第2話 ハーモニカの女子高生
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エレベーターのボタンは、7つある。
1、2、3、4、5、6、7。ちゃんと七つ並んでいる。まあ当たり前だが押せば光る。ただ、4階だけは光っているのをみたことがなかったし、押しても光らなかった。
このビルに保育園ができてからずっと、4のところで扉が開いたのを見た人はいない。誰かがふざけて連打しても、扉はいつも3の次に5へ行く。
ナナ先生に言わせると「あのボタン壊れてるよね、直さないのかな」ということだった。
ユウはその日、非常階段を使っていた。
エレベーターの前に「点検中」の貼り紙があったわけでもない。ただ、なんとなく、階段のほうを選んだ。
お母さんの迎えを待つより先に、少し体を動かしたい気分だった。
暴力的な夕日が差し込み鮮やかな光が辺りを照らす中、逃げるようにダークブルーの影に飛び込んだ。
格子状に繰り返される明滅にテンションが上がってくる頃に4階の踊り場が見えてきた時、ドアの向こうから、細い音が聞こえた。
楽器の音だった。歌ではない。
メロディというより、細い息の音に近い、しゃくりあげるような音。長く伸びて、途中でふるえて、また伸びる。
誰かの声のような。切ない心の叫びのような。
ユウは解けかけた靴紐に気づいて立ち止まった。ドアには何も書いていない。他の階のドアには「テナント募集中」とか「〇〇株式会社」とか貼ってあるのに、4階のドアだけ、何もない。
音は、しばらくしてやんだ。
ユウは黒のスニーカーの、土汚れで色の変わった靴紐を解いてから結び直したがなんか気になり、何回か結び直した。
そしてそのまま後ろも振り向かず階段を上り、保育園のある7階へ向かった。
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その日から、ユウは前より階段を使うようになった。
毎回、何か聞こえるわけではない。聞こえない日のほうが多かった。それでも、4階の踊り場を通るとき、ユウは少しだけ歩く速さを落とすようになっていた。
はるとに話そうかと思ったが、やめた。都市伝説にされて終わる気がした。「駅の地下」や「陸橋の上」と同じ棚に置かれるのは、なんとなく違う気がする。
一週間くらいたった日、保育園からの帰り、エレベーターが混んでいた。ベビーカーの親子と、台車を押した配達の人と、ユウ。三人と一台でちょうど満員だった。
7階から乗って、扉が閉まる。
6のランプがついて、消える。5、消える。
次に光ったのは、4だった。
ポン、と音がして、扉が開いた。
誰も何も言わなかった。配達の人は台車の位置を直しただけだったし、ベビーカーの親は子どもをあやすのに忙しそうだった。
乗ってきたのは、紺色のブレザーの制服を着た女子高生だった。片方の耳にだけ白いイヤホンをさして、スマホの画面を見たまま、狭い隙間に体を入れてくる。肩にかけた黒いバッグの横に、細長いケースがぶら下がっていた。
扉が閉まる。
配達の人が3階で降りた。ベビーカーの親子は2階で降りた。
1階に着く直前、エレベーターにはユウと女子高生の二人だけになっていた。
「あの」
ユウが言うと、女子高生はスマホから顔を上げ、こちらをみた。
「4階って、何があるの?」
その手が、スマホの上で止まった。彼女はそのまま、天井のランプの表示を見た。もう2の数字が光っていた。
「……さあ?」
深刻な顔ではなかった。困っている顔でもなかった。ただ、本当に知らないというふうだった。イヤホンからかすかに音楽が漏れていて、彼女はまたスマホに視線を戻した。
1階に着いた。扉が開く。
女子高生が先に降りた。バッグの横で揺れていた細長いケースが、ドアの端に軽く当たって、はずみで留め具が開いた。
中から、何かが落ちた。
カラン、と乾いた音。エレベーターホールの床の上、自動ドアの手前あたりに転がったのは、銀色のハーモニカだった。ケースについていたはずの留め具が壊れかけていたらしい。
女子高生は気づかず、そのまま自動ドアを抜けて外へ出て行ってしまう。
「あの、忘れ物」
ユウが拾って追いかけたときには、もう姿はなかった。
手の中のハーモニカは、細長くて、普段音楽の授業で使うものより一回り大きい。裏側に、油性ペンで小さく、丸い落書きのようなマークが書いてある。
ユウはとっさにエレベーターへ戻って、パネルの「4」を押してみる。
光らない。
もう一度押す。
光らない。
ユウはあたりを見まわしそのまま家へと向かった。
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「それ、なに」
いつもの保育園のいつもの放課後。
窓ぎわで、ミオがハーモニカを指差した。
「拾いもの」
「ふうん」
ミオはそれ以上聞かず、絵本棚のほうへ行った。4階のことも、女子高生のことも話さなかった。ユウはそれをランドセルのポケットに入れたまま、一週間、持ち歩くことになった。
エレベーターでは、もう彼女には会わなかった。
4階のボタンを何度か押してみたが、そのたびに光らないまま消えた。階段で通っても、音は聞こえなくなっていた。
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見つけたのは、思いがけない場所だった。
六つ又陸橋の手前、いつも通るコンビニ。レジに入っていたのは、あの女子高生だった。制服ではなく、緑と白のエプロンをつけて、レジの向こうでお客さんの買った商品を袋に入れている。
ユウはしばらく、雑誌の棚のあたりで固まっていた。声をかけるタイミングをはかっているうちに、他の客が会計を終えて出ていって、店内には二人だけになった。
ポケットからハーモニカを出して、レジに置いた。
「これ、落としたと思うんですけど」
彼女は手を止めて、それを見た。バーコードでも読むみたいに、しばらくじっと見ていた。
「……ああ。ありがと」
ユウはその時初めて気づいた。
細かい傷が入っているシルバーのハーモニカには、よく見ると舌を出して笑う子どもの顔が描かれていた。
彼女はハーモニカを受け取って、エプロンのポケットに入れた。特別なものを扱うふうではなかった。忘れ物の傘が戻ってきたときと同じくらいの、軽い「ありがと」だった。
「エレベーターの」
ユウが言いかけると、彼女は一瞬だけ、スキャナーを持つ手を止めてこちらをみた。
覚えていないふうではなかった。むしろ、覚えているのに、そこで止めた感じがした。レジの機械が「ピッ」と鳴って、彼女は次のお客さんのほうを見た。
「ありがとうございましたー」
もう、ユウのほうを見ていなかった。
ユウは何も聞かないまま、コンビニを出た。
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家に帰ると、お母さんはもう台所にいた。珍しく早い日だった。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、保育園寄らなかったね」
「うん、ちょっと寄り道した」
「なに、寄り道って」
「別に」
お母さんは笑って、それ以上聞かなかった。カレーのにおいがしていた。
ユウはテーブルにつきながら、ポケットに手を入れて、もうそこにないハーモニカの感触を探した。何もなかった。一週間、持ち歩いていた分だけ、ポケットの形が少し変わっているような気がした。
「今日さ」
「うん?」
「4階ってなにがあるのかな?」
「4階? どこの」
「なんでもない」
お母さんは首をかしげたが、鍋のほうに向き直った。ユウは黙って、カレーの匂いを吸い込んだ。
窓の外、六つ又陸橋の上を、車の光が流れていく。幾重にも重なった筋が、流星群のように暗闇へ駆けていき、やがてビルのネオンと混ざりあっていった。
その時、ふと、陸橋のほうから一瞬だけあの音が聞こえたような気がした。
まるで光が夜空に溶けていくかのように。
エレベーターの4のボタンを、明日もまた押してみようかな。
ユウは「いただきます」と言った。




