二、 山村ヴェスパ
孤児と悪魔は山間の村にやって来た。
街道の途中にある小さくて静かな村は、そばにもっと大きな町があるせいで足を止める旅人も少なく、穏やかでのんびりとした雰囲気の、落ち着いたいい村だった。
閉鎖的な田舎では、些か旅人に冷たいとか警戒心が強いといった傾向があるが、街道の通るこの村ではそのようなこともなかった。
それを居心地がいいと感じる旅人は、急ぎの用でもない限り、あえて先の町まで行かずここで一泊して行く者もある。
また、この村は養蜂で名の知れていることもあり、それを目当てにやってくる客も少なくはなかった。
それ故に、この村は“ヴェスパ”(蜂)と呼ばれていた。
悪魔と孤児が訪れたのは、季節の上ではもう秋も深まった頃。
雪こそまだ降りはしないものの、山の朝晩は既に冬のように寒かった。
蜂も冬篭りの時期に入っており、木箱の巣の中で大人しくしている頃だ。
花の季節ともなれば、働き蜂がうるさいほどに蜜を求めて飛び交うと聞いた孤児は、ぜひそれを見てみたかったと呟いた。
『お前、それは本気で言ってるのかい?
この間森の中で蜂一匹にあれほど大騒ぎしたくせに』
宿の朝食の席で、ハニートーストを齧っていた悪魔が言った。
その向かいで、蜂蜜入りのミルクに口をつけた孤児が、不服気に言い返す。
「あ、あれはすごく大きい蜂だったからじゃないか。
蜜蜂くらいなら平気だよ」
それが多少の強がりであることを悪魔は知っていたけれど、宿の女主人もそうと気づいたのだろうか。
申し訳なさそうに、
「この村の蜂はちょっと大きいですよ」
と言った。
「大きいの?」
「えぇ、これくらい」
慌てて尋ねた孤児に、女主人は親指と人差し指で隙間を作ってみせた。
「ここの蜂は山の奥に住むあまり数のいない種類で、気性は穏やかなんですけどちょっと大型ですから」
『良かったなオーウェン、今が春じゃなくて』
にやにや笑って言う悪魔を、孤児は全て悪魔のせいだとでも言いたげに、恨みがましく睨んだ。
それでも折角来たのだからと、孤児は悪魔を連れて養蜂の風景を見せて貰いに行くことにした。
宿の主人が知り合いの養蜂家に頼んでくれたので、朝食を食べ終えた後早速孤児と悪魔は出かけた。
生憎天気は曇り空で風が冷たかったので、悪魔は孤児に分厚い上着を着せた。
「こんなのいらないよ」
『何言ってるんだハニーレモンちゃん。人間は簡単に病気になるじゃないか。
私がゲームに勝つまでは、お前に死なれちゃ困るんだ』
一度悪魔がこうと言い出したら、何を言っても無駄だと言うことは孤児にも分かっていた。
諦めて、重い上着を着たまま出かけることにする。
村から少し山の中に入ったところにある養蜂場まで歩いていく間に、悪魔はいつものゲームを始めた。
『ビル』
「ナイン(いいえ)」
『ベスティア』
「ニーテ(はずれ)」
『ハーニー』
「ファルシュ(違う)」
『スパーノ』
「ガンツフェアシーデン(全然違う)」
『ルシオ』
「残念。はい、おしまい」
悪魔が今日の五回を使い切ると、次は僕の番だよと孤児は言った。
「うーんとね、ウェズ」
『ナイン(いいえ)』
「イリオッド」
『ニーテ(はずれ)』
「グリード」
『ファルシュ(違う)。ちょっと待て、誰が強欲だ?』
そこまで言ったところで、孤児には次の名前が浮かんでこなかった。
『今日は三つかい坊や?』
「うん、それでいいよ」
浮かんでこないのだから仕方が無い。
丁度道の先に目当ての養蜂場も見えてきた。
後で何か思いついたら試そうと考えて、孤児は蜂と蜂蜜に関心を移した。
養蜂場の入り口で、宿の主人が紹介してくれた養蜂家のおじさんが待っていた。
「いらっしゃい」
丸顔で、顎と鼻の下を覆った髭が厳つい印象を与えたが、にっこり笑った顔には愛嬌があり、むしろ陽気な顔立ちをしていた。
「ギース・ロンデンだ。ロンデン養蜂場へようこそ」
そう言って、ギースと名乗った主人は孤児と悪魔に握手してくれた。
「坊やは蜂が苦手だって聞いたけど、大丈夫。ウチにいる蜂達はおとなしいから、悪戯しない限りは刺しに来たりしないよ」
『悪戯するなよ坊や』
「しないよ。よろしくお願いします」
悪魔のからかいを諌めて、孤児は主人に案内され、養蜂場の中に入っていった。
蜂達の住む木箱は森の中にあった。大人が一抱えするより大きな木箱が、森の中の少し開けたところにいくつか並んでいる。
遠巻きに見守る孤児を尻目に、主人は箱のすぐそばへ近寄って、慣れた手つきで箱の上部に付いた金具を外すと、箱の天井から木の枠を引き出して見せた。
枠の中には、蜂の巣の断面があった。
六角形の穴がびっしり並んで、その上を黒い体の大きな蜂達が行ったり来たりしている。
その内の数匹が漂うように飛んできて、主人の周りを飛び交い始めた。様子を窺っているようだ。
「こいつらは群れの兵隊役だよ。巣に近付いてきたものが敵かそうじゃないのか、様子を探りに来るんだ」
と、主人は孤児に言った。
「刺さないの?飛んでいるだけ?」
離れていても安全だとは思えない孤児が、腰が引けながら尋ねたのに、主人は笑って答える。
「敵だと思ったら刺すこともあるよ。
その間に他の兵隊が巣に帰って、敵が来たぞ!と知らせるんだ」
「そうしたらいっぱい蜂が出てくるの?」
勿論、と主人は頷いた。
「だから坊や、もし蜂と出会ったら、そいつが周りをぶんぶん飛び回っているだけの間は、手で払ったりしちゃいけないよ。
そんなことしたら、蜂達は坊やを巣を壊しに来た敵だと思ってしまうからね」
じゃあどうすればいいの?と孤児は問う。
「放っておけばいいんだ。こっちが何もしなければ、蜂達だって何もしないよ。
でもね、中には危ない蜂もいるから、もし周りを見て巣を見つけたり、兵隊の蜂がしばらくくっついて飛んでくるような時には、なるべくそこから離れた方がいい」
それなら大丈夫だと孤児は思った。孤児は今までだって、蜂を見かけたら急いで逃げていたから。
主人の頭の周りをぶんぶんと飛び回っていた蜂達は、一匹一匹と次第に巣へと戻ってしまった。
「兵隊なのに戻っちゃったよ?おじさんの顔を覚えてるから?」
「そうかも知れないね。
ここにいる蜂は大人しいし、毒も強くないけど、刺されるとそりゃあ痛いんだ。
どうする坊や?もっと近くで見るのはやめておくかい?」
孤児がちらりと隣を見上げると、悪魔は愉快そうな笑みで孤児を見下ろしていた。
『どうする坊や?怖いんならやめておけ』
その言い草に、小馬鹿にされているような印象を受けた孤児は、
「平気だよ」
と言い捨てて、主人の方へ、つまり蜂達の住処である木箱の方へ近付いていった。
そもそも悪魔が孤児をからかうのは今に始まったことではないのに、この時に限ってそれが少し癪に障ったのは、やっぱり本当はまだ蜂が怖かったからだろう。
孤児が近付くと、木箱から二匹の兵隊が飛び出してきた。
「何もしなければいいんだよね?」
途端に怖気づいた孤児が、確かめるように主人に問う。
「そうだよ。全部の蜂がそうじゃないけど、ここにいる蜂達は何もしなければ何もしないよ」
孤児はそろりそろりと主人の立っているすぐ側までやってきた。
兵隊蜂は、孤児の頭の上をふらふらと飛び回っていたが、それ以上寄ってくることはなさそうだった。
「さっきの兵隊蜂?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
おじさんにも蜂の見分けは付かないなぁ」
と主人は言った。
「ジョンなら分かる?」
もしやという好奇心に駆られて、そう尋ねながら振り向いてみた時、悪魔は何故か巣箱から離れた位置から動いておらず、そしてどこかあさっての方を眺めていた。
「どうかしたの?」
まさかとは思ったが、孤児はこう聞かずにはいられなかった。
「ジョンも蜂が怖いの?」
悪魔は不思議そうに困ったように微笑むと、宙の一角を指差して言った。
『ここにね、さっきから一匹飛んでるんだ。
まるでそれ以上近付くなって言ってるみたいにね』
などと言いながら、さして気にした風でもないように、悪魔は主人と孤児と、それから巣の方にやって来た。
途端に、木箱から何匹もの兵隊が飛び立ち、悪魔の側で大きく羽音を呻らせ始める。
周りを飛び回るのではなく、道を塞ぐように悪魔の前方に立ちはだかって、明らかに悪魔を巣に近づけまいとしていた。
悪魔が一歩近付くにつれて、取り囲む蜂の数は更に増えた。
巣の中の蜂達も、興奮してざわざわと騒ぎ始めている。
ひどく警戒して苛立っているその様子に、主人は目を丸くした。
「おやおや、珍しいなぁこりゃ一体……」
さすがの主人も驚いているようだった。
「こいつらがこんなに騒ぎ出すなんてこと、滅多にないんだが」
『どうやら私は嫌われたようだね』
白々しく言ってみせたものの、悪魔は勿論気づいているだろう。
孤児も気づいていた。
蜂達ですら気づいたのだ。
ジョンが悪魔で、それ故に彼らにとっては恐ろしい脅威であることに。
「これじゃあどうもしょうがないな。
危ないから、あんたは離れておいてくれないか?」
『勿論。私だって痛い思いはしたくない』
両手を肩の高さに上げて、降参のポーズで悪魔は後ずさった。
さっきよりもずっと離れると、ようやく蜂達はちらほらと巣に帰り始めた。
巣の中も、少しずつ落ち着いた。
巣箱の土台に足をかけて、それを覗き込みながら、孤児は尋ねる。
「女王蜂はどこ?蜂の幼虫は?」
主人は、幼虫は今はいないんだよと答えた。
「女王蜂が子供を産むのは、春になってからなんだよ。
冬の間は、今までに貯めた蜜や花粉を食べて、寒さに耐えて過ごすんだ」
それを聞きながら、孤児はまじまじと巣の中で蠢く蜂達を見つめた。
「蜂も春が楽しみなんだね」
「坊やと同じにね」
「僕、冬も好きだよ。だって雪遊びができるもの」
孤児がそう言った途端、山の上から冷えた風が吹き付けてきた。
「おや、風が冷たくなってきたな。蜂が寒がる」
主人は手早く木枠を戻し始めた。蓋を閉めて、金具を下ろし鍵を閉める。
「さぁ坊や、寒くなってきたから今日はここまでだ。
家にお入り。温かい紅茶にウチで取れた蜂蜜を入れて出してあげよう。
蜂蜜入りのクッキーもあるよ」
「本当?!」
おやつに惹かれて、孤児は巣箱の台から飛び降りた。
主人の家兼蜂蜜の販売所で、孤児と悪魔はおいしいお茶とクッキーをご馳走になった。
クッキーは、主人の奥さんの手作りだった。
砂糖のように尖っていない、やさしい甘さがとても美味だった。
お茶を飲みながら、蜂達の生活と一生について話を聞いた。
どうしてこの村の蜂達が作る蜜がおいしいのかとか、蜂蜜を使ったお菓子や料理の数々とか、蜂蜜からろうそくを作る方法なども聞いた。
最後に孤児は、蓮華の花だけから作られた蜂蜜というのを一瓶買った。勿論払ったのは悪魔だが。
見送ってくれた主人が、
「今度は春においで、坊や。
蜂達が一生懸命働いているところが見られるよ」
と言ってくれた。
帰り道に、両腕の中で蜂蜜の瓶を抱えながら歩いていると、これからは蜂と出会っても恐がらないでいられそうだと思えた。
「ジョン、蜂を殺さなかったね」
『うん?何だって?』
悪魔に聞き返されて、
「ジョンが蜂達を殺してしまうんじゃないかって思ったんだ」
と孤児は言った。
『私が?何でまた?何の得にもならないのに』
悪魔は、孤児がそう思ったことが心底不思議そうだった。
悪魔は益にならないことはしないのだ。虫けら一匹殺したところで面白くもおかしくもない。
「だって蜂がジョンを刺そうとしてたみたいだったから」
あぁ、と納得したように悪魔は頷いた。
『あれは奴らのせいじゃない。それが連中の役目だからさ。
どんなに恐ろしくて逃げ出したくても許されない。巣と仲間のために死ななくてはならない』
その言葉に悪魔は、哀れみと言うよりも寧ろ、尊敬の念をこめているように見えた。
『全く素晴らしい兵士共だよ。
悪魔の兵隊達も連中のようだったら、魔王様はさぞお喜びになるだろう』
孤児は不思議そうに悪魔を見上げた。
「悪魔にも兵隊がいるの?」
『そりゃいるさ。でなきゃ誰が魔王様と魔王様の宮殿をお守りするんだい』
「誰が攻めてくるの?」
戦争という言葉くらいは孤児も知っている。
だが、ジョンのような悪魔を大勢従えている魔王様とやらに戦争を仕掛ける存在がいるとは思えなかった。
いるとすれば――“天使”と言う答えを期待した孤児に、悪魔は人差し指を顎に当て、少し考えてこう答えた。
『……勇者、かな』
ユウシャ?と孤児は問い返した。
「ジョンは、その勇者と戦ったことあるの?」
『無いよ』
「兵士をやったことも?」
『無いよ。私は痛いのが嫌いだもの』
だから兵士なんかしないのさと悪魔は言った。
「悪魔でも痛いの?」
『たまにね』
「蜂に刺されると痛い?」
『それは分からないね。刺されたことが無いもの』
ナイフで切られても平気な顔をしている悪魔が、一体何を痛がるものか孤児にはとんと想像がつかなかった。
けれど、悪魔が嫌だと言うからには痛い思いをしたことはあるのだろう。
その話を聞いてみたいと思ったけれど、悪魔がそれ以上喋らなかったので、孤児もわざわざ問いただすことはしなかった。
村の真ん中まで戻ると、悪魔は孤児に財布を渡して宿に引っ込んだ。
夕方まで好きに遊んでこいという意味だ。
とはいえ、小さな村のこと。見るべき場所などさしてなかったから、孤児は真っ直ぐ菓子屋に向かった。
さすがは蜂蜜で知れた町。
キャンディやクッキー、ケーキにもたっぷりと蜂蜜が使われていた。
蜂蜜色のキャンディを一袋と、蜂蜜を使ったクッキーやマドレーヌを買った。
それを頬張りながら、町の中を歩いた。
通りにはいくつもの蜂蜜専門店がある。
どこの店でも、誰の蜂が集めた何の花の蜜かが、きちんとラベルに書かれて売られていた。
同じ蜜でも、どの花から集めたかで蜜の味は違うのだと、孤児はロンデン養蜂場の主人に聞いていた。
だけど、同じ花でもどの蜂が集めたかで蜜の味が違うとは、とても驚きだった。
一つ一つラベルを眺めていると、店員のお姉さんがやって来て、
「坊や、食べ比べてみる?」
と、少しだけ味見させてくれた。
残念ながら、孤児には味の違いは分からなかったけれど、毎日蜂蜜を食べているこの村の人ならば分かるのかも知れないと思った。
おじさんが威勢のいい声でおばさんと話していた八百屋と、香ばしい香りが漂うパン屋の前を通り過ぎて、レースのカーテンがかかった出窓の愛らしい喫茶店の角を曲がると、もう村の広場だった。
広場は村の南の端にある。そこから真っ直ぐ南西に伸びる道を行けば、すぐに街道に出られる。
広場には馬車の駅があり、この辺りの町や村を行き来する大きな乗合馬車が、今も駅舎の前に止まっていた。
孤児は馬車に近寄った。
「この馬車はどこまで行くんですか?」
出発の時間を待っている御者に話しかける。
御者は孤児を見下ろして、不思議そうに尋ねた。
「シラクサの町までだよ。坊や、お父さんかお母さんは?」
孤児はそれに答えず、更に問う。
「どれくらいかかりますか?夜までには着きますか?」
御者の男は、ゆっくりと御者台から下りてきた。
「順調に行けば日暮れまでには着ける予定だけれどね。
坊や、一人で行くの?大人と一緒じゃないと乗れないよ」
「シラクサの町のおじいちゃんのところへ行くんです」
孤児は嘘をついた。シラクサなんて名前の町は知らなかった。
「お金ならあります。これで足りますか?」
孤児は財布を差し出した。銀貨の詰まった財布はずしりと重い。
御者は驚いた顔をした。
片道分の馬車代には十分すぎた。
子供がこんな大金を持っているわけがないと考えた御者は、それを子供の両親が与えたものだと勘違いした。
「お父さんとお母さんは、君が馬車に乗ってもいいって言ったんだね?」
「はい」
今度も、孤児は平気な顔をして嘘をついた。
それなら構わないか、と呟いた御者が孤児を切符売り場に連れて行こうとした時、
孤児の肩を冷たい手が掴んだ。
『坊ちゃん』
孤児の体が強張った。
『探しましたよ、坊ちゃん。
一人で行っちゃあ心配するじゃありませんか』
悪魔がにこやかに笑っていた。
御者は悪魔に目を向けた。その視線に気付いて、悪魔は言う。
『どうもすみません、私シュバイツァー家の執事でアルベール・ゴーギルと申します』
「えっ!あのシュバイツァー家の?!」
御者が驚いた声を上げた。
御者は先ほどとは打って変わった好奇の表情で孤児を見たが、孤児はシュバイツァー家というのが名の知れた豪商であるとは知らなかった。
「こちらのお子様は一人で乗車なさると伺いましたが」
御者が馬鹿丁寧な口調で悪魔に尋ねる。
『いいえそんな、とんでもない。それはあまりにも無用心に過ぎるというものです』
きっぱりと言い切った悪魔に、そうですよねぇと御者は改めて納得した顔を見せた。
『坊ちゃんがお世話になりました。
坊ちゃん、馬車に乗るのは明日だって言ったじゃないですか』
言葉の前半部分を御者に、後半部分を孤児の肩を引き寄せながら、悪魔は言った。
『旦那様や奥様に叱られてしまいますよ。さぁ戻りましょうね。
それではどうもお世話様でした』
悪魔が、くるりと孤児に回れ右をさせて、ぽんと背を押した。
孤児はずっと俯いていた。悪戯が見つかった子供のように。
「あ、待ってください。これを!」
歩き出した悪魔の背に、御者が声を掛ける。手には孤児から預かった財布を握っていた。
『あぁ、それは差し上げます』
悪魔は事も無げに答えた。
孤児は通りの先を見て、宿へと帰る道をゆるゆると辿る。
その隣を悪魔が歩いた。
悪魔は笑っていた。軽薄なにやついた笑みではなく、冷ややかで酷薄な笑みだった。
『余計な三文芝居を打たせてくれたじゃないか』
孤児は答えなかった。
『だんまりか、坊や?
構わないさ。逃げられるなら逃げてみろ。できるものならな』
孤児は悪魔を睨みつけた。
『おぉ、恐い。そんな顔をしても駄目だぞ。
私はお前の居るところなんてすぐに分かるんだ。
どこまで行ったって、あっという間に追いつけるんだ』
悪魔の口が、薄い三日月のように歪んで笑みを作った。
悪魔が言ったことは本当で、孤児はこれまでに何度も逃亡を企て、その度にすんでのところで邪魔されている。
孤児は足を止めた。
「僕、お前なんて怖くないからな」
『おや、そうか。ならどうして逃げようとしたのかな?』
孤児は少しの間黙って、小さな声で答えた。
「馬車に……乗るはずだったんだ、一緒に……」
誰と一緒にかなど、聞くまでもない。
今はもうどこにいるのか分からない、孤児の両親とだ。
『そうか、そんなにも馬車に乗りたかったのか』
悪魔はくつくつと笑い声を漏らしながら、意地悪な顔で頷いた。
孤児の強がりなどすっかりお見通しだと言うように。
『でも駄目だ、明日だ。すぐそこの町までだが、馬車に乗せてやろうじゃないか。
お前が、今日の残り一日いい子にしていたらな』
からかうように頭を撫でる悪魔の手を、孤児は振り払った。
『さぁ。もうつまらないことは考えないで、いい子で遊んでおいで』
その手に握った財布を、悪魔は孤児に手渡した。
御者にやってしまったはずだが、それとは別の物なのだろう。
『私は先に帰っているぞ。飽きたら戻って来い』
歩き出した悪魔の背に、孤児は憮然として、今日四つ目の名前を投げかける。
「アルベール!」
悪魔は振り返って答えた。
『ガンツフェアシーデン(全然違う)』
二、 幕 ――




