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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第一章 目的を意味づける
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生きることの手段化と自殺について

ひとはなんのためにきるのか」という問題もんだいなやんだ経験けいけんのあるひとは、けっしてすくなくはないだろう。

 人類じんるいはじまって以来いらい幾度いくどとなくかえされてきたであろういだが、いまだにこのなぞかれていない。ここでわれているのは、なんのために、つまり目的もくてきだ。きることを手段しゅだんとして、それがなにを目的もくてきとしているのかが問題もんだいとなっている。

 だが人間にんげんきることを最終目的さいしゅうもくてきにしているため、きることをべつのなにかの手段しゅだんとすることはできない。ということは問題もんだい前提ぜんてい間違まちがっているのだから、こたえがないのも当然だろう。

 きる意味いみというとき、ここにで手段しゅだん目的もくてき逆転ぎゃくてんがある。だがきることは、けっして目的以外もくてきいがいにはなりえないのだ。


 なぜ目的もくてきでしかないきることを、手段化しゅだんかしてしまうのだろうか。

 通常つうじょう、ある目的もくてきは、べつ目的もくてき手段しゅだんになる。たとえば木材もくざい使つかって、小屋こやてるとしよう。このとき、木材もくざい手段しゅだんで、小屋こや目的もくてきという関係かんけいになる。

 そしてその小屋こや家財道具かざいどうぐ保管ほかんする物置ものおきとして使つかうとすると、目的もくてきであった小屋こやは、家財道具かざいどうぐ保管ほかんというべつ目的もくてきのための手段しゅだんになる。家財道具かざいどうぐ保管ほかん日常生活にちじょうせいかつという目的もくてき手段しゅだんとなり、日常生活にちじょうせいかついとなむことは最終的さいしゅうてきに、きるための手段しゅだんとなる。


 このようにひとのどのような手段しゅだん、どのような行為こういから目的もくてきをたどっていったとしても、最終的さいしゅうてきにはすべてきるという目的もくてきにたどりく。

 こうした手段しゅだん目的もくてき連鎖れんさは、一見いっけんするとどこまでも延々《えんえん》とつづいているようにおもえる。そのためにひとはついつい、きるという目的もくてきも、べつ目的もくてきのための手段しゅだんになるはずだとかんがえてしまうのだろう。

 しかし実際じっさいは、それ以上いじょう目的もくてき人間にんげんにはあたえられていないし、みずから設定せっていするわけにもいかないものなのだ。


「わたしは~のためにきている」とひとうとき、その言葉ことばしん意味いみしているのは、「わたしがきるためには~が必要ひつようだ」ということにほかならない。

ひとはなんのためにきるのか」といういの、手段しゅだん目的もくてき関係かんけいただしいかたちえてみよう。すると「ひときるためになにをするべきなのか」となり、この問題もんだいこたえることこそが、まさしく道徳どうとく意味いみづけということであり、この問題もんだいかんがえていくことが本作ほんさく目的もくてきとなる。


 ***


 ひときることを目的もくてきにしない行動こうどうをしないというのなら、では自殺じさつはどうなのだと疑問ぎもんおもひともいるかもしれない。

 自殺じさつ理由りゆうもさまざまだろうからそれにともなってことなる説明せつめい必要ひつようとされるだろうが、ここではなにか不幸ふこうなできごとがあったり、あまりにみずからの境遇きょうぐう理想的りそうてき人生じんせいからかけはなれているがために、きるのがくるしくかんじられていのちつというケースをかんがえてみよう。


 重要じゅうようなのは、そのくるしいという感情かんじょうでさえ、きるための手段しゅだんだということだ。

 なぜひとくるしいという感情かんじょうをもつのかとかんがえてみると、きるのに不都合ふつごう状態じょうたいからすためだということにがつく。った部屋へや息苦いきぐるしさをかんじたらだれだって、室内しつない換気かんきしようとまどけるだろう。つまりくるしみはひと意識いしきに、生存せいぞん都合つごうわる状況じょうきょうからだっする行動こうどううながすための情動じょうどうなのだといえる。

 自殺じさつはそうした情動じょうどうによるメッセージを、理性りせいあやまって解釈かいしゃくしたがためにこるものだと考えられる。


 したがって奇妙きみょうこえるかもしれないが、自殺じさつするひとは、きるために自殺じさつしているとっていい。

 それはんだあとにもあの霊界れいかい天国てんごく)というべつ世界せかいけるとしんじていたり、まれわって来世らいせにかけることができるとかんがえていたり、身体からだちても霊魂れいこんがそのままのこるというような超常的ちょうじょうてき思想しそうからしょうじている。

 そのようなかんがかたはある意味いみんだあともそのままつづけるとかんがえるようなものだろう。人生じんせいをゲームのようにリセットして、あらたな世界せかいでニューゲームできるというような期待きたいが、自殺じさつへの動機どうき影響えいきょうしている可能性かのうせいがある。ねばらくになるというかんがかたには、くるしみからのがれられたとかんじることが、してなお可能かのうだとするかんがえが前提ぜんていにある。おそらくこうしたかんがかたがなければ、つまりんださきにはなにもないのだとかんがえていれば、くるしみからのがれるためにぬという発想はっそうにさえならないのではないだろうか。


 ソクラテスはを、純粋じゅんすい虚無きょむであるか、あのへの霊魂れいこん移転いてんであるかのどちらかであるとかんがえた。かれは、前者ぜんしゃであればゆめひとない熟睡じゅくすいしたよるよりもこころよごした生涯しょうがいのうちでもそうおおくはないし、後者こうしゃだとしたらすでにくなっている過去かこ偉人いじんたちがそこにいて議論ぎろんできるなら愉快ゆかいなことだろうとして、どちらにしても幸福こうふくなことだとするジレンマ論法ろんぽう展開てんかいした(*1)。


*1 プラトンちょ久保勉訳くぼつとむやく「ソクラテスの弁明べんめい」『ソクラテスの弁明べんめい・クリトン』岩波文庫いわなみぶんこ、1927ねん、66~68ページ。


 この二択にたくからえらぶのであればわたしは前者ぜんしゃそうとおもうが、この場合ばあい仮言命題かげんめいだい(~ならば、~である)には問題もんだいがある。というのも、によってもたらされる純粋じゅんすい虚無きょむが、熟睡じゅくすいから目覚めざめたときのようなこころよさをもたらしてくれるとはかぎらないからだ。

 生命活動せいめいかつどう途絶とだえれば、感覚器官かんかくきかんのう機能きのうしなくなる。そうすると知覚ちかくはたらかないのだから、当然とうぜんなにかをたりいたりすることはできず、なにかをかんじることもできない。のうという記憶きおく貯蔵場所ちょぞうばしょがないため、なにかをおもすこともできないし、思考しこう材料ざいりょう知覚ちかく)を手段しゅだんもなくワーキングメモリーもはたらかないために、なにかをかんがえることもできない。だからくるしみからのがれられたと、ほっとすることさえできないのだ。


 これはたしかに、ゆめさえないノンレム睡眠すいみんのようなものなのかもしれない。もしあさになって目覚めざめることができるなら、よくられたなあと気持きもちよくなったり、悪夢あくむからのがれられたと安堵あんどすることもあるだろう。

 しかし二度にどめないなら、それもない。いったい、いつ快適かいてきさをかんじるというのだろうか。そこでは一切いっさい感覚かんかくがなく、時間じかんさえかんじず、したがって永遠えいえんねむりでさえない。ノンレム睡眠時すいみんじのことが自身じしん記憶きおくからすっぽりちているように、そこではすべてがちている。あるのは、一切いっさいだけだ。そんなもののためにんだとして、いったいなんの意味いみがあるというのだろう。きるためでないことには、どんな意味いみ存在そんざいしない。


 このかんがかたには、きることを目的もくてきとしない自由じゆうや、そういったひと価値観かちかん存在そんざい否定ひていしているという批判ひはんがあるかもしれない。しかしそういった主張しゅちょうさえも、きやすさをもとめているがゆえのものなのだ。そのため生存せいぞんという目的もくてき否定ひていするなら、即座そくざにパラドックスにまれる。

 自由じゆう権利けんりについては第四章だいよんしょう第五章だいごしょう説明せつめいするが、それらは他者たしゃ正当性せいとうせい主張しゅちょうするものであって、その根拠こんきょには生存せいぞんという目的もくてきひそんでいる。もし生存せいぞん目的もくてきとしないのなら、そのような価値観かちかん他者たしゃ承認しょうにんしてもらう必要性ひつようせい自体じたい消滅しょうめつするため、そういったものの主張しゅちょう自体じたい意味いみがなくなる。


 もともとは死後しご世界せかい天国てんごく極楽浄土ごくらくじょうどたぐい)やたましいといった概念がいねんも、道徳どうとくへの動機どうきづけのためにつくられたものとかんがえられる(アニミズムてきかみ概念がいねんかんしてはべつ動機どうきがありえそうだが、ここではふかげない)。自殺じさつせいくるしみ自体じたいは、その副作用ふくさようといえるものかもしれない。

 第一〇章(だいじゅっしょう)紹介しょうかいしているマイケル・S・ガザニガの実験じっけんでもあきらかなように、ひと判断材料はんだんざいりょう不十分ふじゅうぶんなときでも、なにかしらに無理矢理むりやりにでも原因げんいんをこじつける。くるしみの原因げんいんがわからなければ、つねにその状態じょうたいにある生存せいぞん原因げんいんをこじつけてかんがえるのは、人間理性にんげんりせい自然しぜん傾向けいこうではあるだろう。だがそうした原因げんいん推論すいろんというものは、しばしばあやまっているものなのだ。


 たしかに死後しご世界せかいは、存在そんざいしていることも存在そんざいしないことも証明しょうめいできないため、完全かんぜん否定ひていするわけにはいかないだろう。だからここでべたことは、わたしが死後しご世界せかい存在そんざい否定ひていしているのだと、早合点はやがてんしてほしくない。

 死後しご世界せかい言及げんきゅうすることでわたしが主張しゅちょうしているのは、死後しご世界せかい存在そんざいするかいなかということではなくて、死後しご世界せかい存在そんざいすることを前提ぜんていしなくとも、われわれのかた、とりわけ道徳どうとくかんがえることは十分じゅうぶん可能かのうだということでしかない。

 カントはかみ来世らいせ存在そんざいすると想定そうていすることが、実践的妥当性じっせんてきだとうせい道徳どうとく正当化せいとうか)のための唯一ゆいいつ条件じょうけんだとして、そのように想定そうていすることには必然性ひつぜんせいがあるとした(*2)。


*2 カント『純粋理性批判じゅんすいりせいひはん』(熊野訳くまのやく)788ページ(A828,B856)。


 だがもし来世らいせ想定そうていせずとも道徳どうとく可能かのうなことをしめせたなら、たとえ来世らいせ可能性かのうせい否定ひていすることはできなくても、すくなくともその必然性ひつぜんせい否定ひていすることはできる。これはのちに紹介しょうかいする「可能性かのうせい」と「必然性ひつぜんせい」の定義ていぎから、必然的ひつぜんてきみちびかれる帰結きけつとなる。


 したがって死後しご世界せかい来世らいせといったものがあるかどうかは、ここでは問題もんだいとならない。かり死後しご世界せかいがあったとしても、その世界せかいのことはどのみち、んでからでないとわからないのだ。

 そのため本作ほんさくとしては、そのようなものにたいしてはあくまで、不可知論ふかちろん立場たちば堅持けんじすることとしたい。ただそれでも、認知症にんちしょう存在そんざいや、のう損傷そんしょうしたことによって性格せいかく激変げきへんしたフィニアス・ゲージという人物じんぶつ事例じれいからすると、脳機能停止後のうきのうていしご一貫いっかんした人格じんかくつづくことを前提ぜんていとするような死後しご世界せかい思考しこう前提ぜんていとすることには、疑問ぎもんかんじざるをえない。

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