人間の目的手段と分析・総合判断
二つの概念が関係づけられるとき、その結びつき方には分析的と総合的の二種類がある。
分析的とは一方の概念が他方の概念に含まれている関係のことをいい、そうでないもの(それぞれが独立している関係、あるいはそれぞれを結びつけるには第三のものが必要とされるような関係)を総合的という。
たとえば分析的な判断には、「物体は広がりをもつ」がある。ここでは主語の物体という概念の中に、述語である広がりをもつという概念が含まれている。なぜなら広がりをもつとは空間の一部を占めるということだが、そもそも空間の一部を占めるもののことを物体と呼んでいるからだ。つまり主語の定義の中に、述語が含まれている。
分析判断は矛盾律(あるものがAであり、かつAでないということはないという論理法則)によって、その真理性をたしかめられる。これは述語を否定することで、即座に矛盾した判断になるためだ。「物体は広がりをもたない」という判断は、主語と述語が矛盾している。それゆえ「物体は広がりをもつ」という判断が正しいことがわかる。
矛盾とは「認識をまったく否定し、廃棄する」(*1)ものなので、われわれ人間は広がりをもたない物体の存在を、想像することさえできない。どのような原子、あるいは素粒子といった限りなく小さなものであろうと、大きさという概念が使われている以上は、空間の一部を占めていることに変わりはない。誰であってもこのことは否定できないので、分析判断には必然性と普遍性があると語られる。
分析判断の例としては、「独身の人は結婚していない」の方がわかりやすいかもしれない。述語を否定して「独身の人は結婚している」にすると、主語と述語が矛盾する。そのため「独身の人は結婚していない」は、言葉の意味によって正しい。
*1 カント『純粋理性批判』(熊野訳)212ページ(A151,B190)。
主語の概念の中に述語の概念が含まれているような判断というのは、カントによる分析判断の定義になる。
だがこの定義の仕方には、哲学者のウィラード・ヴァン・オーマン・クワインが指摘するように、「主語述語形式の言明だけに限定されている」ことと「『含む』という比喩の域を超えない概念に訴えている」という二つの欠点がある(*2)。
前者については、主語述語ではなく二つの概念の関係として理解することで、すでに解決している。
後者については人間の認知の仕方にかかわってくるため、第一〇章においてさらに定義を修正することにしたい。ただ、「含むかどうか」という区別基準が直観的に理解しやすいのもたしかなので、しばらくはこのままの定義でいこうと思う。
*2 W.V.O.クワイン著、飯田隆訳「経験主義のふたつのドグマ」『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』勁草書房、1992年[1953、1961、1980年]、32ページ。
一方総合的な判断の例としては、「海は青い」があげられる。
主語である海という概念には、述語である青いという概念は含まれていない。実際深夜に灯りで照らされていない海は黒く見えたりするし、海の水をすくって空の色が反射しない場所にもっていけば無色透明になる。
そのため海が青いことには必然性がなく、主語に含まれていない概念を新たに主語と総合するために、総合判断と呼ばれる。海は青いと判断するためには、実際に青い海を知覚することが必要だ。知覚のもととなる感覚刺激のように、推論を経ないで直接得た認識素材のことを、直観という。そのため総合判断が「総合的」と呼ばれるのは、たんに主語に含まれていない概念を主語と総合するからというにとどまらず、より積極的には、概念と直観を総合するから、ということができる(*3)。この説明の意味は、第一〇章を読んでもらえれば、より理解しやすくなるだろう。
*3 石川文康『カント入門』ちくま新書、1995年、102ページ。総合判断の例も同書による。
この分類に従えば「人間は生きることを最終目的にしている」という判断は、分析判断といえそうだ。
この命題は「生物は生きることを最終目的にしている」「人間は生物である」という二つの分析的な命題から、三段論法によって導き出される。こうしたさらなる前提があることで、本作の理論には動物など人間以外への拡張可能性が残ると考えることもできそうだが、あまり話を広げすぎないようにするため、本作では道徳の対象を人間に限ることにしたい。
最高原理が分析的であるという考えが正しければ、その反対である「人間は生きることを最終目的にしていない」は、矛盾した判断でなければならない。
もし人間が生きていることに必然性がないのであれば、人間が生きようとするのは、たんなる偶然であることになる。それはわれわれの、人間という概念の理解に反する。よって人間の生存という目的には、必然性と普遍性があるといっていい。
もちろんそうなるように人間を定義しているのだから、ここで論理的必然性が生じるのは当たり前のことだ。ここで原理の必然性を確認しているのは内的整合性のためであって、現にすべての人間が生存という目的に縛られていることを証明できているわけではない。
目指しているのはあくまで、この原理を前提とすることによって、人間の行動や規範をうまく解釈できると示すことだ。決して、現にどうなっているのかを論じることを目標にしているわけではない。
先ほど生存という目的を生物がもっていることを進化論とも結びつけたが、進化の概念は特定の集団に例外なく当てはまる特徴を保証したりはしない。あくまで一般的傾向の話であって、仮に例外があったとしても、そのことで即座に否定されるものではないのだ。
人間と最終目的の関係とは異なり、目的と手段の関係は総合的な関係になる。
目的である概念の中に手段の概念は含まれていないし、手段とする概念の中に目的の概念は含まれていない。そのためこの関係には必然性がなく、たんなる偶然によって結びついているにすぎない。
実際手段となる木材という概念の中をいくら探しても、目的となる小屋という概念は見つからない。だからこそ木材を小屋をつくる手段としてだけではなく、異なる目的、たとえば庭に置くベンチをつくることに役立てることもできる。同様に目的となる小屋をつくる手段も、絶対に木材でなければいけないということはなく、たとえば煉瓦を手段とすることもできるだろう。
ここからわかるのは、目的と手段の関係は一対一ではなく、どちらも代替可能だということだ。そのため人間がなにか別のもののために生きようとしても、そこにはなんら必然性がない。生きることを手段とするような目的を仮に設定したとしても、世界にとってはその手段があなたである必要は必ずしもないし、もちろん生きるという目的を別の目的で代替することも論理的には可能なのだが、それはあなたの生物としての本能に反する。
ところでカントの著作に、目的と手段の関係を分析的な関係と説明している箇所がある(*4)。
しかしこれはあくまで、手段と目的が関係づけられ、その行為を意志するようになってからの話だ。すでに「この目的にはこの手段を使うのが最善だ」と決めたあとなら、その手段を意志することを否定すると、その目的を志向することと矛盾する。そのためこの場合であれば、目的と手段が分析的な関係にあることがわかる。
たとえば生きるという目的に対する、幸福を求めるという手段がそのような関係にあるといえるだろうし、第八章で手段の必然性というときには、目的と手段を分析的な関係として扱っている。
しかしまだどのような手段を採用するかを決めていないときには、ある目的と結びつけられる可能性のある手段はいくつも存在しうるため、目的と手段は総合的な関係にある。
*4 カント著、野田又夫訳「人倫の形而上学の基礎づけ」[1785年]『プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ』中公クラシックス、2005年、279~280ページ。




