生きることの手段化と自殺について
「人はなんのために生きるのか」という問題に悩んだ経験のある人は、決して少なくはないだろう。
人類はじまって以来、幾度となく繰り返されてきたであろう問いだが、いまだにこの謎は解かれていない。ここで問われているのは、なんのために、つまり目的だ。生きることを手段として、それがなにを目的としているのかが問題となっている。
だが人間は生きることを最終目的にしているため、生きることを別のなにかの手段とすることはできない。ということは問題の前提が間違っているのだから、答えが出ないのも当然だろう。
生きる意味というとき、ここにで手段と目的の逆転がある。だが生きることは、決して目的以外にはなりえないのだ。
なぜ目的でしかない生きることを、手段化してしまうのだろうか。
通常、ある目的は、別の目的の手段になる。たとえば木材を使って、小屋を建てるとしよう。このとき、木材が手段で、小屋が目的という関係になる。
そしてその小屋を家財道具を保管する物置として使うとすると、目的であった小屋は、家財道具の保管という別の目的のための手段になる。家財道具の保管は日常生活という目的の手段となり、日常生活を営むことは最終的に、生きるための手段となる。
このように人のどのような手段、どのような行為から目的をたどっていったとしても、最終的にはすべて生きるという目的にたどり着く。
こうした手段と目的の連鎖は、一見するとどこまでも延々《えんえん》と続いているように思える。そのために人はついつい、生きるという目的も、別の目的のための手段になるはずだと考えてしまうのだろう。
しかし実際は、それ以上の目的は人間には与えられていないし、みずから設定するわけにもいかないものなのだ。
「わたしは~のために生きている」と人が言うとき、その言葉が真に意味しているのは、「わたしが生きるためには~が必要だ」ということにほかならない。
「人はなんのために生きるのか」という問いの、手段と目的の関係を正しい形で置き換えてみよう。すると「人は生きるためになにをするべきなのか」となり、この問題に答えることこそが、まさしく道徳の意味づけということであり、この問題を考えていくことが本作の目的となる。
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人は生きることを目的にしない行動をしないというのなら、では自殺はどうなのだと疑問に思う人もいるかもしれない。
自殺の理由もさまざまだろうからそれに伴って異なる説明が必要とされるだろうが、ここではなにか不幸なできごとがあったり、あまりにみずからの境遇が理想的な人生からかけ離れているがために、生きるのが苦しく感じられて命を絶つというケースを考えてみよう。
重要なのは、その苦しいという感情でさえ、生きるための手段だということだ。
なぜ人は苦しいという感情をもつのかと考えてみると、生きるのに不都合な状態から抜け出すためだということに気がつく。閉め切った部屋で息苦しさを感じたら誰だって、室内を換気しようと窓を開けるだろう。つまり苦しみは人の意識に、生存に都合の悪い状況から脱する行動を促すための情動なのだといえる。
自殺はそうした情動によるメッセージを、理性が誤って解釈したがために起こるものだと考えられる。
したがって奇妙に聞こえるかもしれないが、自殺する人は、生きるために自殺していると言っていい。
それは死んだあとにもあの世(霊界、天国)という別の世界に行けると信じていたり、生まれ変わって来世にかけることができると考えていたり、身体が朽ちても霊魂がそのまま残るというような超常的な思想から生じている。
そのような考え方はある意味、死んだあともそのまま生き続けると考えるようなものだろう。人生をゲームのようにリセットして、新たな世界でニューゲームできるというような期待が、自殺への動機に影響している可能性がある。死ねば楽になるという考え方には、苦しみから逃れられたと感じることが、死してなお可能だとする考えが前提にある。おそらくこうした考え方がなければ、つまり死んだ先にはなにもないのだと考えていれば、苦しみから逃れるために死ぬという発想にさえならないのではないだろうか。
ソクラテスは死を、純粋な虚無であるか、あの世への霊魂の移転であるかのどちらかであると考えた。彼は、前者であれば夢一つ見ない熟睡した夜よりも快く過ごした日は生涯のうちでもそう多くはないし、後者だとしたらすでに亡くなっている過去の偉人たちがそこにいて議論できるなら愉快なことだろうとして、どちらにしても死は幸福なことだとするジレンマ論法を展開した(*1)。
*1 プラトン著、久保勉訳「ソクラテスの弁明」『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫、1927年、66~68ページ。
この二択から選ぶのであればわたしは前者を推そうと思うが、この場合の仮言命題(~ならば、~である)には問題がある。というのも、死によってもたらされる純粋な虚無が、熟睡から目覚めたときのような快さをもたらしてくれるとは限らないからだ。
生命活動が途絶えれば、感覚器官も脳も機能しなくなる。そうすると知覚も働かないのだから、当然なにかを見たり聞いたりすることはできず、なにかを感じることもできない。脳という記憶の貯蔵場所がないため、なにかを思い出すこともできないし、思考の材料(知覚)を得る手段もなくワーキングメモリーも働かないために、なにかを考えることもできない。だから苦しみから逃れられたと、ほっとすることさえできないのだ。
これはたしかに、夢さえ見ないノンレム睡眠のようなものなのかもしれない。もし朝になって目覚めることができるなら、よく寝られたなあと気持ちよくなったり、悪夢から逃れられたと安堵することもあるだろう。
しかし二度と目が覚めないなら、それもない。いったい、いつ快適さを感じるというのだろうか。そこでは一切の感覚がなく、時間さえ感じず、したがって永遠の眠りでさえない。ノンレム睡眠時のことが自身の記憶からすっぽり抜け落ちているように、そこではすべてが抜け落ちている。あるのは、一切の無だけだ。そんなもののために死んだとして、いったいなんの意味があるというのだろう。生きるためでないことには、どんな意味も存在しない。
この考え方には、生きることを目的としない自由や、そういった人の価値観、存在を否定しているという批判があるかもしれない。しかしそういった主張さえも、生きやすさを求めているがゆえのものなのだ。そのため生存という目的を否定するなら、即座にパラドックスに巻き込まれる。
自由や権利については第四章や第五章で説明するが、それらは他者に正当性を主張するものであって、その根拠には生存という目的が潜んでいる。もし生存を目的としないのなら、そのような価値観を他者に承認してもらう必要性自体が消滅するため、そういったものの主張自体に意味がなくなる。
もともとは死後の世界(天国や極楽浄土の類)や魂といった概念も、道徳への動機づけのためにつくられたものと考えられる(アニミズム的な神の概念に関しては別の動機がありえそうだが、ここでは深く掘り下げない)。自殺や生の苦しみ自体は、その副作用といえるものかもしれない。
第一〇章で紹介しているマイケル・S・ガザニガの実験でもあきらかなように、人は判断材料が不十分なときでも、なにかしらに無理矢理にでも原因をこじつける。苦しみの原因がわからなければ、つねにその状態にある生存に原因をこじつけて考えるのは、人間理性の自然な傾向ではあるだろう。だがそうした原因の推論というものは、しばしば誤っているものなのだ。
たしかに死後の世界は、存在していることも存在しないことも証明できないため、完全に否定するわけにはいかないだろう。だからここで述べたことは、わたしが死後の世界の存在を否定しているのだと、早合点してほしくない。
死後の世界に言及することでわたしが主張しているのは、死後の世界が存在するか否かということではなくて、死後の世界が存在することを前提しなくとも、われわれの生き方、とりわけ道徳を考えることは十分に可能だということでしかない。
カントは神と来世が存在すると想定することが、実践的妥当性(道徳の正当化)のための唯一の条件だとして、そのように想定することには必然性があるとした(*2)。
*2 カント『純粋理性批判』(熊野訳)788ページ(A828,B856)。
だがもし来世を想定せずとも道徳が可能なことを示せたなら、たとえ来世の可能性を否定することはできなくても、少なくともその必然性を否定することはできる。これはのちに紹介する「可能性」と「必然性」の定義から、必然的に導かれる帰結となる。
したがって死後の世界や来世といったものがあるかどうかは、ここでは問題とならない。仮に死後の世界があったとしても、その世界のことはどのみち、死んでからでないとわからないのだ。
そのため本作としては、そのようなものに対してはあくまで、不可知論の立場を堅持することとしたい。ただそれでも、認知症の存在や、脳が損傷したことによって性格が激変したフィニアス・ゲージという人物の事例からすると、脳機能停止後も一貫した人格が続くことを前提とするような死後の世界を思考の前提とすることには、疑問を感じざるをえない。




