表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第一章 目的を意味づける
13/151

社会の目的

 人間のおこなうことがすべて生きることを目的にしているなら、人間が社会をつくるのも同様に、生きるために違いない。

 ここでいう「社会」とは、あらゆる人間関係のことをいう(いわゆる社会実在論の考え方はとらない)。家族、学校や職場でかかわる人たち、友人関係といったものはもちろんだが、顔見知りでさえない人たち、たとえば飲食店でオーダーを取りに来るアルバイト店員との関係だったり、人里離れた荒野のど真ん中で、見知らぬ旅人同士がすれ違っただけであっても、そこにはすでに社会が発生している。


 そこで、社会の目的は次のように定められるだろう。


 ――社会は、社会上のリスクを減らし、生存に都合のいい安全で生きやすい環境を構築することを目的にしている。


 原始社会がなぜつくられたのかについて、思いをはせてみてほしい。

 一人だけで生きるよりも、集団をつくって生きた方がいいと判断されたからこそ、社会がつくられたに違いない。最初のうちは、集団で狩りをしたり、夜中にみんなが寝静まっている間に交代で見張りをつけたりしたのかもしれない。

 なぜそうしたかというと、食料を得る確率を高めることで飢餓に陥るリスクを軽減し、寝ている間に猛獣に襲われるといったリスクを防ごうとしたと考えられる。そうやって協力によって環境の安全性を高められるところに、本来の社会の役割があったはずだ。道徳の存在意義とは、まさにこの社会の目的を促進することにあるといっていい。


 たとえば困っている人に親切にすることは、一般的に道徳的な行為だと考えられている。

 なぜか。親切な人がいることで、その社会で暮らす人にとってなにかしらのリスクの減少を期待できるからだ。

 道ばたで急に具合が悪くなって倒れた人がいて、通りすがりの人がその人に気づくとすぐに119番をし、救急車が来るまで傍について介抱したとしよう。そのような人が存在することによって、倒れた人の立場からすると、場合によっては命を失う可能性のあったリスクを回避できたことになる。

 それに対して学校や職場でターゲットを見つけるやいなや、すぐに自分が楽しむために人をいじめるような人がいたらどうだろうか。

 いじめられていると学校や職場に行きづらくなって、生活の手段が制限されることになるかもしれない。行為がエスカレートすると、被害者はそれを苦にしてみずから命を絶つ可能性もある。いじめは社会上のリスクを増やし、世の中を生きづらくさせる。

 以上のように、社会の目的を促進する行為を道徳的といい、社会の目的に反する行為は反道徳的ということができる。


 この第二原理のポイントは、「リスク」「生きやすい」「環境」の三点にある。


 まず「リスク」という言葉は、被害が確実なものではなくとも、被害を受ける可能性があるというだけで気にしなくてはならないことを意味する。

実際に誰かに親切を施すような機会がなかったとしても、結果的に誰かをいじめるようなことがなかったとしても、誰かに親切を施す可能性がある、誰かをいじめる可能性があるというだけで、社会の目的を促進したり、その目的に逆行したりする(利益不利益は、必ずしも現実化した結果にのみ依存するものではなく、将来的な確率で決まるということを思いだそう)。これによって、その人の性格に価値を見いだすことができるようになる。

 さらに、将来的にそのリスクに影響される確率がゼロではないという形で、道徳判断に説得力をもたせることもできる。

 たとえば身体障害者のために社会をバリアフリー化するのは、一見すると障害者という一部の人にしか利益をもたらさないように思える。しかし誰にとっても将来的に事故に遭うなどして障害を負う確率がゼロではない以上、いざ障害を負ったときのためにバリアフリー化を進めておくことは、あらゆる人にとってのリスクの減少につながり、すべての人にとっての利益になると考えることができる。


 それでは自分がその立場になる可能性がないのであれば、他者の困難に無関心でいいのだろうか。

 いや、そうとも言い切れない。仮に今の自分が、自分に関わりのない困難を感じている他者を無視し、なおかつ自分のいる社会が、自分に得がないからという理由で他者の困難を解消する必要がないという態度を当たり前のものとして許容しているとしよう。

 すると将来的に自分がなにかしらの困難を感じることがあったとしても、その解決がほかの人たちの直接的な利益にならない場合には、いくら社会にこの困難を解消してほしいと要求したところで、社会は一切聞く耳を持ってはくれないだろう。その困難を解消しても利益を得られない人にそのような要求をすることを、自分が不利益を被りそうなときにだけ正当化できる理由がないからだ(他者との関係において正当化される条件、つまり公平性については次章で触れる)。

 道徳をリスクに着目することの利点として、このように一見すると利益がないように思える利他的行為でも、長期的な観点でみずからの利益と関係づけられることがある。

 たまたま今はうまくいっていても、人生はその後も続いていくため、つねに未来のことも考慮に入れていかなければならない。今がよければそれでいいという刹那的な考え方は、通時的な人生には通用しない。


 次に「生きやすいこと」が要求されることによって、結果的にリスクの影響がなかったというだけでは、リスクの放置が正当化されないことを表現している。

 生きやすいといえるためには、自身の生存活動への余計な制限がないことが必要だ。さらに将来の見通しがよいこと、すなわち希望が必要となる。

 自分の人生には多大なリスクがあると思いながら生きるのは精神的な負担をとても大きくさせるが、それだけでなくネガティブな予測は、現実の行動を実際に制限する可能性まである。

 将来の事象にうまく対応して、順調に主観的目的の促進ができそうだと思えること、そう思えるだけの環境であることが、社会には求められる。よってそれが現実のものとなるかどうかにかかわりなく、あらゆるリスクが解消されることが目指されなければならない。


 三つ目の注意点として、「環境」という言葉の捉え方も重要だ。

 環境という概念には通常、自分自身の存在は含まれていない。自分がいる環境といえば、自分の周りのことだと考えるのが普通だろう。

 そこにあえて、自分の存在を含めて考えてほしい。自身の一挙手一投足、一つひとつの言動が環境につねに影響を与えて、環境を形づくっている。

 そのような環境をよいものにすることが、道徳の役割となる。不道徳な行為は、即座に環境を悪化させる。そう考えることで、道徳がどのような効果をもつものなのかが理解しやすくなるはずだ。他者を道徳的にしようとする前に、自身が道徳的であろうとしなければ、道徳ははじまらない。


 こうした社会目的も結局は、主観的目的を促進するため、要するに人が生きるためにある。これは環境をよりよいものにすることで、間接的な利益を享受しようとするものだといえる。

 よい社会環境は、その社会の構成員すべてに利益をもたらす。つまり社会の構成員が協力することによって、みんなで利益を得ようとすることが道徳の目的なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ