-5 『ボイン』
改まって意気込んではみたものの、具体的にどうすればいいのかをまったく考えていなかった。
「女将さんには、何もしなくていいって言われてるんだ」とクウは言っていた。やはり自分ひとりで抱え込むつもりなのだろう。
「だからって、本当に何もしないわけにはいかないよなあ。前と同じならもう何泊かしたら勝手に帰っていくって話だけど、それまでは女将さんにずっと負担を強いるわけだし。今の台風が過ぎ去っても結局また来るかもしれないんだったら、来年か何ヵ月後かの女将さんがまた死にそうな思いをするわけで……なんの解決にもなってないよなあ」
深々と溜め息が漏れてしまう。
何もするなと言われた手前、表立っては動きづらい。
強面たちを出入り禁止にさせたりするのは無理だろう。
かといって直接強面たちに嫌がらせでもしようものなら、万が一にサチたちにも危険が及びかねない。ヤクザというのが本当かはわからないが、彼らが荒くれ者であることに違いはないのだ。
「……どうしたものかなあ」
強面たちがやって来て二日目の夜。
また例によって騒音を撒き散らしてくるおかげでなかなか寝付けず、俺は休憩所の自販機の前に腰掛けて呆然と天応を見上げていた。
結局、まったく案が浮かばないでいる。
仲居三人娘が業務をそつなくこなせるようになれば女将さんの負担も減るのだろうが、クウを除けばとてもじゃないがまだ人前に出せるレベルではないだろう。
クウだってマシではあるが、失敗だってまだ多くある。強面たちの前に出すには早い。
「となると、やっぱり根本をなんとかするしかないのかなあ」
「なんだい。ラジオかと思ったらガキじゃないか」
不意に声が聞こえ、俺はその方を見やった。
そこにはいつの間にか、強面たちに混じっていた若い女性がいた。
目鼻立ちの整った綺麗な顔つきで、凛とした目つきに大人の女性を感じさせる長いまつげ、分厚くて瑞々しい唇が特徴的だ。その顔立ちとウェーブのかかった茶髪のせいで、どこかハーフのようにも見える。
女将さんが正統派美人の大和撫子とすれば、彼女はグラビアや雑誌モデルのようなセクシー美女といったところだろうか。
帯が緩んで少しはだけた浴衣の胸元から、豊満に膨らんだ胸の谷間が覗いている。つい目がいってしまいそうになるのを我慢した。
見惚れるほどの美人がどうしてあの強面と一緒にいるのか。
不思議に思っていると、女性――名前がわからないので俺の中ではボインと呼ぶことにしよう――は浴衣の袖から煙草とライターを取り出した。そして喫煙所でもないのに、おもむろに煙草に火をつけ始める。
彼女の吐き出した白い煙が天井に渦を巻き、少し甘い臭いがこちらにまで届いてきた。
煙草には詳しくないがそういう香りなのだろうか。香水のように脳が蕩けそうになる。
「あの、喫煙所はすぐそこですよ。ここの奥です」
以前に隠れたどん詰まりの喫煙所を指差す。
だがボインは一瞥すらせず、構わずに煙草をふかしていた。
見た目は美人でも強面たちの仲間というわけか。
「あんた、女将が言ってたほかの客ってやつ?」
ボインが俺の隣に腰掛けてくて尋ねてきた。
煙草のにおいと一緒に、ほんのりシャンプーの華やかな香りが漂ってきた。
すぐ間近に迫った胸元から瑞々しい肌が肌蹴て見える。当たった肩に、薄い浴衣越しの体温が伝わってきた。
「そうですけど」
「へえ、こんな汚い旅館に物好きだねえ」
「年季が入ってていい旅館だと思いますけど」
「そういうのはボロくさいって言うんだよ。こんな辺鄙な山奥なんかでやってるんだ。客もほとんど来ないんじゃあ廃屋も同然じゃん。いっそのこと取り壊して、遊園地とかプールでも作ったほうがまだ見栄えするってもんだね。うちのネズミ野郎がここを気に入っちまってるから仕方なく来てやってるが、こんなとこに来るのはとんだ物好きだけさ。もしくは、あの若い女将を狙ってるかってところだね。ま、酒を飲めて騒げれば別にいいけどさ」
ずけずけと遠慮のない物言いでボインは言う。
ネズミ野郎とはヒョロのことだろうか。
こんなことを俺に面と向かって話すあたり、綺麗な顔立ちには似合わない豪胆さだ。いや、単に俺が何もできないガキだと思われているのか。
そんな彼女に苛立ちつつも、俺は実際、何一つ強気に言い返すことはできなかった。そんなことないですよ、とやんわりと苦笑を浮かべて相槌を打つ程度だった。
一度飛び出し始めた言葉に調子付いたのか、ボインが更に続ける。
「なんだったら本当に権利を買い取ってやろうか。どうせこんな場所だしたいして安くもないだろうしね。まあ、こんなボロ旅館が一つ潰れたところで誰も困りはしないし。レジャー施設にでもなったほうが誰かのためにもなるでしょ。いやー、あたしってセンスあるかもねー。そもそも、あたしはこんな幽霊屋敷みたいなところに来たくなんてないんだよ。親父に言って本当に権利を買い占めてもらおっかな」
いったいどれほどの権力を持ってるんだ、この人。
どうやら酒も入っているようでどこまで本気なのかわからないが、その語り口にはどこか現実味がある。
「いやあ、さすがに女将さんたちの事情もありますし、それは駄目なんじゃないでしょうかね」
さすがに少しでも言い返すべきだと思って俺がそう言ってみた瞬間だった。
「あ?」
ボインが、さっきと同一人物とは思えないほど低い唸り声を漏らした。
しまった。
癇に障ったらしい。
一瞬にして彼女の顔が俺の眼前に迫る。
眉間にしわが寄り、鋭い目つきで凄まれる。
そこに女性らしい優しさはなく、冷血で惨忍な、刃物のような目つきの鋭さに気圧された。先ほどまでの奔放人とは思えないほどの豹変振りだった。
「あたしの意見が間違ってるって言ってんの? あんた、何様なわけ」
「いや、間違ってるというか……」
「じゃあなんなの。言ってみ」
「いやあ、その」
完全に怒っている。これはまずい。
いち早く謝ったほうがいいだろう。真っ先に、最優先にだ。
「ガキのくせに調子に乗ってんじゃないよ!」
「す、すいませ――」
大慌てで頭を垂れさせて謝罪しようと瞬間、しかし途端に目の前が暗くなった。
なにが起こったのかわからなかった。
殴られたとか、意識を失ったとかではない。ただ視界が奪われた。
ずっと聞こえていた自動販売機の振動するような稼動音もすっかり止んでいる。
暗闇と静寂だけが訪れた。
落ち着いて辺りを見回すと、遠くの窓に月の光が差し込んでいるのが見え、電気が消えただけなのだとようやくわかった。
「なんだろう、急に。停電かな?」
俺はポケットのスマホを取り出してライトをつけた。
暗闇に俺の顔が浮かび上がる。すると、
「きゃあああ!」と、鼓膜が破れそうなほどに騒がしい悲鳴が目の前で上がった。
驚いて俺も「うわっ」と声を漏らしてしまうが、更にかぶさるようにまた「きゃあっ」と聞こえてきた。少女のような随分と可愛らしい声だ。
一体誰の声だ、とは思ったが、思い当たる節は一つしかない。そもそも、ここには俺ともう一人しかいない。
「ちょ、ちょっと見てきますね」
暗闇に乗じてこの場から逃げるチャンスだと、俺は皮椅子から立ち上がる。
そしてそのまま立ち去ろうとするのを、何かが腕を掴んできて引き止められた。
ボインだ。
俺の手元のライトだけが明るいせいで、薄闇にいる彼女の表情はまったくわからない。
「ちょっと待て」
「え?」
「あ、あたしがまだ煙草を吸いきってないだろ」
それでどうして俺が待たなければいけないのか。
ボインの声は先ほど同じように高圧的だが、僅かに震えているようにも感じた。
――もしかして怖がっているのだろうか。
あれだけ威勢のいいことを言っていた矢先、こんな女の子らしいところを見せるとは。
たしかに旅館は古い。
壁の木材は所々朽ちているし、床に埋め込まれた絨毯が禿げてしまっているところもある。外は森が続くだけで光源はなく、真っ暗になれば今にも何かが出てきてもおかしくはなさそうなほどに不気味だ。
実際、そもそも妖怪が居着いているのだから怖いも何もないのだが。
引き止められたとはいえ、ここでボインと二人きりというのはイヤだ。
またいつ機嫌を損ねて凄んだ顔で詰め寄られるかわかったものではない。
「すいません。ちょっと行ってきます」
俺は彼女の制止を振り切って一目散にその場を後にした。




