動機の発生 ~意味と欲求~
第二章の考察からは、道徳的な人が増えれば社会の価値が高まることはわかったが、現実世界には道徳的な人も、そうでない人もいる。この違いはどこからやってくるのだろうか。
なるべく多くの人が道徳的になるにはどうすればいいのかを考えるためには、どのような条件が満たされれば動機が生じるのかについての考察が欠かせない。
考えてみれば当たり前のことだが、人は意味のないことをしたいとは思わない。なにかを自発的におこなうときは必ず、その行動になにかしらの意味があると思っていることは間違いない。
もしかするとあてもなく散歩をするときなど、人は意味もなく行為することがありうると思っている人もいるかもしれない。しかしなんの意味もなくただ歩いているように見えるときでも、実際は気分転換だったり、運動不足の解消だったり、近隣の探索(手段となりうるものの事前把握)というような、なにかしらの目的は必ずあるはずだ。
人が「特に意味はないけど~をした」と話すときの真意は、自分の行為がどのような意味をもっているかを説明するのが面倒くさい、わざわざ説明するほどの意味を感じない、あるいは自分だけがその意味を知っていればいい、といったようなところだろう。仮にそれが無意識になされたことだったとしても、やはり意味はあるはずだ。特に意識することなく呼吸していることがあるからといって、それが生存に役立つからなされていることを、否定する人はいないだろう。
反対に意味があると思っていることを、したいと思わないということも考えづらい。たしかにたとえばダイエットをすることに意味はあると思っているけれど、実際にしようとしない人というのは考えられる。だがそれはダイエットをすることに、ほかにやりたいことをしないほどの意味、運動や食事制限によって生じる苦しさを避ける意味以上の意味を感じない、つまりほかの意味があることと比較し、ダイエットをする価値が劣っていると判断されたからにすぎない。
意味の度合い、つまり価値は比較可能なので、ほかに意味があることよりは意味がないと判断されるなら、意味があることをしないということはありうる。しかしほかになにも犠牲になるような価値がないにもかかわらず、意味があることをしないということは考えられない。
以上は「意味がある」という判断こそが動機の源泉になると考える、十分な理由となる。
意味判断は、手段を目的に対して意味のあるものと判断し、手段を確定させる。しかし手段は、目的が欠如していれば意味をもたず、よってそれだけでは人が行動に移ることはない。
つまり手段を確定させる意味判断が動機の源泉になるとはいっても、手段だけでは意味判断ができない。意味判断をするには目的を提示するもの、すなわち欲求が必要だ。
主観的目的に対して、意味判断が繰り返されることで、経路が構成される。
つまりまずは主観的目的に対して、手段Aが役に立つとして意味判断がおこなわれる。次に手段Aを目的Aに変換して、手段Bが目的Aに結びつけられる。続いて目的Bに対して手段Cが……、というように繰り返されることになる。
意味判断は理性の働きであり、よって意味判断を用いておこなう経路の構成も、理性によるものといえる。確定した手段はその都度目的としても扱われるので、途中途中の目的設定も理性によっておこなわれるといっていい。つまり目的は、理性によって意識される。
すると欲求も理性も、ともに目的にかかわる能力だということになる。これら欲求と理性は、どのような関係にあるのだろうか。前章でも引用したように「理性は私たちに正しい目的を教え、どのようにしてその目的を達成するかを教える。しかし、私たちがそうした目的を欲求する場合、この欲求は理性ではなく感情である」とミルが述べたとおりで、理性だけでは目的を求めることができず、実際に人が行動に移るには、感情たる欲求が必要とされる。
この点については、先に生じた欲求にもとづいて理性が目的を意識するか、理性が意識した目的にもとづいて欲求が生じるかのどちらかとなる。
前者の欲求にしたがって行動したなら欲求のままに行為したといえるし、後者の欲求にしたがうなら理性で欲求をコントロールしたといわれる。欲求のままに行動することが必ずしも悪いとは限らないが、一度理性をもって、その目的が正当なものなのかどうかを考えてみることは必要だろう。
したがって理性と欲求の関係は、図8-1のように三つのパターンに分けられる。
人の脳には、外界からの情報が、情動にかかわっているとされる扁桃体へと大脳皮質を経由しないで入るルート(無意識的に感情が生じる場合)と、大脳皮質を経由して入るルート(意識的に感情が生じる場合)があることがわかっている(*1)。このことによって、危険に対して考えるより早く反応する場合と、危険を意識的に認識してから感情を生じさせる場合の違いが生じると考えられる。
同様の機構が利用されるとするなら、欲求感情に関しても、無意識に生じる場合と、意識的(理性的)に生じさせる場合の二パターンがあると考えたとしても、そこまで虫のいい想定だというそしりを受けたりはしないだろう。
*1 箱田裕司・都築誉史・川畑秀明・荻原滋『認知心理学』有斐閣、2010年、315~317頁。
先に生じた欲求にしたがうにしても、理性を解することはできるはずだ。食欲がわいてきたが、今食事をすることには正当な意味がある(生きるために食事することは必要だし、今食事をしても誰にも迷惑はかからない)、ゆえに食事をしよう、といった形だ。先に生じた欲求の目的を、そのまま理性で認めるわけだから、「追認」と呼ぶことができる。
意味判断は、直接的には手段にかかわる。対する欲求は、直接的に目的にかかわる。そのため先に生じた欲求を意味判断によって「消失」させるには、まずは欲求によって提示された目的を、手段として認識し、その上で意味がないと判断する必要がある。手段として意味がないと判断するためには、さらに上位の目的が意識されなければならない。
反対に欲求を新たに「発生」させるときにはまず、手段として意味があると判断し、それに続けて目的として認識するという形になる。目的として意識されれば、その目的を求めるための欲求が発生する。
主観的目的だけは特殊で、あらゆる生物にはじめから与えられている目的なので、人間はつねにそのための欲求をもち、そのため手段化して欲求のコントロールをするということができない。
ちなみに快不快も意味判断と同じく手段にかかわるが、こちらは手段の候補として意識されやすくなる、つまり思いつきやすくなるというものにすぎない。そうして思いついたものを、理性による意味判断で確定することになる。
このような人間の意志決定の仕方から考えれば、意志には強いも弱いもない。
意志とはその人の行動計画でしかないのだから、ただの計画に強弱などというものはないだろうし、不測の事態が生じて計画を変更することを、計画が弱いという言い方を普通はしない。
いかなる行為も、その行為に意味があると判断するか意味がないと判断するかによって、するかしないかが決まる。したがって特定の行為をすぐに諦めるというのは、そもそもその行為にあまり価値を感じていないということでしかなく、あることを我慢しないというのも、そのことをする方が我慢することよりも価値があるのだと考えているだけにすぎない。
とはいえたしかに、環境や事情の変化に合わせてすぐに意味判断のやり直しが発生するとしたら、長期的な計画の実行は難しくなる。そのため客観的に見ると、遠い将来に得られるかもしれない利益よりも、目先の利益の方が大きな価値があるように誤認しているように見える場合も多いだろう。
ただ「意志の弱さ」という考え方には、その人にとってなにが正しいのかを他者が一方的に決め、本人にその通りに行動させようとしているという、ある意味押しつけのような側面もあるように思われる。意味判断とは他者ではなく、あくまで本人がするものだ。誤った意志に対して他者の立場でできることといえば、誤りを指摘したり、判断材料を追加で提供するぐらいしかなく、意志が弱いなどという、二重の意味(対応する現象もないし、目的に役立ちもしないという意味)で意味のない言葉で評価することではないだろう。
人が道徳的であるためには、欲求を抑え、我慢することが必要だと思われがちだ。だが欲求がなければ、人は行動することさえできない。
理性は考えたり判断することはできても、人に具体的な行動をさせることはできない。ならば欲求そのものに道徳的な問題が含まれていると考えるわけにはいかない。そうではなく理性によって欲求の生成消滅をコントロールし、あくまで手段の一つである欲求を正しく使っていくことこそが、真に道徳的に求められることだといえるだろう。
ヒュームがいうように「利益を志向する感情を制御できる情念は、まさにその感情自体が方向を変えたもの以外にない」し、「この情念は、放任するよりも抑制する方がずっとよく満たされるし、誰もが好きなように無法に振る舞ったあげく当然の帰結として孤立無援の状態に陥るよりも、社会を維持する方が、保有物の獲得という点でわれわれはずっと大きく前進できる」(*2)
正しく行動するためには我慢強さも、意志の強さもいらない。ただ正しいことには意味があり、正しくないことには意味がないということを知るだけでいい。
そうすれば目先の利益を求める欲求は消滅し、より長期的な利益をもたらしてくれるような欲求に、取って代わられることになるだろう。後者の欲求は、むしろ好ましい感情だといえる。
*2 ヒューム『人間本性論第3巻』46~47頁。




