第一章第二幕 予言書の魔獣
「……うぅ、ん……」
鈍い頭痛と、背中から伝わる硬く冷たい感触。村正は重い瞼をゆっくりと押し上げた。
ぼやけた視界にまず飛び込んできたのは、見慣れた夕暮れの空ではなく、目に突き刺さるほどに澄み切った、底抜けに青い空だった。
「起きたか」
すぐ頭上から、静かな声が降ってくる。声の主を探して視線を動かすと、そこには片膝を突き、油断なく周囲を見回す武の姿があった。
「武……!」
村正は跳ね起きようとして、全身の関節が軋むような痛みに顔をしかめた。だが、そんなことよりも目の前の光景が信じられず、声が上ずってしまう。
「ここはどこ? ……俺たち、もしかしてあの光で死んだ?」
「寝起きの割には、相変わらずくだらない冗談を言える余裕があるようだな。お前の脳には何も問題はないらしい」
武は微かに安堵の息を吐きつつも、表情は険しいままだった。彼はゆっくりと立ち上がり、村正に手を差し伸べる。
「とにかく、状況を整理しよう。俺たちはあの少女が持っていた『忘却の叙事詩』を読んだ後、謎の閃光に包まれて気を失った。そして、気づけばこの見知らぬ土地で倒れていた……ということだ」
村正は武の手を借りて立ち上がりながら、ポンッと手を打った。
「もしや、俺たち、この本の中に吸い込まれたってことか!? いわゆる異世界転移ってやつじゃん!」
目をキラキラさせる村正に対し、武は呆れたように短くため息をつき、その視線を冷たく切り捨てた。
「……現実逃避をしている暇はない。とにかく先へ進もう。ここから出る方法を探さないといけないからな」
そう言って歩き出した武の背中を、村正は肩をすくめながら追いかけた。
二人が歩みを進めた先には、息を呑むような光景が広がっていた。
広大な荒野の中で、そこだけが別の時間が流れているかのようだった。青空を鋭く切り取るように、天を衝くほどの巨大なドーリア式の円柱が規則正しく並んでいる。人間という存在の小ささをあざ笑うかのような、圧倒的な幾何学の暴力。それでいて、計算し尽くされた柱の曲線は、荒涼とした大地に奇跡のような調和をもたらしていた。
だが、それは決して生きた建造物ではなかった。
寸分の狂いもない大理石の継ぎ目からは、無遠慮な野アザミが根を張り、千年の調和を内側から無惨に引き裂いている。精緻な神々の浮き彫りを覆い隠すように這い回る太い蔦は、まるでこの聖域をゆっくりと絞め殺そうとする大蛇のようだった。崩れ落ちた瓦礫の間を吹き抜ける風が、笛のようにひゅうひゅうと寂寥の音を奏でている。
「なんだか……」
武は足を止め、荘厳で残酷な遺跡を見上げながら呟いた。
「本当に、神話の世界にでも迷い込んだような……そんな感覚に襲われるな」
常に論理的で現実主義な彼でさえ、その異様な空気に呑まれかけていた。
しかし、村正はどこか呑気に周囲をキョロキョロと見回している。
「それにしてもさ……」
村正は遺跡の陰や、遠く続く荒野に目を凝らした。
「人が誰一人いないんだけど……どういうことだ? まるで世界から俺たち以外が消えちまったみたいだ」
そして、ハッと気づいたように武を振り返った。
「あの光の原因になったはずのあの姫カットの女の子も、いなくない……どういうことだ?」
荒れ果てた遺跡の静寂が、二人の疑問を吸い込み、ただ冷ややかな風だけが彼らの頬を撫でていった。
ピタリと、前を歩いていた武の足が止まった。
同時に、彼の腕がスッと横に伸び、続く村正の胸を無言で押し留める。
「……どうしたよ、武?」
怪訝に思って尋ねる村正に対し、武は口を開かず、ただ凍りついたような鋭い視線で前方の一点を示した。そのただならぬ緊張感に、村正も息を殺して視線の先を追う。
そして、絶句した。
崩れかけた大理石の柱の奥、陰る瓦礫の中から鎌首をもたげていたのは、この世の生物とは思えない悍ましい異形の怪物だった。
黒光りする鱗はどこか金属質で、不自然に歪んだ巨躯は通常の蛇の何倍も太い。吐き出される紫がかった息からは、むせ返るような死の臭いが漂ってきそうだった。
「な、なんだアレ!?」
「……分からない。だが、確かなのは刺激しない方がいいということだ。あまり見つからないように行動した方が良さそうだ」
武は冷や汗を滲ませながらも、極めて冷静に状況を分析し、後ずさりしようとした。
「ん……? アレは……?」
しかし、村正の視線は別のものを捉えていた。
怪物の視線の先、崩れた祭壇のそばにポツンと立つ小さな影。漆黒の姫カットに、どこか見覚えのある制服姿。先ほど、現実世界でぶつかったあの少女だった。
「おい、待て……!」
武が止めるより早く、村正の身体は弾かれたように駆け出していた。
自分でも理由はわからない。だが、あんな虚ろな目で立ち尽くしているだけの少女を、見殺しにすることなどできるはずがなかった。
「………………」
少女は、迫り来る圧倒的な死の気配を前にしても、ピクリとも動かなかった。光のない花紫色の瞳は、ただ漠然と虚空を見つめているだけで、怯える様子すら見せない。
『シャァァァァッ!!』
異形の蛇が、空気を引き裂くような咆哮を上げ、巨大なバネが弾けたような速度で少女へと襲いかかった。大木すら噛み砕けそうな凶悪な牙が、少女の華奢な身体に迫るーー。
その数ミリ手前。
「ッ!」
村正は横っ飛びに少女の腰を抱え込み、勢いそのままに硬い大理石の床をゴロゴロと転がった。蛇の巨大な顎は空を切り、二人が直前までいた地面を粉々に砕き散らす。
「逃げろォォォ!!」
村正は少女を米俵のように脇に抱え上げると、休む間もなく脱兎のごとく走り出した。
突然の浮遊感と強引な救出劇に、抱えられた少女は「え?」と、どこか間の抜けた声を漏らす。その瞳は相変わらず感情が欠落したように虚ろなままだ。
背後からは、獲物を奪われて激昂した大蛇が、地鳴りを響かせながら猛烈な勢いで追ってくる。
「全く……何の策も無しに飛び出すとは」
横を見ると、いつの間にか並走している武が、息一つ乱さずに冷ややかな声を投げかけてきた。
「万が一、お前まで喰われるなどして、何かあったらどうするつもりだったんだ」
「うるさいッ! 目の前で女の子に死なれると! 夢見が悪くて明日の朝の目覚めが最悪になるんだよォ!!」
必死に足を回し、肺を焼くような呼吸を繰り返しながら、村正は涙目で叫び返す。
「そのまま永遠に起きられないかもしれないがな」
逃走劇という絶望的な状況下で、武の冷徹なツッコミが容赦無く突き刺さる。
「こう言う時に限って、冴えたブラックジョーク言うのやめてくれないかな、武先生ッ!?」
真夜中のように静寂だった荒野の遺跡に、村正の情けない悲鳴と、大蛇の怒り狂う咆哮が響き渡る。
背後から迫る巨体の重みで、千年の時を耐え抜いた石畳が無惨に砕け散る。ズン、ズンという地鳴りが直接骨に響き、村正の背筋に冷たい汗がどっと吹き出した。
「で、これからどうすべきだと思う!?」
村正は腕の中の少女を落とさないよう必死に抱え直しながら、砂埃を蹴立てて並走する武に向かって怒鳴った。全速力で走っているせいで肺が悲鳴を上げ、喉の奥からは鉄の味がする。
「とにかく逃げるしかないだろ……!」
激しい逃走劇の最中であっても、武の横顔と声のトーンはあくまで冷静さを保っていた。彼は背後に迫る死の気配をチラリと一瞥し、忌々しそうに眉をひそめる。
「竹刀を持っていたところでどうにもならない。あの怪物とやり合えるほどの力を、俺たちが持ち合わせていないことぐらい分かるはずだ」
あの分厚い金属質のような鱗の前では、人間の腕力など赤子の戯れに等しい。それは疑いようのない絶望的な事実だった。
「そりゃあそうだけどさ! ならば頼れるのは他力本願のみッ!」
村正はヤケクソ気味に天を仰ぎ、喉が裂けんばかりの大音声を遺跡の空へと響かせた。
「誰かァァァ! 助けてくださァァァい!!」
『シャァァァァッ!!!』
まるでその渾身のSOSに応えるかのように、すぐ背後で大蛇が耳をつんざくような咆哮を轟かせた。大きく開かれた血生臭い顎から、死を孕んだ突風が二人の背中を激しく打ち据える。
「お前には言ってねぇよ!!」
村正は後ろを振り返ることなく、涙目で即座にツッコミを入れた。死の恐怖と持ち前の図太さが脳内で完全にショートし、もはや自分でも何に対して怒鳴っているのか分からない。ただひたすらに足を回し、崩れゆく大理石の迷宮を駆け抜けるしかなかった。
ーーしかし。
その泥臭く絶望的な鬼ごっこを、遥か高い場所から静かに見下ろす存在があった。
「……………」
風化を免れた、ひと際高いドーリア式円柱の頂。
眩い太陽を背にした逆光の中に、人型の影が二つ、音もなく佇んでいる。
その影は、土煙を上げて逃げ惑う二人と、それを追う異形の大蛇の狂騒を、まるで盤上の駒でも見つめるかのように冷徹に俯瞰していた。荒野を吹き抜ける風がその外套の裾を激しくはためかせても、影の主はピクリとも動かない。
ただ深い沈黙だけが、その正体不明の存在を分厚く包み込んでいた。
息も絶え絶えに荒野の遺跡を駆け抜けていた二人の足が、突如として地面に縫い付けられたように止まった。
土煙を上げて逃げ込んだ先。彼らの行く手を阻んだのは、滑らかな大理石がスパッと垂直に切り落とされたような、目も眩むほどの断崖絶壁だった。
眼下には、乾いた風が吹き荒れる果てしない荒野が広がっているだけだ。橋もなければ、下へと続く階段もない。
「くそっ……行き止まりか」
常に沈着冷静な武の口から、珍しくギリッと歯を食いしばるような苛立ちの声が漏れた。踵を返そうにも、背後からは岩を砕き、柱をなぎ倒す異形の這いずり音が、もう目と鼻の先まで迫ってきている。
「ということは………」
村正は絶望的な状況を悟り、ごくりと生唾を飲み込んだ。
彼は腕の中で相変わらず虚空を見つめ続けている少女を、崩れかけた大理石の柱の陰へとそっと下ろす。背後からは、獲物を追い詰めた大蛇の、勝利を確信したような悍ましい息遣いが聞こえていた。
「乗り掛かった船だ……」
武の低く、しかし芯のある声が、絶望に支配されかけた空間を凛と切り裂いた。
彼は肩に掛けていた細長い袋の紐を解き、中から使い込まれた竹刀を流れるような動作で引き抜く。
相手は神話の世界から抜け出してきたような、分厚い鋼の鱗を持つ怪物だ。対するこちらは、放課後の部活動で使うただの竹切れ。誰がどう見ても、滑稽なほどに無謀で絶望的な戦力差だった。
だが、武の構えには微塵の揺らぎもなかった。竹刀の剣先を大蛇の双眼へとピタリと合わせ、涼やかな瞳の奥に冷たい闘志の炎を静かに燃え上がらせる。
「覚悟を決めろ、村正」
親友の短くも力強いその言葉に、村正の奥歯がグッと噛み締められた。
「……やるしかないか!」
村正もまた、自身の袋から乱暴に竹刀を引き抜いた。パンッ、と乾いた音を立てて柄を握りしめると、先ほどまで「助けてくれ」と喚いていた情けない態度は嘘のように消え失せ、空気が一変する。
恐怖で膝が震えそうになるのを、気力だけで押さえつける。手の中にある竹刀は、目の前の絶望を打ち払うにはあまりにも頼りなく、軽い。
それでも、背後には謎だらけとはいえ守るべき少女がいて、隣には共に死線を潜ろうとしてくれる親友が立っているのだ。
逃げ場のない大理石の断崖。
赤く染まり始めた空の下、二人の少年は圧倒的な「死」の具現に向かって、一歩も引かずに刃なき剣を構えた。
異形の怪物が吐き出す、生臭い死の風。その圧倒的なプレッシャーの只中で、武の声は驚くほど静かに、そして鋭く響いた。
「囮は、俺が引き受ける……」
「了解!」
村正は一瞬の逡巡も見せずに応じた。言葉は少なくとも、道場で何千回、何万回と竹刀を交えてきた二人の間には、理屈を超えた阿吽の呼吸がある。武が囮となり、自分が隙を突く。その作戦の意図を、村正は直感で完璧に理解していた。
「一撃も受けるな……あの巨体からの一撃を受けようものなら、体は無事では済まない」
背を向けたまま短く忠告を投げかけると、武は大きく地を蹴った。
「わかってるよ……!」
村正の低い呟きを置き去りにして、武の身体は矢のように前線へと飛び出していく。
「来い、化物ッ!」
武が気合と共に竹刀で大理石の床を激しく叩くと、甲高い破裂音が遺跡に響き渡った。その音に反応し、大蛇の縦に裂けた不気味な瞳孔が、憎悪を込めて武を射抜く。
『シャァァァァァッ!!』
空気を切り裂くような咆哮と共に、丸太のように太い尾が、鋼鉄の鞭となって武を薙ぎ払いにきた。
致死の暴風が巻き起こる。武は目を見開き、間一髪のところで身を沈めてそれを躱した。頭上を通り過ぎた尾は、後ろにあったドーリア式の円柱をまるで飴細工のように容易く粉砕し、鼓膜を破るような轟音と白い粉塵を巻き起こす。
(……かすっただけで骨が砕けるな)
武は冷や汗を流しながらも、思考を極限まで加速させていた。彼は休むことなく足さばきを変え、大蛇の周囲を円を描くように走り続ける。大蛇は鬱陶しい羽虫を潰すかのように、巨大な顎を連続して打ち付けてくる。武はそれを、紙一重のステップと竹刀での受け流しで凌ぎ続けた。ただひたすらに、大蛇のヘイト(敵意)を自身に向けさせるために。
(武先生の言う通り、あの鱗じゃまともに打っても弾かれるだけだ……。なら、狙うべき場所は一つ!)
粉塵に紛れ、気配を完全に殺していた村正は、極限まで低く身を屈めたまま、大蛇の死角を這うように移動していた。
彼の視線は、大蛇の頭部……その異様に膨れ上がった右眼だけに定まっている。
「シィッ!」
武が鋭い呼気と共に踏み込み、大蛇の鼻先へフェイントの面を放つ。大蛇が鬱陶しそうに頭を振りかぶり、武を丸呑みにしようと大きく口を開けた、まさにその瞬間だった。
大蛇の意識が完全に武へと向いた一瞬の隙。
死角から弾かれたバネのように跳躍した村正が、大蛇の右側面へと躍り出た。
空中で竹刀を両手で固く握り直す。振り下ろすのではない。狙うはただ一点の刺突。全身の体重と、下半身から生み出した捻りのエネルギーのすべてを、竹刀の切っ先に集約させる。
突然真横に現れた村正に気づき、大蛇の瞳孔が驚愕に収縮する。しかし、もう遅い。
「貫けェェッ!!」
村正の裂帛の気合いと共に放たれた神速の突きが、空気を裂いて一直線に吸い込まれていく。
そしてーー鈍い水音を立てて、竹刀の切っ先が大蛇の右眼球に深々と突き刺さった。
『ギャァァァァァァァァァァァァッ!!!!!』
眼球を潰された大蛇が、これまでにない鼓膜を突き破るような悲鳴を上げる。狂乱する大蛇の断末魔のような絶叫が、遺跡全体をびりびりと震わせていた。
激痛に正気を失った巨体がのたうち回るたびに、大理石の柱が飴細工のようにへし折れ、無数の破片が弾丸となって飛び交う。もうもうと舞い上がる土煙の中、武が鋭い声で駆け寄ってきた。
「どうした!」
「奴の目を潰した! これでなんとか逃げられると思うんだけどッ!」
村正は肩で息をしながら叫び返し、背後にいる少女を隠すように両手を広げて立ち塞がった。暴れ狂う大蛇の視界から彼女を逸らし、身を挺して盾となる。
(…このままデタラメに暴れられ続けるとーー)
村正の背筋を、氷のような悪寒が駆け下りた。
彼らが立っているのは、逃げ場のない断崖絶壁のすぐ縁だ。巨大な質量を持つ怪物が無軌道に暴れる衝撃は、地鳴りとなって容赦なく足元の地盤を揺さぶっていた。
『ミシ……ミシシシシッ……!』
突如、足元の奥深くから、骨が軋むような不吉な音が鳴り響いた。
千年の時を耐えてきたはずの大理石の床に、巨大な蜘蛛の巣のような亀裂が、まるで意志を持っているかのように凄まじい速度で走っていく。
「ちょっとヤバイかもォォォ!!」
村正の顔から完全に血の気が引いた。
崩壊は一瞬だった。大蛇の尾が地面を叩きつけた衝撃が決定打となり、村正と少女が立っていた断崖の縁が、巨大な岩塊ごとボキリとへし折れたのだ。
「村正!!」
武の悲痛な叫び声が響く。彼が咄嗟に伸ばした手は数センチ届かず、空を切った。
「うわァァァァァ!!」
足元から重力が消え失せ、村正と少女の体は、果てしない荒野の底へと真っ逆さまに投げ出された。
逆巻く風が耳元で轟き、視界が上へと高速で流れていく。落下していく絶望の中、村正は少女を抱きしめたまま、ただ強く目を瞑ることしかできなかった。
ーーその時だった。
「ロッキル、」
死の淵にいるはずの村正の耳に、場違いなほど落ち着いた、威厳のある若い男の声が響いた。
「はいはい、分かりましたよ〜大英雄サマ」
それに答えたのは、どこか気怠げで、それでいて風のように軽やかな女性の声だった。
『瞬ーー!!』
次の瞬間、竜巻のような凄まじい突風が吹き荒れた。
いや、それは風の形をした「何か」だった。落下していたはずの村正の身体が、ふわりと見えない腕にすくい上げられ、強烈な重力加速度が嘘のように消え去る。
「…………え?」
恐る恐る目を開けた村正は、自分の目を疑った。
そこは、つい数秒前まで落下していたはずの断崖絶壁の上だったのだ。崩れ落ちた縁から遠く離れた、安全な石畳の上。
「はーい、間に合った」
すぐ頭上から聞こえた声に振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
亜麻色の髪の間からピンと立つ、狼のような獣の耳。そして、腰の後ろでふさふさと揺れる見事な尻尾。獣の耳をピンと立てたその女性は、村正と少女の襟首をそれぞれ片手で軽々と掴み上げたまま、悪戯っぽく口角を上げた。
「こっちは無事に助け出したんだからさ、そっちもキッチリ自分の仕事してよね〜」
そう言いながら、彼女は視線を崩れゆく断崖の方へと向ける。しかし、次の瞬間には呆れたように小さく肩をすくめた。
「……って、もう終わってるし」
ズドォォォォォォンッ……!!
彼女の言葉をかき消すように、遅れて凄まじい地響きと轟音が遺跡全体を揺るがした。
村正が恐る恐る視線を向けると、濛々(もうもう)と舞い上がる土煙の向こうに、信じられない光景が広がっていた。
先ほどまであれほど暴れ狂い、武と村正を死の淵まで追いつめた異形の大蛇。その巨大な頭部が、まるで熟れた果実のように無惨に叩き潰され、ピクリとも動かなくなっていたのだ。
その亡骸の傍らに悠然と立っていたのは、岩山を思わせるほどの大柄な男だった。彼の右手には、大蛇の分厚い鋼の鱗をただの一撃で粉砕したであろう、血濡れた無骨な大棍棒が握られている。
大男は棍棒を軽々と肩に担ぎ直すと、その鋭くも思慮深い眼差しを村正と武に向けた。
「助け船を出すのに遅れたことを、まずはお詫びしよう」
深く、大地そのものが鳴動するような威厳のある声だった。彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ると、張り詰めていた表情をわずかに和らげる。
「か弱き者を背に庇い、己の危険を顧みないその確かな『勇気』……無礼を承知で、少しばかり確かめさせてもらったんだ」
その言葉で、村正は腑に落ちた。先ほど、はるか頭上の円柱から自分たちの逃走劇を静かに見下ろしていた影の正体は、彼らだったのだ。
しかし、武は一切の警戒を解いていなかった。竹刀を握る手にギリッと力を込め、目の前の規格外の存在たちを冷たく鋭い視線で射抜く。
「……お前たちは、誰だ」
静かだが、張り詰めた糸のような武の問いかけ。
それに対し、大男は堂々と胸を張り、荒野に響き渡る声で名乗りを上げた。
「俺の名前はヘレウクルス。『新生の予言』に記されし、第一の勇士だ」
ヘレウクルス。
その名を聞いた瞬間、村正の脳裏に先ほど読んだばかりの『忘却の叙事詩』の一節が鮮烈にフラッシュバックした。
――『幾重の試練を超克し、滅亡の波頭を一身に砕く盾、無敵のヘレウクルス』。
「そして、そこにいるのがーー」
ヘレウクルスが傍らの女性に視線を向けると、彼女はパッと村正たちの襟首から手を離し、軽やかなステップで前に躍り出てきた。
「ハイハイ! 私の名前はロッキル! イタズラ好きのおてんば娘でーす、よろしくぅ!」
緊迫した空気を完全にぶち壊すような明るい声。ロッキルと名乗ったその女性は、腰のふさふさとした尻尾を機嫌よくパタパタと揺らしながら、村正たちに向かって愛嬌たっぷりにウインクをして見せた。
「そちらが名乗ったのなら、こちらも筋を通すべきだろう」
武は手にした竹刀をゆっくりと下げたが、その瞳に宿る鋭い警戒の光は消さないまま、まっすぐにヘレウクルスを見据えた。
「俺は武。秦 武だ。そして、こっちがーー」
「村正。妖刀も持っていない、ただの桑名 村正だ」
武の言葉を引き継ぐように、村正が飄々としたいつもの笑みを浮かべて前に出た。つい先ほどまで死の淵を覗き込んでいたとは思えないほどの切り替えの早さだ。そして、彼は背後に庇っていた少女へと振り返った。
「で、彼女は……えっと、誰だっけ?」
助けておきながら名前も知らないという村正の言葉に、場に奇妙な沈黙が落ちた。
全員の視線が、ポツンと立つ漆黒の姫カットの少女に集まる。彼女は相変わらず光のない瞳で足元を見つめていたが、やがて消え入るような、それでも確かな声で紡いだ。
「………宮本………宮本椿です」
冬の夜に舞う雪のような、静かで儚い響きだった。
その言葉を聞いた瞬間、獣人のロッキルの耳がピンと跳ね上がり、尻尾の動きがピタリと止まった。彼女は信じられないものを見るような目で、村正と武を交互に指差す。
「えっ? ちょっと待って? ってことはアンタたち、どこの誰かも分からない赤の他人を助けるために、あの怪物に命を投げ出そうとしたわけ!?」
呆れと驚愕が入り混じったロッキルの声が、荒野の風に乗って響く。
そのストレートな指摘に、武はわずかに眉間を寄せ、冷静さを取り繕うように咳払いをした。
「……投げ出そうとしたわけではない。俺たちは毛頭死ぬつもりなどなかったし、あの囮作戦も、あくまで隙を見計らって確実に逃げるための布石だったんだ」
論理武装でプライドを保とうとする武だったが、その手にある頼りない竹刀を見れば、それがどれほどの綱渡りだったかは誰の目にも明らかだった。
「逃げるって……ハァ」
ロッキルはわざとらしく大きなため息をつき、腰に手を当てた。
「アンタたちさ、アレが何だったのか本当に分かってないの? アレはただのデカい蛇じゃない。この筋肉バカの最大の宿敵であり、『滅びの予言』第一の偽神ーー魔獣テポーンの分身体だよ」
『魔獣テポーン』。
その不吉な響きに、武の脳内で急速に知識のピースが組み合わさっていく。
「テポーン……ギリシャ神話における最強の怪物、テュポーンの別の言い方か……?」
武が顎に手を当てて呟くと、村正は「神話の怪物ねぇ」と呑気に肩をすくめた。
「まあ、名前や出どころなんて今はどうでもいいさ。少なくとも、この異常な世界における俺たちの明確な『敵』であるってことさえ分かれば、それで十分じゃない?」
持ち前の図太さで現状をあっさりと飲み込む村正。その柔軟すぎる思考に、ヘレウクルスは感心したように太く低く笑い声を漏らした。
「ふっ……肝の据わった少年だ」
大男は地面に突き立てた棍棒に手をかけ、大理石の遺跡の奥へと厳しい視線を向けた。
「俺たちは本来、この『第一の予言』を成熟させないために、テポーンの息の根を止めに来たのだが……奴は狡猾でな。今のところ上手くはいっていない」
ヘレウクルスの見上げる先には、ひび割れ、蔦に絡め取られたかつての栄華の象徴である円柱が、悲しげに立ち並んでいた。
「だから今は、この廃墟と化したアテネ神殿にいまだ取り残されている、罪なき民の救難活動を優先している次第だ。……お前たちも、巻き込んでしまってすまなかったな」
神話の英雄のような大男が頭を下げる姿は、その屈強な肉体に反して、どこまでも誠実で哀愁を帯びていた。
風化しつつある大理石の柱に寄りかかりながら、ロッキルは亜麻色の獣耳をピクピクと動かして、値踏みするように二人を見つめた。
「ねぇ、世界の常識である『予言』も知らない。この大陸を脅かす『テポーン』の名前も知らない。おまけに、あんな得体の知れない棒っ切れで戦おうとするなんて……アンタたち、一体どこから来たの?」
怪訝そうに首を傾げる彼女の問いに対し、武は一切の誤魔化しを挟まず、まっすぐな視線で答えた。
「俺たちは『日本』と呼ばれる場所から来た。そして今、この場から出る方法を探しているところだ」
「ニホン……?」
ロッキルは聞き慣れない単語に眉をひそめたが、すぐに武の言葉の『ある違和感』に気づき、ハッと息を呑んだ。ふさふさとした尻尾の動きが完全に止まる。
「ちょっと待って。今、『この場から出る』って言った? 『この場所(アテネ神殿)』からじゃなくて、『この場(世界)』から出たいって意味?」
彼女の鋭い指摘に、武は無言で頷いた。
その肯定は、ロッキルの頭の中に一つの雷を落としたようだった。彼女は信じられないものを見るような目で武と村正、そして背後に立つ月乃文不帰を交互に見やり、やがて隣に立つ大男を見上げた。
「ねぇ、筋肉バカ。これってさ……もしかして、あの『予言』の……」
『星無き暗黒の世に、異界より来たりし勇士の兆しありーー』。
ロッキルが言いかけた言葉を遮るように、ヘレウクルスは分厚い手で静かに制した。
「………………」
重く、深い沈黙だった。
荒れ果てた神殿を吹き抜ける風が、彼の大柄な体を包むマントを大きくはためかせる。ヘレウクルスの思慮深い眼差しは、目の前の少年たちが放つ「異質さ」と、彼らが内に秘めているかもしれない「可能性」を静かに測っているようだった。
やがて、大男は岩のようだった表情をわずかに緩め、深く響く声で口を開いた。
「丁度いい。君たちも、我々の拠点に来るのはどうだろうか?」
それは単なる提案ではなく、運命の歯車が噛み合ったことを確信した英雄からの、有無を言わせぬ導きだった。
警戒を隠そうとしない武の強張った視線を受け止めたまま、ヘレウクルスは両手を軽く胸の高さまで上げ、敵意がないことを示すように穏やかに微笑んだ。
「いや何、捕虜として無理やり連行しようというわけじゃないさ。ただ、魔獣がうごめくこの危険な廃墟から、安全な『聖都ヒエロファニー』まで君たちを送ってあげようと提案しているにすぎない。……もちろん、どうするかは君たちの自由だ」
『聖都ヒエロファニー』。
またしても飛び出した未知の単語に、武は内心で舌打ちをした。情報が圧倒的に不足している。ここで彼らについて行くのが最善の策なのか、それとも別の生存ルートを探るべきなのか。武の明晰な頭脳が高速で状況を計算していく。
しかし、導き出される答えは一つしかなかった。
「……どうする?」
武は竹刀を握ったまま、忌々しげに横目で親友を見た。最終的な判断を、直感で動くこの男に委ねる。
「どうするって……」
村正は後頭部で手を組み、あっけらかんとした顔で武、そしてヘレウクルスたちを交互に見比べた。
「こんな化け物がウロウロしてる荒野に放り出されて、右も左も分からないんだぜ? 着いて行くしかなくない?」
一切の気負いも悲壮感もない、ただの事実確認のような軽い口調だった。あまりにも図太いその順応性に、武は深い溜め息をついて肩の力を抜く。確かにその通りだ。自分たちの力だけでは、あの蛇の化け物一匹すら倒せなかったのだから。
村正はニシシと人懐っこい笑みを浮かべ、ヘレウクルスに向かってまっすぐに手を差し出した。
「そういうわけだからさ。よろしく頼むよ、」
その迷いのない言葉を聞いて、ヘレウクルスは岩のように屈強な顔をほころばせ、豪快に笑った。
「ははっ、良かった! 君たちならそう言ってくれると信じていたぞ」
ヘレウクルスは村正の差し出した手を、自身の分厚く無骨な手でしっかりと握り返した。骨が軋むほどの力強い握手には、嘘偽りのない歓迎の意が込められていた。
「さぁ、着いてきてくれ。道中は少し長いが、退屈はさせないさ」
ヘレウクルスが踵を返し、マントを翻して歩き出す。ロッキルも「しっかり着いてきなよー!」と尻尾を振りながら後に続いた。
赤く染まり始めた空の下、崩れゆく神話の遺跡を背に。
村正たちは、依然として虚ろな目をした文不帰の手を引きながら、未知なる『聖都』への第一歩を踏み出した。
崩れかけた神話の遺跡を背に、一行は終わりの見えない荒野へと足を踏み入れた。
ヘレウクルスが用意してくれていたのは、荒野の過酷な環境に耐えうる、太い脚と分厚い胸板を持つ二頭の軍馬だった。
「俺はこっちに乗る」
武は手綱を受け取ると、淀みのない洗練された動作で一頭の馬にひらりと跨った。背に竹刀袋を背負い、馬上でも背筋をピンと伸ばして風を切り裂くその姿は、竹刀という得物の頼りなさを忘れさせるほど、歴戦の武者そのものだった。
「よし、椿、落ちないように俺と一緒に乗ろうな」
村正はもう一頭の馬に、椿を前抱きにする形で乗せた。彼女は村正の腕の中で馬の歩みに揺られるがままだが、その瞳は相変わらずガラス玉のように光を失い、焦点の合わない虚空をただ見つめ続けている。村正は彼女の華奢な体が傾かないよう、上着越しにしっかりと抱え込みながら手綱を握った。
「じゃあ、私は先に行って安全を確認してくるからねー!」
ロッキルはそう元気よく言い放つと、自慢の脚力を爆発させ、弾丸のような速度で砂煙を上げて荒野へと駆け出していった。馬の全力疾走すら凌駕するその走りは、しなやかな野生の獣そのものだ。彼女は時折、地平線の彼方から風のように戻ってきては楽しげに馬と並走し、有能な斥候としての役割を軽快に果たしていた。
そして、ヘレウクルス。
彼は自身の乗ってきた、山のように巨大で屈強な牛――ブルスに、丈夫な木製の牛車を繋いでいた。荷台には救難物資や、先ほどの大蛇から剥ぎ取ったと思われる分厚く不気味な鱗などが山と積まれている。彼はその横を、大木のような棍棒を杖代わりにしながら、一歩一歩、大地に轍を刻み込むように歩いていた。その歩幅は馬の歩みと全く変わらず、彼の歩く背中は、どんな絶望的な脅威からも一行を守り抜いてくれそうな、圧倒的な安堵感を与えていた。
アテネの遺跡が遠ざかるにつれ、周囲はさらに広大で、生命の息吹を感じさせない荒涼とした大地へと変貌していった。
やがて夕日が沈み、空は血を流したような赤から、すべてを飲み込むような不気味な赤紫へと染まっていく。頬を撫でる風は急激に温度を下げ、肌を刺すような冷気と共に、絶対的な静寂が漂い始める。時折、遥か遠くの暗闇から名も知らぬ怪物の咆哮が風に乗って響き、そのたびに軍馬が怯えたように嘶いて、一行の間に冷たい緊張を走らせた。
「……酷い有様だな」
武が周囲の暗闇に目を凝らし、苦渋に満ちた声を漏らした。
道中、彼らの目に飛び込んでくるのは、かつては栄華を極めたであろう美しい都市の残骸ばかりだった。巨大な爪痕によって無惨に引き裂かれた大地、焼け焦げ、崩れ落ちた神殿の柱。そして、荒野のあちこちに転がる、城ほどの大きさがある怪物の白骨化した骸。
この世界が、あの『テポーン』のような偽神たちによって、いかに徹底的に蹂躙され、尊い命が踏みにじられてきたのか。言葉による説明などなくとも、その凄惨極まりない風景が、痛いほど雄弁に物語っていた。
「……あぁ。だからこそ、俺たちは戦うのだ」
前を歩いていたヘレウクルスが、振り返ることなく静かに答えた。その声には、千の悲しみを飲み込み、万の絶望を乗り越えてきたような、重く深い響きが宿っていた。
「星なき暗黒の世。希望が尽きかけたこの大地で、それでも明日を生きようとする者たちがいる限り」
ーーその後、暗闇の荒野を何時間も歩き続けて。
「あー……腰が痛ぇ〜。ねぇ大英雄サマ、まだ着かないの〜?」
村正の緊張感のかけらもない、情けない泣き言が静寂を破った。慣れない長時間の乗馬と、椿を支え続けている疲労で、彼の顔は完全に限界を迎えている。
「……少しは我慢しろ。歩くよりはマシだ。」
武が冷ややかにツッコミを入れる。
「おっ、見えてきたぞ」
不意に、前を歩いていたヘレウクルスが足を止め、太い指で前方を示した。
二人が顔を上げると、果てしない荒野の暗闇の先に、突如として巨大な壁がそびえ立っていた。幾度も魔獣の凄惨な襲撃を退け、その爪痕を無数に刻みながらも、決して崩れることのなかった壮大な泥レンガの大城壁。その内側からは、この死に絶えた世界には似つかわしくない、暖かく柔らかな無数の光が天に向かって漏れ出している。
「ようこそ、はぐれ者たち!」
風に乗って一足先に戻ってきたロッキルが、誇らしげに胸を張り、その光り輝く巨大な都市を両手で示すように大きく広げてみせた。
「ここが、滅びの運命に抗う人類最後の砦。ーー聖都ヒエロファニーだよ!」




