第一章第一幕 世紀末の中の日常
時は1999年ーー世紀末と呼ばれた時代。
世ではノストラダムスの大予言にてこの世の終わりと騒がれていた頃。
しかしその予言は当たることはなかった……これは、その破滅の予言を回避させたある救世主の物語である
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蝉時雨が、開け放たれた窓から遠慮なく教室へと流れ込んでくる。1999年、7月。テレビも雑誌も『恐怖の大王』が降ってくると騒ぎ立てる月だというのに、世界は昨日と同じように退屈な日常を紡いでいた。
「あーあ、世紀末ってのに学校があるなんて……いっそのこと休校にでもしてくれねぇかなぁ」
湿気を帯びたぬるい風の中、机にべったりと突っ伏したまま、村正は恨めしそうに扇風機を仰いだ。彼の口からだらしなく漏れるのは、この数週間で耳にタコができるほど聞いた愚痴だ。
この物語におけるイレギュラーであり、主人公めいた立ち位置にいるはずのこの少年は、緊張感の欠片もなく、大きなあくびを噛み殺している。
「お前……まだそんなこと言ってるのか?」
呆れを隠そうともしない涼やかな声が、村正の隣から降ってきた。
声の主は、シャープペンシルを走らせる手を止めずに視線だけを横に流す。
「予言なんて存在しない。そんなことより、明日のテスト対策でもするべきじゃないのか?」
そう冷ややかに言い放ったのは、同級生であり親友の武だ。いかにも猛々しいその名前に反して、彼の出で立ちは凛として隙がない。背筋をピンと伸ばした端正な横顔は彫刻のように静かで、無口な青年である。
彼もまた、村正と同じく世界から少し逸脱した『イレギュラー』の一人だった。
「なぁ、教えてくれよ武先生。明日のテスト、手っ取り早く8割取れる方法をさ〜」
村正は机からズルズルと上体を起こし、すがるような、それでいてどこかふざけた視線を親友に向ける。
「提出物出さなかったから、俺、平常点がないんだよ。助けてくれよ武先生」
「それはお前が遊んでいたからだろう……」
武は小さく、しかしはっきりとしたため息をついた。自業自得という言葉を絵に描いたような親友に、呆れ果てた視線を送る。
「だってさ、今年でこの世が終わるって世間じゃ言われてるんだぜ? なのにわざわざ勉強とか頑張る気、起きなくないか?」
悪びれもせず堂々と言い放つ村正の屁理屈に、武の眉間がわずかに寄った。
「……ならなぜ、赤点を気にするんだ?」
至極真っ当な問い詰めだった。世界が終わるのなら、テストの点数などどうでもいいはずだ。
論理の矛盾という痛いところを突かれた村正は、一瞬だけ言葉に詰まり、バツが悪そうにポリポリと頬を掻いた。
「それは……まあ、プライド、かな?」
ニシシと、照れ隠しのように笑ってみせる村正。
そのどうしようもない楽観主義に、武は完全に押し黙った。
「……………」
反論する気力すら削がれた武は、もはや返す言葉も見つからず、ただ沈黙をもって無言のツッコミを入れることしかできなかった。
オレンジ色に染まった通学路に、長く伸びた二つの影が落ちていた。
放課後。剣道部の厳しい稽古を終えた村正と武は、肩に竹刀袋を担ぎながら、けだるい足取りで帰途についていた。
「はぁ……それにしても、武は強いな〜」
夕暮れの生ぬるい風に吹かれながら、村正が思い出したようにぼやく。
「全然勝てなかった。ボロ負けだ」
本気で悔しがっている様子はない。どこか飄々としたその態度に、武は涼やかな切れ長の目をスッと細めた。
「……お前はふざけすぎだ。竹刀を握っている時くらい真面目にやれ。本来なら、お前は俺よりも強いはずだろ」
武の言葉には、親友の底知れぬ才能への確信と、それを無駄にしていることへの呆れが入り混じっていた。しかし、当の村正はどこ吹く風だ。
「かーっ! 武先生は相変わらず真面目だねぇ。こんな世紀末に、汗水垂らして真面目に部活動なんてさ」
後頭部で手を組みながら、村正はおどけたように笑う。またしても持ち出した『世紀末』という言葉。だが、武の表情は一切崩れなかった。むしろ、その声のトーンは一段と低く、そして奇妙なほどの熱を帯びる。
「……世紀末など訪れない」
武の足がピタリと止まった。振り返ったその瞳は、いつになく真剣で、射抜くような鋭さを持っていた。
「親友を失くすなんてことになる前にーー俺が、お前を守るからな」
その言葉は、夏の夕暮れの空気に異様なほどの重みを持って響いた。一瞬、世界から蝉の声が消えたような錯覚。
村正は目を見開いたまま、少しだけ言葉を失った。
「………」
しかし次の瞬間には、村正の顔にいつものふざけた笑みが戻っていた。
「もーう! 何を言い出すのかと思ったら、まさか道端で熱烈な告白だなんて〜! でもごめん!」
わざとらしく胸の前で手をクロスさせ、体を身悶えさせる。
「俺、BLは趣味じゃないんだ!」
「……そういう意味で言ったわけじゃない」
あまりの茶化しように、武は深い深いため息をつき、目頭を押さえた。
「そーいう甘いセリフはさ、俺じゃなくて可愛いヒロインに言ってあげるべきなんだよ? 分かってるかい武先生? だからお前はいつまで経ってもーーイタッ!」
後ろ歩きでおどけていた村正の背中が、ドンッ、と何かにぶつかった。
同時に、バラバラと地面に物が散らばる乾いた音が響く。
「やべッ」
「……お前がよそ見をしながら、意味不明なことをベラベラ喋っているからだ」
呆れ果てた武の声を聞き流しながら、村正は慌てて振り返った。
「ごめんな、大丈夫……?」
そこに尻餅をついていたのは、一人の少女だった。
夕日を吸い込んだような、漆黒の絹を思わせるセミロングの髪。切り揃えられた姫カットの毛束が、整った顔立ちの輪郭を柔らかく縁取り、彼女の静かで穏やかな雰囲気を際立たせている。
そして、見上げるように村正を捉えた瞳は、涙で潤んだような花紫色をしていた。ひどく澄んだ美しい色。
だが、その瞳にはどこか決定的なものが欠けているように見えた。
光が、ないのだ。
感情の起伏すら感じさせないその空虚な瞳に、村正は一瞬だけ息を呑んだ。しかし、すぐに持ち前の飄々とした態度を取り繕い、地面に散らばった彼女の荷物を淡々と拾い集め始める。
「…………ん?」
その時、村正の手が止まった。
荷物の中に紛れていた、一冊の古びた本。装丁はひどく傷み、紙は変色している。
「どうした?」
怪訝に思った武が覗き込んでくる。
「いや〜、この本さ」
村正は不思議そうに表紙を指でなぞった。
「武、これ見える? 題名がないんだよね」
「……確かに。無地だな」
「いや、多分だけど古すぎて文字が擦り切れて消えちゃってるだけだと思うな〜」
どこか妙な引力を持つその本から、村正は目を離せなかった。直感的な何かが、彼の指先をチリチリと刺激する。
「ねぇ、君。これ、ちょっとだけ中を読んでみてもいい?」
村正が尋ねると、少女は感情の読めない花紫の瞳のまま、ただ静かに、こくりと一度だけ頷いた。
「どれどれ〜?」
村正は軽い調子で言いながら、その古びた本のページに指をかけ、ゆっくりと表紙を開いた。
村正が開いた古びた本。その黄ばんだページには、擦り切れそうな文字で、まるで神話のような言葉が綴られていた。
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> 天地のはじまり、相反する二つの予言が交わった。
> 一つは『滅亡』。
> 世界を底なしの混沌へと引きずり落とす者。
> 一つは『新生』。
> 泥から神々を創り、天と地を分け、命の息吹をもたらす者。
> 新生の理が現実となったように、滅亡の理もまた真実である。
> 生けるものには避けられぬ死と、終わりのない闘争の宿命が刻まれた。
> 神々が治める時代でさえ、永遠には続かない。
> 現れた偽神の狂宴によって、光輝く天の座は地に堕ちたのだ。
> 遺された希望は、⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️の筆⬛️⬛️のみ。
> 古の力を血肉に宿し、新生の理に従って立ち上がる勇士たちよ。
> 〈灯火のリー〉その身に宿す光で闇夜の時代を切り裂け
> 〈俊足のラッキル〉盤上を欺き、世界の時を回す風となれ
> 〈智者のイシス〉混沌の暴君を討ち、救世の旅を導け
> 〈無敵のヘレウクルス〉幾重の試練を乗り越え、滅亡の波を一身に受け止めよ
> そして〈癒しのアムリタ〉慈悲の手で迷いを払い、目覚めの鐘を鳴らせ
> ⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️ ⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️
> ⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️ ⬛️⬛️⬛️⬛️
> ⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️ ⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️ ⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️
> 星なき暗黒の世に、異界より来る勇士の兆しあり。
> 旧き世界はすでに灰と化し、今は亡き王の玉座の跡にて、救世の偉業は果たされるだろう。
> 新生の予言の果てに、安らかな眠りが約束されているわけではない。
> 然れど、神の血を引く者、あるいは古の英雄の意志を継ぐ者たちよ。
> その身の滅びを恐れず、ただ前進を止めず。
> 我ら天下の勇士、ここに集結せり。
> 絶対なる滅びの予言に、終止符を打たんがために。
>
村正は軽い調子で言いながら、その古びた本のページに指をかけ、ゆっくりと表紙を開いた。
黄ばんだページは、指先で触れるとバラバラと崩れてしまいそうなほど脆く、紙の端は時の流れに削り取られたかのようにボロボロになっていた。村正は息を殺し、パラパラとページをめくっていく。だが、あのかろうじて読めた冒頭以降、文字はひどく掠れており、インクの染みが広がったような空白や、何かに食い破られたような文字食いが続いていた。もはや文章として読み取ることは不可能だった。
ただ、ページの下部に描かれた挿絵だけは、辛うじてその形を留めていた。そこに描かれているのは、漆黒の混沌の中から立ち上がり、異形の怪物たちと血みどろの死闘を繰り広げる勇士たちの姿だ。躍動感のある筆致で描かれたその絵は、掠れてはいても、かつての激しい戦いの記憶を鮮烈に物語っていた。
「…………」
無言のまま、次々とページを開いていく村正。しかし、十数ページをめくったところで、彼は奇妙な違和感に襲われ、手を止めた。
「ん?」
眉をひそめ、彼は数ページ前に戻り、再びめくってみる。
同じだ。
混沌から勇士が立ち上がり、怪物を討つ。その次のページも、そのまた次のページも。構図も、描かれている勇士の姿も、怪物も、すべてが寸分違わず同じだった。
まるで、終わりのない円環に囚われたかのように、同じ光景がループしているのだ。
「……どうして同じ絵柄が……? 何か、意図された意味があるのか……?」
武が困惑した声を上げる。彼の冷静な瞳にも、この異常な状況に対する不気味さが宿っていた。
「……これは、『忘却の叙事詩』だな」
村正の声は、いつもの飄々としたものとは違い、妙に落ち着き払っていた。本をめくる手を止め、その傷だらけの表紙を愛おしむように撫でる。
「忘却の叙事詩? なんだ、それは」
「……著者は、中世の偉大なる哲学者ニコラ。彼が遺したこの叙事詩は、当時の教会から極めて異例とされ、激しい弾圧を受けたんだ。なぜなら、その内容は神々を公然と冒涜し、果てはこの世界そのものの存在意義すら否定する、禁忌に満ちたものだったからさ」
「…………」
武は言葉を失った。親友の口から飛び出した、淀みのない歴史の知識。普段はテストの点数ばかり気にしている男が、なぜこれほどまでの隠された事実を知っているのか。武の心に、静かな驚きと、親友に対する未知の感情が芽生えた。
「ニコラの死後、彼の本は教会によって長らく禁書として闇に葬られていたんだけど……近年、ある学者の手によって再発見された。確か、宮本還教授の元にあったはずだ。……俺が知る限り、現存するのは世界でこの一冊だけのはず」
「……お前、よく知ってるな。そんなこと、教科書には載っていないだろ」
武の声には、隠しきれない賞賛と、微かな警戒が混じっていた。
「人は何かに深く興味を持つと、その根源を探求したくなるものさ。……俺にとって、この本はその一つだったってわけだ」
村正はそう言って、ニシシと笑ってみせた。だが、その瞳の奥には、武が決して触れることのできない、深淵のような何かが潜んでいるように見えた。
「だがね……」
村正はふっと笑顔を消し、その視線を本から少女へと移した。うつむいたままの彼女は、自身の長い髪に隠れて表情は読めない。
「どうして……この世に一冊しかないはずの禁忌の本を、君が持っているのかな?」
その問いは、夏の夕暮れの空気に、鋭い刃物のように突き刺さった。武もまた、緊張した面持ちで少女を注視する。
長い沈黙があった。蝉の声さえも、二人の静寂を破るのを恐れているかのように、息を潜めている。
「…………れて」
地を這うような、消え入りそうな声だった。
少女はうつむいたまま、蚊の鳴くような声で呟いた。
「「?」」
村正と武は顔を見合わせた。聞こえなかった。
「……私から……」
少女は、自身の髪をかき分けるように、ゆっくりと顔を上げた。
涙で潤んだ花紫色の瞳。光のないその瞳が、村正と武を、そして本を、射抜くように捉えた。
そして、今度ははっきりと、絞り出すように言い放った。
「私から……離れて……」
「!」
次の瞬間、少女の体、あるいは彼女が持っていた本から、形容しがたい眩い光が溢れ出した。
太陽が地上に降りたかのような、視界を完全に焼き尽くす白銀の閃光。
武の驚愕の叫びも、村正の表情も、すべてがその光の中に飲み込まれていく。
熱い。溶ける。
世界が白く塗りつぶされ、自分という存在が曖昧になっていく。
それからの記憶は、どこにも存在しなかった。




