十二話 己の選択
俺と光凛が出会ったのは、五年前の事。
父さんが家に招いた女性――後に俺の二人目の母さんとなる女性が連れていたのが、光凛だった。
俺は当時十二歳、光は五歳。正直言ってこの年齢差では、二人で遊んでこいと言われても、あまりにも歳が離れすぎていてどうしていいか困る。
俺は当時、実際にその状況に陥り、困惑した。
薄々、父さんとその女性が好き合っていて、二人は結婚するのだろうと思ったものだが、妹が出来るというのは考えもしなかった。
ただ単純に、年下の女の子の面倒を見ろと言われ、俺はふてくされた。
こんな子供の面倒なんて見れるかよ、めんどくせぇと俺は思っていた。
だが、光凛は凄く大人びた少女だった。
五歳にして自分の置かれた状況を理解し、自分はこの見知らぬ年上の少年と一緒に暮らすことになるのだと受け止めていた。
光凛は自ら歩み寄ってきた。
俺の事を早くも「お兄ちゃん」と呼び、家族になる準備をしていた。
それは、未だに妹の存在を認識出来ていなかった俺にとっては、衝撃的な事実だった。
俺には光凛と暮らす自信が無かった。この時俺はこの少女と自分は決定的に違うと、そう思い知らされた。
俺は母という存在を知らない。本当の母は俺を生んだときに死んでいる。
俺は父さんに育てられたのだ。そんな父さんが、母さんを連れてきた。
結局のところ、俺は怖かったのだ。自分の知らないものが存在する事を。
母という存在がどういうモノなのかを知らないのに、そのうえ妹までついてくる。
そんな事、耐えられるはずがない。
父さんと、その女性は結婚し、光凛は妹になった。
しかし俺はそれを受け入れる事が出来ないまま二年の歳月を過ごした。
俺は父さんが剣道をやっていたことから、小さい頃から道場に通っていた。
中学に入り、部活を通して本格的に、剣道にのめり込んだ。それは家にいる時間が少なくて済むという考えも多少あった。
あそこは俺の家ではない。そういう感覚が、俺にはあった。
父と母、そして光凛。あの三人の笑顔が妙に苛立たしくて仕方が無かった。
何故俺はその中にいないのだろう。俺は一体なんだというのか。
そういう気持ちを抱えたまま、あの事件は起こった。
父さんと母さんが、死んだ。
それは雨の日で、俺が全国一を掛けて戦っていた試合の日だった。
全国大会は東京都心で行われており、俺は前泊してその大会に臨んでいた。
その時は新幹線がまだ開通していなかったから、父さんと母さんは高速道路で、向かっている最中だったのだ。
そこで父さんと母さんは土砂崩れに巻き込まれた。
雨による地盤の緩みが原因だった。
俺がその事を知るのは、日本一の称号を手にした翌日の事だった。
葬式には俺と、母さんの実家に泊まっていた光凛、そしてその親戚――羽柴の家の人達が参列した。
父さんは家を飛び出して死んだ本当の母さんと結婚したらしく、勘当されている為、父さん側の親戚は一人も来なかった。
俺は現実を受け止めていなかった。父さんと母さんが棺桶に入っている所を見させてもらえなかったのもあるだろう。父さんと母さんの様子は酷く、子供には見せられないと、言っていた。
それでも、俺は見たかった。
この地に足の着いていない浮遊感が無くなるのならばそれでいい。俺はそれで、泣くことが出来るのに、と。
俺は泣けなかった。光凛も泣いていなかった。
気丈に背筋を伸ばし、真っ直ぐ笑顔で映る二人の写真を見詰めていた。
何故こんなにも、この少女は強いのだろうと思った。
状況の変化を、どうしてこうもすんなり受け入れる事が出来るのだろうと思った。
やはり俺とは違う。
でも、俺とは違うのなら、何故彼女は泣かないのだろうと思った。
そして俺は気付いた。彼女の手が震えている。
唇を必死に噛み締め、瞳の潤みを堪えている。
――ああそうか、そうだったのか。
光凛は別に、受け入れた訳じゃない。理解している訳じゃない。
理解しなきゃ、受け入れなきゃ、と常に自分に言い聞かせているのだ。
彼女が俺に会ったとき「お兄ちゃん」と呼んだのだって、本当は相当の勇気が必要だったはずなのに、それでもこの少女は踏み出した。
精一杯の勇気で、自分の世界を広げたのだ。
俺はこの時思い知った。俺の世界はなんと小さいのだろうと。
小さすぎて、俺一人分しか入らない事にも気付かなかった。
けど、今は違う。光凛がそれを教えてくれた。
小さな勇気が、踏み出す一歩が、世界を変えるのだと。
でも俺にはそれは出来ない。出来るのは光凛だ。
だから俺は思った。俺の世界はお前の世界だと。
俺は自分の世界を、お前を守るために捧げよう、と。
父さんと母さんの前で、俺は誓った。
光凛の手に、俺の手を重ねる。そして俺は言うのだ。
「俺たちは、今日から本当の兄妹になるんだ。だから今日だけはお前の勇気は休んでいい。よく頑張ったな」
光凛は堰を切った様に泣き出した。
大声で、喉を張らすまで、俺の分まで泣いたのだ。
俺はその代わり、勇気を貰った。
光凛をこれから守っていく勇気を、貰ったんだ。
●
病室では、妨菌シートで囲まれたベットに光凛の姿はあった。何事もなく、本当に寝ているだけの光凛が、余命一年だなどと信じられない。
光凛の免疫力の低下は、年々進んでいた。俺がそれを知らなかったのは、医者と光凛が口裏を合わせていたからだった。
あんなにも元気で、気丈に振る舞っていたのは、俺の前で見せる強がりだったのだ。
俺達が本当の兄妹になったとき誓った筈なのに、光凛は今も俺の前で強がっていた。
それに気付けない俺は、昔とまるで変わっちゃいない。
だからこうして、光凛の手も握ってやれないのだ。
「お前はあの日、妹の葬式で我々に向かって言ったな。光凛は自分が守ると。しかし、この様だ」
いつの間にか隣に立っていた羽柴が言う。豊かな髭と、高そうなスーツを着たその様は、相変わらず嫌みったらしい。
「私達はお前の事などどうでもよかった。光凛がお前といることを望んだから、あの家で暮らすことを黙認してやったのだ。だから保険金もお前達にすべてやった。どうせ、あんなはした金、すぐにも食い潰すだろうと思ったからな」
その通りだった。今では俺が剣道を止め、バイトをしてはいるが、父さんと母さんの保険金を食い潰して生活を凌いでいるのに代わりない。いずれは破綻が見えていた。
「お前はそうと知りながら、私達を頼ろうとしなかった。望みさえすれば、光凛だけでも引き取って裕福な暮らしをさせてやることが出来たのに。お前の身勝手さが、光凛を苦しめていたのだ」
正論過ぎてぐうの音も出ない。そんなのは分かり切っているだけに、俺は一言も言えない。
「まぁ、我々はいずれこうなる事は分かっていたが」
ちょっと待て。光凛がこうなる事は分かっていた? それは初耳だ。それまでは薬で進行は押さえることが出来ていたはず。低下が進んでいたのは近年だけでは無かったのか?
「光凛の父親は光凛と同じ病状で死んだ。彼は気のいい男だったよ。頭も良く、人望にも恵まれていた。しかし、運が無かった。彼は天命に見放されていたのだ。生まれながらにして長く生きられないという宿命を受けていたのだ」
「光凛も……」
「そういうことだ。だから我々は光凛が最も幸せに死ねる生き方を選ばせてやりたかった。ゆえにお前と暮らすことを我々は許した。それが光凛が望む幸せだと」
だとしたら俺が選んできた道は、光凛を守ろうとしていた事は、全てなんだったというのだろうか。
「だが、私だけは違う。妹がお前の父親の所へ行った事すら激しい後悔だったというのに、あまつさえその娘が、またしても織田の血と共にあるなどと誰が認められるというのか!」
激しい怒りの吐露が、俺に向けて放たれる。俺はそれを甘んじて受ける事しか出来ない。
「何故私が光凛の元へと直ぐ様駆け付ける事が出来たのか分かるか? 私は常に光凛を見張っていた。部下を使い、いつこういう事があってもいいように。だが、お前はその時何をしていた? お前は女と、妹の身も案じずに、情事に及び快楽に溺れていたのだ。私は知っているぞ。お前の動向は常に私の元へと来るのだから。お前が暴力事件を起こして停学になったことも。深夜遅くまで安月給のバイトに精を出している事も知っている!」
「なら!! なら何で……光凛を助けてくれなかったんだ……あんたにならそれは出来たんじゃねぇのかよ……」
俺は羽柴の襟元を掴みあげ、そして崩れ落ちる。一度たりとも光凛の前で流すことの無かった涙が、簡単に流れ落ちていく。
自身の無力さが、こんなにも、胸を締め付けるなんて思いもしなかった。
「……もう遅い。手遅れだ。光凛の病気は生まれながらにして手をつけることが出来なかったもの。いくら私がどうにかしようとしても神の宿命は覆らない。……光凛の一年間の治療費は出そう。お前はその時まで、自身の無力さと無能さと無知に、うちひしがれていろ。それが織田に対する私の報復だ」
羽柴は俺の手を払い除けると、足早に俺の前から消えた。
ガラス一枚隔てた向こうの、光凛の安らかな眠りを邪魔しなかっただけ有りがたい。
あんなにも叫んで、喚いたのに、光凛は目を覚まさない。
けれどこれで良いのかもしれない。夢の中でなら、父さんと母さんに会えるから。
俺はガラスに背を預けて、もたれた。足には力が入らず、ずるずると尻を着く。
「ははっ。マジで俺って奴は屑野郎だな……」
自嘲的になんとなく呟いてみる。
「何が光凛を守るだ! 何が変わらない事を望むだ! 俺は何ひとつ出来てやしねぇ。俺はいつだって失って気付く。大切なものは、俺のすぐ側に有るのに!」
俺は身を捻って、ガラスに張り付く。涙で濡れた視界は、ガラスを曇らせる。
「なぁ光凛ぃ……俺、どうしたらいいのかなぁ……? お前は本当に俺と居て幸せだったのかなぁ? 答えてくれよ、光凛ぃ……」
俺は馬鹿だ。馬鹿でどうしようもなくて。何かに怯えて、勇気も無くて。本当は逃げたくて、いつだって目を反らして。
でも光凛だけは。
「お前だけは、守りたかったんだ……」
俺の願いはただひとつ。本当にただひとつだけだ。
光凛が幸せであるなら、光凛の生きる世界を守れるなら俺はなんだってしてみせる。
それが、俺の願い。
「願……い? 叶えたい、願い?」
それはどこで聞いた言葉だったか。
『裏生徒会は願いを叶える場所。叶えたい願いを掛けたゲーム』
そう言ったのは誰だったか。
「決まっている。アイツだ……」
俺は一体何を考えているのだろう。自分でも分からない。
それは確かに、途方もない程嘘臭くて、突拍子もなくて、信憑性の欠片もない、そんな噂。
けど、俺は確かに見たんだ。あの時、あの場所で、繰り広げられた光景を。
俺が守るのはなんだ? ちっぽけな世界か? 変わらない現実か?
――違う。俺が守るのは光凛だ。光凛が幸せに暮らす世界だ。
変わらない世界なんて無い。生きづらい世界なら己の手で変えてみせろ。
掴んでみせろ。選んでみせろ。踏み出してみせろ。
「光凛……お前の強さ、兄ちゃんに分けてくれ……」
俺は行く。
何も掴めない利き腕と、力無き拳と。
そして……最強の勇気と。
●
「やっぱり来た……卓磨……」
月明かり照る所に、彼女はいた。
千歳は笑んで、こうなる事は初めから分かっていたとでも言うように、頬を弛ませる。
「教えろ……俺に裏生徒会を……。願いを叶える方法を……!!」
だが、俺は知っている。こいつがこうして笑みを浮かべる時は決まってそうなのだろう。
――それは、俺を誘っている時だ。
いいだろう。乗ってやる。その誘いに、その契約に。
「ようこそ、裏生徒会へ」
これが俺の、選択だ。