卒業まで、ただ一人本気で校歌を歌い続けた男 2026/10/21 13:02
春風が吹く校庭に、少しだけ春の匂いが混じり始めていた。
卒業式の日だった。
体育館には在校生、保護者、教師たちが整然と並び、静かな緊張感が漂っている。
卒業生代表でも、生徒会長でもない。
最後尾の席に、一人の男子生徒が座っていた。
大島健太。
成績は普通。
運動も普通。
特に目立った実績もない。
だが彼には、誰にも負けないものが一つだけあった。
それは校歌だった。
入学式の日。
新入生として体育館に座っていた健太は、壇上で流れる校歌を聞いていた。
希望を歌い。
友情を歌い。
未来を歌う。
その歌詞が、なぜか胸に刺さった。
特に二番の歌詞。
――若き力を信じつつ 明日の道を切り開いていく
その一節を聞いた瞬間だった。
健太は心の中で決めた。
この校歌だけは、本気で歌おう。
理由は自分でも分からない。
けれど、その決意だけは三年間変わらなかった。
朝礼。
始業式。
終業式。
文化祭。
体育祭。
校歌を歌う機会は何度もあった。
しかし周囲の生徒たちは違った。
口だけ動かす者。
そもそも歌わない者。
眠そうな顔で立っている者。
誰も本気ではなかった。
だが健太だけは違う。
胸を張る。
腹から声を出す。
体育館に響き渡るほどの声量で歌う。
最初は笑われた。
「おい、校歌マンだ」
「また全力で歌ってるぞ」
「将来、校歌歌手になるのか?」
みんな大笑いした。
それでも健太は気にしなかった。
むしろさらに大きな声で歌った。
教師ですら苦笑いするほどだった。
だが二年生になる頃には、誰も何も言わなくなった。
本気だったからだ。
本気の人間は、いつしか笑われなくなる。
三年生の秋。
音楽教師の佐藤先生が声をかけてきた。
「大島、ちょっといいか?」
「はい」
「お前、なんでそんなに校歌を歌うんだ?」
健太は少し考えた。
「分かりません」
「分からないのか?」
「でも、せっかく誰かが作った歌じゃないですか」
「うん」
「だったらちゃんと歌いたいんです」
佐藤先生は目を丸くした。
「それだけか?」
「それだけです」
先生は小さく笑った。
「案外、それが一番立派な理由かもしれないな」
そして卒業式当日。
式は静かに進んだ。
卒業証書授与。
校長の祝辞。
来賓の挨拶。
答辞。
気づけば最後の場面になっていた。
司会の教師が告げる。
「それでは最後に、校歌斉唱です」
卒業生たちが一斉に立ち上がる。
体育館が静まり返った。
ピアノの前奏が流れる。
その音を聞いた瞬間だった。
健太の脳裏に三年間の思い出が溢れ出した。
友達と笑った昼休み。
徹夜で準備した文化祭。
負けて泣いた部活の試合。
初恋。
失恋。
進路に悩んだ夜。
全部。
本当に全部が、この学校にあった。
気づけば目頭が熱くなっていた。
(今日で最後なんだな)
そう思った。
前奏が終わる。
そして。
健太は歌い始めた。
「青き空には――」
体育館に声が響く。
今までで一番大きく。今までで一番力強く。
魂をぶつけるように。
在校生が顔を上げた。
保護者たちが振り返る。
教師たちも驚いている。
それでも健太は歌った。
今日で終わりだから。
もう二度と歌えないから。
一音に三年間を込める。
一文字に思い出を乗せる。
すると。
隣から聞こえてきた。
歌声だった。
普段はまともに歌わない友人だった。
さらに前の列。
後ろの列。
右の列。
左の列。
次々に声が重なっていく。
「おい...」
誰かがつぶやいた。
「みんな歌ってる...」
気づけば三年生全員が本気で歌っていた。
誰一人ふざけていない。
誰一人手を抜いていない。
今まで聞いたことのない校歌だった。
大きな歌声が体育館を揺らす。
教師席で佐藤先生が思わず立ち上がった。
「まさか...」
目には涙が浮かんでいた。
そして最後のサビがやってきた。
健太はもう、自分の声がどれほど出ているのか分からなかった。
ただ必死だった。
涙があふれそうになる。
それでも歌う。
今日で終わりだから。
この制服を着るのも最後。
この仲間たちと並ぶのも最後。
この校歌を卒業生として歌うのも最後。
だから歌った。
魂を込めて。
声が枯れることも構わずに。
「我らが母校――」
健太の声に、無数の声が重なる。
「永遠に栄えん――!」
その瞬間だった。
体育館全体が震えたような気がした。
何百人もの声が一つになり、天井へ向かって真っ直ぐに伸びていく。
まるで三年間の思い出すべてが、歌声になって空へ昇っていくようだった。
歌が終わる。
最後の音が消える。
しかし誰も動かなかった。
静かだった。
ただ静かだった。
それなのに、その静寂はどんな拍手よりも大きかった。
前を見ると、答辞を読んだ女子生徒が泣いていた。
隣の男子も目を赤くしている。
後ろからはすすり泣く声が聞こえた。
健太の頬にも、一筋の涙が流れた。
(終わったんだな……)
三年間が頭の中を駆け巡る。
入学した日。
友達ができた日。
部活で悔し涙を流した日。
文化祭で遅くまで準備した日。
好きだった人と話せた日。
進路で悩んだ日。
楽しかったことも。
苦しかったことも。
全部、この学校の中にあった。
もう戻れない。
そう思った瞬間、涙が止まらなくなった。
すると。
パチッ。
どこかから拍手が聞こえた。
一人だった。
次にもう一人。
また一人。
拍手は次々と広がり、やがて体育館全体を包み込んだ。
保護者たちは立ち上がっていた。
教師たちも拍手していた。
校長先生まで目を潤ませながら拍手している。
それは卒業生への拍手だった。
三年間への拍手だった。
そして何より。
今、この瞬間に心を込めて歌った校歌への拍手だった。
健太は涙をぬぐった。
隣を見る。
友人の山田も泣いていた。
「お前、泣いてんじゃん」
健太が笑う。
山田は鼻をすすりながら答えた。
「うるせぇ。お前だって泣いてるだろ」
「バレたか」
「当たり前だ」
二人は顔を見合わせた。
そして笑った。
笑いながら泣いていた。
きっと三年間で一番きれいな笑顔だった。




