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40話 魔女と母親

 ランプも何もないのに迷宮の最深部は明るい光に満たされていた。


 洞窟のような壁面には色とりどりの鉱石が露出している。それらが赤や黄、青の光を発していた。長い一本道の先に扉が見えた。


「魔女はあの奥にいる」


 ウルフィアスは手慣れた様子で歩きはじめた。四人の少年少女もそれに続く。


「扉には魔法で封印が施されている。私以外の人間がたとえ最深部に訪れても、魔女とは会えない」


「魔物は出てこないのかい」


 壁から析出した赤い魔鉱石の表面をなでながらジョスランが聞いた。迷宮のなかだと忘れそうになるほど、悪趣味に彩られた空間だった。


「魔女そのものが最強の魔物みたいなものだ。十階層に辿り着くような強者でもやつには勝てない」


 冗談を言っている雰囲気ではない。ウルフィアスの口調は真剣そのものだった。


 どれだけ強い冒険者も迷宮の主たる魔女には敵わない。その言葉を間違いなく最高の実力者である騎士から聞かされると、心の奥深くをハンマーで殴られたような気分になる。


「私の力の大半は魔女から預かったものだ。やつがその気になれば戦力としては半減するだろう」


「いまさら弱気になったの?」


「現状を正確に把握するのがいかに重要か、いずれわかる。見通しの甘い分析はいたずらに死を招くだけだ」


 ウルフィアスは軽くドニを睨んだ。


 魔女の鎮座する空間との敷居である扉はくすんだ色をしていた。表面にはうっすらとホコリが積もっている。ヴァルトが軽く指でなぞると、ひどく冷たい感触がした。


「魔女を決して恐れるな。私からの忠告はそれだけだ」


「命を大切にしろ、じゃないんだね」


「この時のために生き永らえてきた。魔女と刺し違えることができるなら命などいくらでもくれてやる」


「紅い悪魔と本物の魔女。どっちが強いんだろうね」


「明らかに向こうが強い――だが」ウルフィアスが扉に手をかざすと、幾筋もの光が扉の表面を這い、全体を黄金色に染め上げた。「私がどんな冒険者よりも、騎士よりも強いのは確固たる事実だ」


 手のひらの中心から放射状に広がった光が隅々まで到達すると、力を加えることなく扉は自然に開いた。


 ゆっくりと、待ちわびていたように。




「久しいな、ウルフィアス」


 頭のなかでささやかれているような不思議な声の持ち主は、完璧な横顔で頬杖をついていた。半透明の水晶で――いや、魔鉱石で作られた玉座で足を組み、ほとんど口を動かすことなく言葉を発している


 部屋は黄金そのものだった。


 床から天井に至るまですべてが黄金に覆われている。


 その中央に座する魔女は、別格の存在だった。


 ヴァルトの視線は魔女から離せなくなっていた。魔法で釘付けにされたように、目を閉じたままの横顔を凝視する。


「相変わらず美しいお姿であられます」


「十余年の歳月など、妾にとっては瞬きをするように通り過ぎていく。幾千の人を食らっている間にな」


「その美貌を保つためにどれほどの人々が犠牲になったか、覚えていらっしゃいますか」


「無意味な問いだな。妾は魔鉱石を供給する。代わりにすこしばかりの上澄みを貰っているだけのことよ」


「貴女と契約した国王ははるか昔に命尽きました。約束を白紙に戻すつもりはありませんか」


「あやつは死んだ。だが子孫は、国は残っておろう。それが続くかぎり妾との契約が終わることはない」


「では、その国がなくなれば、いかがですか」


「――ウルフィアス」


 魔女は長いまつげを持ち上げた。


 その下に隠されていた瞳を見て、ヴァルトは呼吸が止まりそうになった。果てしない絶望をたたえたような闇が眼窩を満たしている。何も見ていないようでいて、すべての深淵を見透かしているようでもあった。


 魔女は人間の成れの果てだと思っていた。違う、魔女はもはや迷宮だ。あらゆる命を喰らい尽くし、己のうちに取り込むための悪辣な罠だ。


「そこにいる者たちは誰だ。妾が求めるのは高貴なる血筋、あの男の血族。そのように下賎な民の血ではない」


「有象無象の冒険者を吸収した方のお言葉とは思えません。貴女の身体には無数の名も無き人々の血が流れている、そうでしょう」


「あれらは所詮、魔鉱石を作るための依代に過ぎぬ。妾と一体になるなど、おこがましいことだ」


「ボクの名はシラル。貴女の生贄になる運命だった」


 魔女から視線を外すことのできない少年たちの横で、シラルが一歩前へ進み出た。魔女は組んでいた脚をおろし立ち上がる。


 全身を白装束で覆っているシラルと対照的に魔女は黒衣をまとっていた。瞳の色と同じように深い闇をたたえた素材は、黄金の部屋の中にあっても一切の輝きを放つことがなかった。


「ティトルーズの娘。妾の血肉となるのはお前だけでいい」


「貴女に殺される毎日だと思って生きてきた。それも今日で終わりだ。ボクには仲間がいる、友だちがいる。殺されるわけにはいかないんだ」


「契約を違えるというのか?」


 魔女が足を踏み出すたびに、コツコツという乾いた音がする。シラルの顎の下に指を添えて上向きにさせる。


「……ああ、そうだ。呪われた毎日に終止符を打つ。何重もの嘘でがんじがらめにされた迷宮に、もう誰も迷い込まないように」


「よい。ならば妾は契約破棄の掟に従って、自由にさせてもらおう」


「貴女に自由はない。永久の命も今日までだ」


 シラルは至近距離からレイピアを振りかざし、魔女の心臓を貫いた。刃が背中まで貫通している。確実に命を奪うはずだった。


 しかし魔女は狂ったように高笑いをはじめた。


 鼓膜をつんざくような哄笑。かつて聞いたことのない、どす黒い感情の高鳴り。


 ヴァルトたちは悲鳴のごとき声でようやく我に返った。各々の武器を構えて相対する。魔女は漆黒のスカートの裾をふわりと浮かせて一回転した。


 ウルフィアスと同じように突如として消え、ヴァルトの背後に現れ出る。


 かざした腕から放たれる黒弾。魔力の塊であるそれがヴァルトの胴体をえぐり取る前に、横から電撃が走って相殺する。


「妾を殺そうというのか、愚かな子供たちよ」


「貴女は多くを犠牲にしすぎた。罪は償っていただこう」


「それは貴様も同じことだろうウルフィアス」


「仰るとおりです。私もまた罪を重ねすぎた。貴女を倒すことでわずかでも償うことができるなら……」


「人が人を殺してなにを恥じることがある。永遠に生きようと願い、他を蹂躙することは人の本願であろうに」


「私に一片の良心が残されていればこそ、心を痛めるのです。すべての国民の幸福を願い、皆が平等に暮らせる世界こそ、希求すべきものでしょう」


「あくまで妾に歯向かうつもりなら――ウルフィアス。貴様の力を返してもらおう」


 魔女がかき消えたかと思った瞬間ウルフィアスを黒い霧のようなものが覆った。悶えながら崩れ落ちる。ドニが突進して霧から助け出そうとするが、苦しそうに胸を抑えるウルフィアスの様子は変わらない。


「私から……離れろ!」


「預けていたものを返してもらっただけだ。ただし相応の利子をつけて、な」


 気体になっていた黒い霧が収束し、玉座の前に魔女の姿が現れる。


 笑い声を絶やさない魔女にジョスランの大剣が肉薄する。逃げようともしない魔女の左腕を深々と切り裂いた。


「……なに?」


「ボケっとしていいのかい」


 興味深そうに切断面を眺める魔女の、今度は右腕を落とす。無防備になった胴体を薙ごうとした剣筋は空を切った。


「どういうことだ?」


「自分が斬られるはずない――そんな顔をしてるね」


 ヴァルトの問いかけに、魔女は振り向いた。


「どのような細工をした。人の武器が妾を傷付けられるはずがない」


「ジョスランの剣は迷宮から出てきたものだ。いわば貴女の一部分。自分の爪で自分を傷つけるようなものさ」


「妾が気まぐれに武器を与えたことなどない。偽りを言うな」


「きっと僕らのお母さんが、目を盗んで僕らにくれたんだよ。必ずこの武器で魔女を倒しなさいってね」


 呆然と立ちすくむ魔女に大盾の先端を突き刺す。


 かわしそこなった一撃は太ももを抉った。魔女は再度消えると、また高笑いをはじめた。


「なるほど、そういうことか。完全に妾の一部となる前に抵抗したというのか。数奇な真似をしてくれる」


「貴女に取り込まれてなお反撃の意志を諦めない人々の勝利だ、魔女よ。素直に負けを受け入れるがいい」


「馬鹿を申すな、ティトルーズの末裔。妾が培ってきた永遠の命を手にするための力が、これしきの傷で果てると思ったか?」


 たしかに斬ったはずの両腕が、植物の成長を早送りしたかのように回復していく。数秒後には寸分たがわぬ完璧な身体が再生していた。


 一瞬で怪我を治すことくらい不老不死の理想の前では児戯にも等しい。


 魔女の命を一撃のもとに葬らなければ、回復されてしまう。


「貴様たちがどれほど妾を傷つけようとも決して勝つことはない。何度切り刻まれようとも、火炙りにされようとも、妾は不死のままだ」


「それはどうでしょう」


 不意打ちのように雷が魔女を直撃した。魔法の使用者であるウルフィアスは荒い呼吸をしながら、魔法をまとった剣を抜く。


「貴様の魔法は奪いとったはずだ!」


 見下した口調で魔女が詰問する。


「妾が貸し与えた魔法のおかげでずいぶんといい思いをしただろう。迷宮の魔物など、その力があれば雑魚だ」


「ええ、感謝していますよ。おかげで私が魔法を修得することができた。貴女のものを手本にして」


「自力で覚えたというのか。才能なき分際で」


「得手不得手はあろうとも、私が鍛錬を怠ったことは一日たりともありません」


 雷撃の兆候をのこす剣撃が空を切る。


 先ほどの影響で、瞬間移動は使えなくなっている。それでも人間をはるかに凌駕したスピードで追いすがった。


 視認するのが難しいほどの閃光が幾筋も流れる。


 そのたびに魔女は回避し、黄金の部屋のどこかに現れる。まるで追いかけっこのような戦闘をヴァルトの双眸はじっと観察していた。


 いくら魔女とはいえ元は人間だ。出現パターンには偏りが出る。サンプルが増えれば増えるほど予想が当たる確率は増していく。


 右。左。左。


 頭のなかで分布図を描く。魔女は常にウルフィアスの背後を取ろうとしている。超人的な反応速度がなければとっくに背中から魔法を浴びせられていてもおかしくない。


「みんな、よく聞いて――」


 めまぐるしく交錯する魔法の残影を追いかけながらヴァルトは呼びかけた。


 だいたいの傾向はつかめた。あとは度胸と運に任せるしかない。


「おれが合図したら一斉に攻撃して欲しいんだ。魔女の出てくる場所はわかってる」


「任せてよ。次で絶対に決めるから」


 ドニは力強くうなずいた。


 不死身に近い再生力があっても、回復する前に命を絶ってしまえば無意味だろう。ウルフィアスが懸命に注意をひきつけている間に準備を整える。


 ムダラの冒険者から恐れられる赤い悪魔は魔女を相手に互角の戦いを演じている。


 反撃の隙を与えず、一方的なまでの連撃で押し切ろうとするスタイルだ。対する魔女は瞬間移動をくり返すばかりで余裕がなさそうに見える。


 しかし――ヴァルトの鋭い観察眼はその裏に隠された真実を見抜いていた。


「ウルフィアス隊長はそう長くもたない。次の一撃で決めないと……」


 魔女が契約と称して魔法を奪っていったときのダメージが大きい。人類トップクラスの能力がなんとか戦況を五分にまで持ち込んでいるものの、体力の消費はかなり激しいようだった。


 すこしずつ息が乱れて、剣筋が鈍っていく。


 疲れを知らない魔女にしてみれば安全に攻撃をかわして時間を使っていくのが得策だろう。逃げていれば相手は自然と力を失っていく。迷宮の主らしい、待つことを苦としない作戦だった。


 一見すると規則性のないように思える記憶も、回数を重ねると徐々に見えてくる。


 ヴァルトはウルフィアスがちらりと視線をよこしたのを見逃さなかった。お互いの連携がうまくいかなければ、必殺の一撃は成功しない。


 呼吸を静かに整え、魔女とウルフィアスの動きを注視する。


 カリアと訓練を積んでわかったことがある。どんな人間にも癖はある。魔女は安全圏を選ぼうとするがあまり、逃げる範囲が限定されていた。


 ウルフィアスがボードゲームの駒を追い詰めていくように、徐々に魔女と自分の位置を調整していく。


 気取られないように、しかし確実に。


 チャンスは驚くほどあっけなく訪れた。魔女が攻撃を受ける直前に叫ぶ。


「いまだ!」


 号令とともにジョスランとドニが予め決めていた地点へ殺到する。


 目論見通り魔女はそこに現れた。振り下ろされつつある攻撃をかわす手段はない。


 勝った、と思った。


 魔女の黒い衣服を深々と突き破った大剣と大盾は、黒い血にまみれている。致命傷を与えたはずだった。


「くく……あはは!」


「ジョスラン! ドニ!」


 シラルの悲鳴にも似た叫びは、果たして届いただろうか。


 魔女の黒々としたするどい爪が二人の胸元に突き刺さっていた。どちらが致命傷となったのか、はっきりとわかった。


「妾に二度も傷を負わせた腕は認めよう。子どもにしてはよくやった。だが――」ゆっくりと身体から武器を引きぬき、動かなくなった二人の上に放り投げる。「人を殺すことに躊躇いがあった。魔物は殺せても、生身の人間は殺せなかったか」


「お前は……お前はどこまでっ!」


「哀れな国王の身代わりよ。すぐに姉のあとを追わせてやろう」


 怒りの感情は判断力を鈍らせる。


 シラルが気付いた時には魔女の指先から放たれたひとすじの光が眉間を刺し貫いていた。


「あ……」


 言葉にならない声を発して倒れこむ。


 残されたのは二人。ヴァルトは革袋に詰めこまれていた魔鉱石のありったけを銃に装填し、銃口を向けた。


「奇妙な武器よ。妾が人を魔鉱石に錬成し、お前はそれを弾丸として妾に撃とうとする。さながら死者の怨念のようだな」


「ヴァルト、私が隙を作る。今度こそ確実に仕留めろ」


 満身創痍で立っているのも辛いはずなのにウルフィアスは風のように魔女に肉薄した。


 しかし先ほどよりも剣技に冴えがない。魔女は悠々と連撃をかわし、ドニとジョスランを葬ったその爪でウルフィアスのわき腹を抉った。


 その瞬間ウルフィアスは剣を捨て、両手で魔女の腕をつかんだ。


 口元からは激しく吐血している。もはや戦闘を放棄したようにも見えるが、彼の瞳は強い決意をもって語りかけていた。


「私ごと撃ち抜け! ためらうな!」


 怒号に後押しされるように引き金を絞る。


 スケルトンの落とした赤魔鉱石を吸収した魔道銃の反動で、後ろにふっ飛ばされる。壁に打ち付けられた衝撃のために呼吸ができない。


 ヴァルトがもうろうとする意識のなか顔を上げると、そこには黒い影が立っていた。


「犠牲は美しいものだ。お前たちは全人類のために犠牲になった。なにも成し遂げられはしなかったが、せめて妾の記憶にとどめおこう」


 魔女は死んでいなかった。威力が足らなかったのか、あるいはウルフィアスの身を呈した行動が振り払われたのか、今となっては知る由もない。


 視界が暗転する。黒い魔法に飲み込まれ、ヴァルトの意識は完全に途絶えた。





 温かい感覚に包まれている。


 ひどく懐かしい。記憶にはないが、身体が覚えている。あらゆる外敵の心配をする必要のない、安全な場所。ありったけの愛を注いでくれる人に抱かれているのだ。


 頭上から優しい声が聞こえる。


 まどろみながら耳を傾けると、それは村に伝わる子守唄だった。


 幼いころに父親がよく歌ってくれた。無骨で低音だった旋律がいまは柔らかく、心地良い。


「……ヴァルト」


 名前を呼ばれている。女性の声だ。


「ヴァルト」


 子守唄はやみ、自分のことを呼ぶ声だけがする。


 半分だけ覚醒していた意識で、どうにかまぶたを持ち上げる。いつまでもまどろみに浸っていたかった。


 ぼんやりとした輪郭が徐々に明瞭になっていく。


 ヴァルトを胸に抱く女性はどこか自分と似ていた。聡明そうな瞳に、黒く長い髪。鼻の形と顔つきは違う。これは父親から譲り受けたものだった。


「母さん?」


 女性が母親だと悟った直後ヴァルトは本来の自分を取り戻した。


 彼女の腕にすっぽりと収まる赤ん坊ではなく、ムダラの迷宮に挑む少年としての自分を。


「大きくなったわね。最後に見たときはまだ赤ちゃんだったから」


「本当に母さんなの?」


「お母さんのこと忘れてしまったのかしら。無理もないわね。でも、わたしはヴァルトのことをよく覚えてる。忘れるはずもない」


「けど、母さんは……」


 魔女の生贄になって死んだはずだ。


 口には出さない感情を、女性はすぐに察した。


「そうよ。わたしの肉体は迷宮に捧げられてしまった。あなたが生まれてすぐのことよ」


「それじゃあ、ここはもしかして死後の世界なの?」


 混乱していた記憶が次々に呼び覚まされていく。


 圧倒的なまでの魔女の力に、為す術なく負けてしまったこと。倒れていった仲間たちのこと。


 最期の瞬間はなにが起こったのかよくわからなかった。おそらく魔法で命を奪われたのだろう。痛みこそなかったが、二度とは経験したくない。


「半分正解で、半分ハズレというところね」


「どういうこと?」


「少しは自分の頭で考えてみなさい。魔女に闘いを挑むくらい立派な大人になったんだから」


 母親はヴァルトの髪をなでながら諭した。


 触れられた場所がじんわりと熱を持ったように温かい。少ししてヴァルトはひとつの結論を導き出した。


「ここは――迷宮のなかだね」


「大正解。迷宮で死んだ人は肉体と魂を吸収され、時間をかけて魔女の一部になるの。それこそ何十年という長い年月をかけて」


「だから母さんと会えたんだね。魔道銃をくれたもの母さんがやったことだ」


「魔女は冬眠した野獣のような存在よ。数多の人間を吸収するために、普段は最深部で眠っているの。だからあなたたちを少し手助けするくらいなら、なんとか目をかいくぐることができたわ」


「ドニとジョスランのお母さんもいるんだね」


「ええ、ふたりとも自分の息子と話しているわ。本当は村人みんながあなたたちと話したがったのだけど、他の準備に回ってもらったのよ」


「準備って、なにを? おれたちもう死んじゃったんだよ」


 命を大切にしろ、と迷宮に関わる大人たちからうるさいほど忠告されてきた。


 死んでしまえば人間は無力だ。喋りかけることも、指を動かすことも、魔女を倒すこともかなわない。


 母親は耳にかかった髪をかきあげて、言った。


「いい? ヴァルト、よく聞いて。あなたはたしかに一度迷宮で命を落としたわ。けれども今ならまだ蘇生できる。あなたたちを生きかえらせることができるの」


「生き返る……」


「魔女を倒す最後のチャンスよ。これから数時間もしないうちにムダラは迷宮に飲み込まれる。その前に倒すのよ」


「そんなことができるの?」


 死者蘇生の奇跡は世界中で報告されていると書物にあったが、どれもこれも信ぴょう性の低い記述ばかりであてにならなかった。


 もし本当に死人を復活させることができるのだとしたら大発見だ。


「一度きりよ。次の機会を逃したら、あとはないわ」


「ジョスランやドニも生き返るんだよね」


「もちろん。みんなで力を合わせて倒すのよ」


「……ねえ母さん。シラルはどうなるのかな」


 うつむき気味に尋ねる。


「あの娘のことが心配なのね。大丈夫よ、彼女にも手を差し伸べてくれる人がいるわ」


「おれたちはシラルを助けたくてここまで来たんだ。絶対に魔女をやっつけてみせるよ」


「――本当に大人になったわね。正直あなたがここへ来たときは追い返そうと思った。命をかけて迷宮を探索するなんて、無意味なことをやめさせたかったから」


「もしかして巨大ショグは」


 母親は小さく頷いた。そして早口で弁明する。


「わたしたちの想いに反応して魔物が生まれることがある。時として以上個体を作りだしてしまうのよ」


「ギュドンの群れもそうだったの」


「避けようのないことだったのよ。魔女の目覚めが近づいていたし、あまりに多くの血縁が迷宮にいたから。それに迷宮に女の子が入るなんて前代未聞だもの。たくさんの原因があったのよ」


 迷宮の生贄にされた人々の親族は迷宮に立ち入らないよう制限される。


 女性もまた魔女の機嫌を損ねることになるため、迷宮には入れない。シラルは男装していたため知らないうちにルールを破っていた。


「ウルフィアス隊長は助けられるのかな」


「彼も限りなく魔女に近い存在だから、本人にその気があれば生き返ることもできるはずよ」


 この世界で唯一魔女とのコンタクトを許された存在。


 それがウルフィアスだ。長らく魔法を預かっていたこともあり、彼の魂は魔女に似たものになっているという。


「きっと生きる道を選ぶと思うわ。誰よりも迷宮と魔女を憎んでいたのはあの人だもの」


「母さんたちは?」


 ヴァルトはためらいがちに訊ねた。


 村を出てムダラに来たのは、行方不明となった母親の消息をたどり再び家族そろって暮らすという目的を叶えるためだ。故郷には父親がひとりきりで帰りを待っている。


 母親は無言のままヴァルトを強く抱きしめた。


 答えは口にせずとも伝わってきた。不意に目頭が熱くなって、涙がこぼれた。


「泣いちゃダメよ、男の子でしょ」


「でも……父さんが可哀想だよ」


「わたしもできることならもう一度会いたい。昔みたいに三人で暮らしたいわ。けど、もうできないのよ」


「約束したんだ。絶対に母さんを連れて帰るって」


「村についたらお父さんに伝えてちょうだい。わたしは今もあなたのことを愛していますと。もちろんヴァルトのことも――」


「嫌だよ。母さんも一緒に行こうよ」


「わたしはあまりに長く迷宮に居すぎたわ。もうあと数年もすれば魂もすっかり消えてしまう。その前にあなたに会えてよかった」


「母さん……」


「お父さんは大丈夫。ヴァルトがいるんだもの。魔女がいなくなれば村を出て、どこか新しい街で暮らすこともできる。あなたたちは新しい国を作るんでしょ、だったらあの娘を支えてあげなくちゃ」


 息苦しいほどに抱きしめられていた感触が離れていく。


 ヴァルトは袖で顔をゴシゴシと拭った。泣き顔は見られたくない。


「迷宮で息絶えた肉体は魔鉱石になり、魂はやがて魔女のエネルギーになる。迷宮のなかにはたくさんの魂と肉体が残っているわ。みんなが協力してくれる。心配しないで」


「わかったよ」


 母親は優しく微笑んだ。ヴァルトはなぜ今まで旅を続けてこられたのかわかった気がした。彼女ともう一度会うための旅だったのだ。きっと間違いなく。


「じゃあね、母さん」


「元気でね」


 母親の姿が消えていく。ヴァルトは目を閉じた。


 迷宮から吐き出される。やるべきことはすべて理解していた。


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