魔はしゃがみこんで、孤児の体に両腕を回した。
温かい温度が、悪魔の腕に伝わる。孤児の頭は、丁度悪魔の肩に寄りかかる位置にあった。
悪魔は囁いた。
『泣いてもいいよ、私のチェリーパイちゃん。
ゲームを破棄して私と契約するかい?
お前に新しいパパとママを作ってやろう。弟と妹、大きな白い犬もつけてやる。
それから友達もだ。どうだい、嬉しいだろう?』
「うるさい黙れ」
悪魔の誘惑を、孤児は一言で切り捨てる。
孤児の小さな手が、悪魔の腕をぐいと跳ね除けた。
それから言った。
「僕は旅をする」
悪魔は驚かなかった。
「僕は旅をするよ。僕にも旅はできるはずだ」
『あぁ勿論だよ、坊や』
「パパとママを探すんだ」
孤児は手の甲で涙を拭った。
『それは全くいい案だね、坊や』
悪魔は笑いながら頷いた。
悪魔の手が、孤児の頭をからかうようにやわらかく撫でる。
『坊やはいい子だね。強い子だ』
その手を、孤児は慎重に掴んで、ゆっくりと下ろした。
「子供扱いしないでよ」
それを聞いて悪魔は笑い声を上げた。眩しそうに愉快そうに嬉しそうに笑った。
『お前が泣き虫じゃなくなったらな』
そして、にっこりと、本当ににっこりと笑ったのだ。
三、 幕 ――




