第1話 六つ又の女の子
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保育園のドアは、押すと少しだけ引っかかる。
雑踏の中の雑居ビルの7階、狭くて暗いエレベーターを降りてすぐ右。ユウはランドセルを背負ったまま、いつもの力加減でそのドアを押した。中から、積み木の崩れる音に園児たちの泣き声と、それをなだめる保育士さんたちの声が一度に聞こえてくる。
「あ、ユウくん」
ファンキーなナナ先生が、片腕に子どもを抱え、もう片方の手にタオルを持ったまま振り返った。金髪でピアスのあいたあんまり保育園にいなそうな先生だ。キュートな八重歯がチャームポイントだそうだ。
「お母さん、今日ちょっと遅くなるって」
「うん」
「奥で待ってる?」
「うん」
ユウは靴を脱いで、絵本棚の横の隙間にランドセルを下ろした。大人がひとり座るとちょうど埋まるくらいの幅だ。
ここにくると落ち着く。園児の走りまわるはちゃめちゃコースからは外れていて、部屋の奥で子どもを寝かしつけている母の背中が見える。ここが自分の席だと誰かに決められたわけではない。ただ、いつのまにかそうなっていた。
その日、窓ぎわに、知らない女の子がいた。
黄色い帽子をかぶって、小さな椅子にきちんと座り膝の上に両手をそろえている。
この保育園の子にしては少し大きい。五歳くらいに見えた。ここにいるのは、歩き始めたばかりの子や、まだ言葉がぜんぶ出ない子ばかりだ。
女の子はユウのほうを見なかった。窓の外を見ていた。窓からは、すぐそこの隣のビルの壁と、その隙間の細い空のカケラが見えるだけだ。
「あの子、誰」
通りかかったナナ先生に、小声で聞いた。ナナ先生は女の子のほうをちらっと見て、「ああ」と言った。
「お迎え待ちだって」
それだけ言って、泣き声のほうへ行ってしまった。誰の子で、いつから来ているのかは聞けなかった。ナナ先生も、あまり気にしていないように見えた。
しばらくすると、ミオが来た。
三つ編みを綺麗に結われた髪の毛が馬のしっぽのように揺れる。今年三歳になったばかりの彼女は何も言わずにユウの隣に座り、絵本棚から一冊抜いて開き、読まずにページだけめくった。ユウも何も言わない。それでいいらしかった。
ミオは保育士の誰よりも、なぜかユウのそばにいたがる。母に言わせると「先生じゃないからでしょ」ということだったが本当はどうかわからない。
ミオは、窓ぎわの女の子のほうを一度も見なかった。
「ユウ」
おかあさんが、小声で子供達に気を使わせないように寝かしつけを終えて近づいてきた。「先に帰ってていい? 鍵、持ってるよね」
「うん」
「ご飯、なんか買って帰るから」
「別にいいよ」
言ってから、何が「いい」のか自分でもよくわからなかった。おかあさんは少し笑って、ユウの頭に手を置いて、すぐに泣き声のほうへ戻っていった。
靴を履きながら、もう一度窓ぎわを見た。女の子はまだ、同じ姿勢で外を見ていた。
ドアを押して出るときも、少しだけ引っかかった。
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ビルの外に出ると、池袋の街並みはもう夕方のオレンジ色に染まっている。車のライトと街灯の灯りが入り混じり、空の青とオレンジとピンクの入り混じったよくわからないこの時間がいちばんのお気に入りだった。
駅のほうへは歩かない。ユウの帰り道は、ビルの前の通りを北へ、明治通りに出て、そのままひたすら北へ行くだけだ。
駅前の人の多さは角を二つも曲がるともうまばらになる。だんだんビルの壁が低くなり、コンビニの明かりの間隔が広くなり、自転車が増える。
六つ又陸橋が見えてくると、家はもうすぐだ。
陸橋の下で、道が六本に分かれている。その名前のとおりだ。ユウは陸橋の下の横断歩道を渡って、上池袋の側へ抜ける。信号の待ち時間は長い。ここでいつも、なんとなく立ち止まって空を見あげる。
その日、信号の向こうに黄色い帽子があった。
さっきの女の子だった。横断歩道の端に、膝の上に手をそろえていたのと同じきちんとした立ち方で立っている。信号が青になると、女の子はゆっくり渡ってきて、ユウのすぐ横を通り過ぎ、こちら側で立ち止まった。
それから、少しのあいだ、その子はあたりを見ていた。
迷子の顔ではなかった。泣きそうな顔でもなかった。ただ、見ていた。そして次に信号が青になると、また向こう側へ渡っていった。
ユウはそれを、信号を一回分ぶん見送ってから、ようやく自分が渡るのを忘れていたことに気づいた。
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翌日もあの子はそこにいた。
保育園には寄らなかった日だ。それなのに、六つ又の横断歩道に着くと、黄色い帽子はちょうど渡り終えて、こちら側であたりを見ていた。辺りは夕暮れになりかかっていた。
その次の日もいた。
すごい土砂降りの雨の日だった。暗い雨雲が空を敷き詰めて息苦しい空気の中、ユウは傘をさして、いつもより急ぎ足で陸橋の下まで来た。
女の子は透明なビニール傘をさして、同じ場所にいる。傘の下の黄色い帽子はいろんな光が混じって不思議な色になっていた。
多分はるとなら、もう幽霊だと言い切っているところだと思った。学校ではるとが話す都市伝説は、だいたい「駅の地下」か「陸橋の上」で起きることになっている。ユウはそれを面白がって聞くけれど、信じてはいない。幽霊は雨の日にビニール傘をさしたりしないと思う。
それに、五歳くらいの子が夕方にひとりで陸橋の下にいるのは、幽霊かどうかより先に、ふつうに危ない。それなのに、通り過ぎる大人は誰も女の子を目に留めていなかった。
五日目、ユウは信号が青になる前に、横断歩道の端まで歩いていった。
「何してるの」
女の子はユウのほうを見て、少しだけ首をかしげた。怖がってはいない。驚いてもいない。
「待ち合わせ」
「誰と」
「ママ」
「何時待ち合わせ?」
「五時」
ユウは通りの向こうの公園にある大きな時計を見上げた。薄暗い街中にぼんやり浮かび上がる時計では、かすかに時間を確認することができた。
「もう五時二十分だよ。遅刻じゃん」
「そう?」
その子は眉の上で切り揃えた前髪を押さえて、首を傾げながら不思議そうに首を傾ける。
「いつまで待ってるの?」
「ずっとだよ」
女の子は、なんでそんなことが気になるの?という感じでそう言った。信号が青になった。
彼女はこちらをちらっとみてから、横断歩道を渡っていった。
ユウは渡らなかった。
ずっと、というのがどのくらいなのかは、聞かなかった。保育園でお迎えを待っている子は、たいてい十分でも「ずっと」と言う。
でも、雨の日も、保育園に寄らなかった日も、同じ場所で、同じ時間に。なんとなくだけど、聞いていいことと、聞かないほうがいいことの区別はユウにはまだ完全にはつかないけれど、少なくともこれは聞かないほうの気がした。
次の信号で、ユウは自分の帰り道を渡った。
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何日かして、保育園に寄った日。
窓ぎわに女の子はいなかった。ナナ先生に聞こうかと思って、やめた。
部屋の壁に、園児の絵が並んでいた。ナナ先生が、散歩で行った場所の絵を描かせたらしい。ぐしゃぐしゃの緑が公園で、四角いのがサンシャインで、丸が並んでいるのは、たぶん駅前の人だ。
その中に、道の絵があった。
クレヨンの太い線が、真ん中の一点から放射状に伸びている。上には橋らしい横線。六つ又だ、とすぐわかった。ユウは毎日そこを通る。
そこに道は七本あった。
絵の下の名前は、ミオ。ミオが描いた絵のようだ。
ユウは隣で積み木を積んでいるミオに、絵を指して聞いた。
「これ、あの交差点?」
ミオが指したのは、横断歩道の位置だった。ユウが毎日、信号を待つ場所。
黄色い帽子が立っている場所。
「うん」
ミオはそれで話は終わったという顔で、積み木のほうへ戻っていった。
ユウはもう一度、絵を見た。七本目の線のそばに、黄色いクレヨンの、小さな点があった。
ナナ先生が、壁の別の絵を手に取りかけて、「あれ」と言って小首を傾げた。何か言いかけたところで、奥から泣き声が上がって、そのまま向こうに行ってしまった。手に取りかけた絵は、元の位置に戻された。ユウはそれを見に行かなかった。
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その日の夕方も、女の子はそこにいた。
ただ、横断歩道の端ではなかった。少し引っこんだところ、陸橋の柱のそばに立って、道路のほうを向いている。
信号が青になっても渡らない。
女の子は、誰かと話しているように見えた。上を向いている。小さくうなずく。何か言う。相手の言ったことに笑う。声はほとんど聞こえない。ユウのいる位置からは、女の子の正面には、誰もいなかった。柱と、ガードレールと、その向こうの車の流れがあるだけだった。
ユウは動かなかった。信号が一回、赤に戻った。
女の子はユウに気づいて、帽子を押さえて、こちらへ歩いてきた。いつもより、少しだけ足が軽そうに見えた。
「今日はもう帰るね」
それだけ言って、女の子は横断歩道の端まで戻り、右手だけ、すこし上にあげた。
信号が青に変わった。
「痛っ!」
その瞬間ユウの目にゴミが入りかすみ、あたりの景色がぼやけて重なって見えた。
女の子は道端の細い路地で手を伸ばし、何かを掴んでいるように見えた。
手を引いているほうは大人の女性だろうか。その女の人の後ろ姿が歩いていくところだった。ゆっくり歩いていた。女の子が何か言って、女の人が少し身をかがめた。
信号が点滅を始めた。
気がつくと二人ともそこにはいなかった。六本の道が、いつもどおりそこにあって、車が普通に走っていた。
気がつくと口の中がカラカラに乾いていた。
ユウはポケットのなかをさぐり飴玉を取り出すと口の中に放り込み、次の青信号で、家へと向かう横断歩道を渡った。
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家の鍵を開けて、電気をつけて、ランドセルを棚の上に放り投げて、手を洗った。
お母さんが帰ってきたのは、七時を少し過ぎたころだった。コンビニの袋を二つ、腕にかけている。
「ごめん、遅くなった。お腹すいた?」
「まあまあ」
「まあまあね」
お母さんはカップの味噌汁にお湯を注ぎ、袋から出した惣菜をそのまま並べた。
二人でテーブルにつく。テレビはつけない。母が今日の話を色々話しているが、うまく頭に入ってこない。「今日ミオちゃんがさ、ユウのこと探してたよ。どっか行っちゃうからさ。帰ってこないと思っちゃったみたい。」と笑いながら話しかけられたが話はそれきりで、しばらく食べる音だけになった。
「ねえ」
ユウは、箸を止めずに言った。
「待ち合わせって、何分まで待つ?」
「なに、急に」
「別に」
お母さんは少し考えて、味噌汁を一口飲んだ。
「相手によるかな」
「三十分?」
「お母さんなら十分」
「短っ」
「寒かったら五分」
ユウが笑って、お母さんも笑った。
「お迎えは?」
お母さんは、今度は考えなかった。
「お迎えは、何分でも待つよ」
ユウは「ふうん」と言った。黄色い帽子のことを話そうかと思った。窓ぎわにいた、とか、六つ又陸橋の、とか。口を開きかけて、ごはんを食べた。
窓の外に、いつもの池袋がある。陸橋の上を車の光が流れていく。すっかり辺りは夜になり、車のネオンとオフィスのビル灯りが街中を照らしだし、駅の上空だけ他とは別世界のような不思議な空間を作り出していた。
ユウは味噌汁を飲みほして、「ごちそうさま」と言った。




