第8話 狼からの、まさかの「獲物」
その日は、朝から空の色が鉛色に淀んでいた。
午後になると、バケツをひっくり返したような大雨が森を叩き、木々のざわめきを塗り潰していく。
(……ふぅ。外壁の撥水モード、最大出力だ。一滴も中には通さないぞ)
俺は「家」としての意識を尖らせ、家のあちこちに気を配る。
窓の隙間を魔力でぴっちりと塞ぎ、湿気が入り込まないよう気圧を微調整する。
室内は、外の嵐が嘘のように静かで温かい。
ミアはフリースのカーディガンを羽織り、ルカと並んで狼の毛の端切れを針で縫い合わせていた。
新しい服を汚さないよう、動作の一つひとつが丁寧で、見ているこちらまで誇らしい気分になる。
――チリン。
不意に、気配通知の鈴が鳴った。
(ん? この土砂降りの中だぞ。いつもの狼なら、こんな日は自分の巣で丸まっているはずだが……)
俺が訝しんでいると、玄関のドアがドスン!と不自然に揺れた。
そして、遠慮なく「早く開けろ」と言わんばかりの、重く荒々しい衝撃が響く。
(おいおい、今日は一段と荒っぽいな。……待てよ。この重さ、この気配。いつもの野兎じゃないぞ)
玄関先に「それ」が置かれる重厚な音が、床板を通じて俺の核に響く。
普段なら静かに獲物を置くあの狼が、今日の「お届け物」はやけにデカい。
しかも、生きているような……いないような……。
(こいつ!! ついにやっちまいやがったなー!!)
俺の「元社畜」としての理性が一瞬でパニックを起こした。
まさかとは思ったが、狼の奴、ついに禁断の獲物を持ち込みやがったのか!?
肉だ。たしかに肉だが、それは「人間」という名の肉なんじゃないか!?
「え? 狼さん? こんな雨なのに、どうしたのかしら」
ミアが戸惑いながらドアを開ける。
その瞬間、びしょ濡れの狼が、ぐい、と何かを室内に押し込んできた。
それは――白髪混じりの髭を蓄えた、見るからに年老いた「人間」だった。
泥と雨にまみれて、ピクリとも動かない。
傍らには、車輪が折れた小さな荷車が力なく転がっている。
「きゃあっ! おじいさん!? ……大丈、夫……ですか!?」
ミアの悲鳴が、しんとした部屋に響き渡る。
隣にいたルカも、目を丸くして立ち尽くしていた。
狼は「ほらよ、今日のはデカいだろう」とでも言うように鼻を鳴らすと、満足げに尻尾を一度だけ振り、嵐の中へ消えていった。
(おい、待てコラ! お前は『獲物(肉)』のデリバリー業者だろ! 『獲物(人)』は注文してねぇぞ! 俺の家は屠殺場じゃねぇんだ!)
俺の叫び(無言の抗議)も虚しく、玄関には大雨の飛沫と、置き去りにされた「獲物(人間)」だけが残された。
◇
「……姉ちゃん、どうしよう……死んじゃってるのかな」
「ルカ、とりあえず中に入れてあげないと! 外はこんなに冷たいもの!」
二人は大急ぎで、ずぶ濡れの老人をリビングまで引きずってきた。
俺は即座に、混乱を抑えて「ホームセキュリティ・モード」から「全自動・救急モード」に切り替える。
(よし……まずは体温を上げろ! 表面温度15度、低体温症一歩手前だ。床暖房、老人周囲のみ集中加熱!)
ミアとルカが老人の濡れた上着を脱がせるのを、俺は物理的な「温風」と「熱」でサポートする。
床板からじんわりと熱を伝え、壁の隙間からは【風:微】で湿気を弾き飛ばしていく。
(……だが、待てよ)
俺の深層意識が冷たく囁く。
この男は何者だ? なぜ狼が運んできた?
もしこれが商人を装った盗賊の下見だったら? あるいは、呪いや疫病の媒介者だったら?
お人好しなミアたちは必死だが、俺は「家」だ。この家を守る「城壁」であり「番人」だ。
俺は老人が動くたび、服の隙間に隠し武器がないか振動センサーで探る。
外の雨音に紛れて、仲間の足音が近づいてこないか、【集音】機能を最大にまで引き上げる。
(ミア、距離が近いぞ! もしこいつが急に目を覚ましてナイフを突き立てたら……。いつでも灼熱の床で焼き尽くす準備はできてるぞ)
俺の「殺気」に近い警戒心を察したのか、柱がミシ……ッと重く鳴る。
「……よかった。少し、顔色が戻ってきたわ」
ミアは俺の心配も露知らず、狼が昨日運んできたウサギの肉を鍋に入れた。
俺は溜息をつく代わりに、火力を最適化する。
コトコト、コトコト。
本来なら数時間かかる煮込みを、魔力による分子振動で数十分まで短縮する。
ウサギの滋味と、ミアの優しさが溶け込んだ、最高の「命のスープ」が完成した。
◇
「……う、ううむ……」
数時間後。老人がゆっくりと目を開いた。
ぼんやりした視界に映ったのは、温かな暖炉と、自分の顔を心配そうに覗き込む二人の子供の顔だ。
「……おお」
老人は驚いたように身を震わせ、慌てて身を起こそうとして――体の節々の痛みに顔をしかめた。
「おじいさん、無理しないで! ほら、まずはこれ。ゆっくり飲んでください」
ミアが、湯気の立つ木の器を差し出した。
老人は震える手でそれを受け取り、一口、また一口と喉に流し込む。
野生の滋味が、凍りついた体と心をじんわりと溶かしていくのが、俺(家)の感覚でも伝わってきた。
老人は器を空にすると、ふぅ……と深い吐息をつき、おぼつかない足取りで床に手をつき、深々と頭を下げた。
「……かたじけない。本当に、かたじけない。もうダメかと思いました」
その声はかすれていたが、重みがあった。
「私はカシム。しがない旅の商人でしてな。このご恩、カシム、生涯忘れませんぞ……」
カシムと名乗った男は、何度も頭を下げた。
だが、その頭を上げた瞬間――俺は「カチッ」と床板を鋭く鳴らした。
俺のセキュリティ・アラートがまだ「赤」のままだからだ。
「……お怪しみになるのは当然です」
カシムが、ふと真面目な顔をして俺の「柱」を見つめた。
(……は? なぜ気付いた?)
俺はただの建物だ。だが、カシムは俺の「奥」にある視線を真っ直ぐに見返してきた。
「この家は、生きているのですな。……商売柄、多くの魔法具を見てきましたが、これほどまでに『主』を守ろうとする気配に満ちた場所は初めてだ。お嬢さん方を傷つける者は、私が容赦せん。……そう仰っているのでしょう?」
カシムは畏怖の入り混じった溜息をつき、懐から古びた、だが確かな魔力の残るギルドの封蝋がされた書状を取り出した。
「私はただの商人です。もし疑いが晴れるなら、この荷の中身を検められますかな? 中には、北の開拓村へ届けるはずだった薬草の種と、塩が入っております……」
カシムが袋を開くと、そこには湿気でぐっしょりと濡れ、黒ずみ始めた薬草と、泥水が混じって溶けかかった塩の塊があった。
「ああ、そんな……。おじいさん、これ……」
「……私の不徳が招いた結果ですな。北の村では、子供たちがこの薬を待っているというのに……」
老商人の肩が、情けなく震える。
(……おいおい。じいさん。そんな顔するなよ。俺は『何でも元通り』にする魔法使いじゃないが……『効率的な環境管理』なら家の専門分野だぞ)
俺は「家」としての機能を、最も合理的で、地に足の着いた形で駆動させた。
(ミア、その袋を床に置いて広げさせろ。……ルカ、清潔な布を用意しろ!)
俺は床板をトントン!と叩く。
ミアが袋を広げると、俺はまず【床暖房:極微】と【乾燥:弱】をその地点だけに限定発動。
一気に乾かせば薬草は焼けて死ぬ。
俺がやったのは、「泥の水分だけを弾き出し、表面の土をカラカラにする」ことだ。
(よし……次は『振動』だ。ルカ、その布の上で、薬草を軽く振ってやれ!)
俺は床を、小刻みにカタカタカタ……と震わせた。
すると、乾いて脆くなった泥が、薬草の葉からポロポロと剥がれ落ちていく。
完璧ではない。だが、腐敗の元となる「汚れ」と「水分」は物理的に切り離された。
「あ……泥が落ちていく! おじいさん、これならまだ使えるわ!」
ミアとルカが、俺の振動に合わせて一生懸命に作業する。
泥だらけだった塩も、俺が熱で余分な水分を飛ばしたことで、とりあえず「再結晶した塊」には戻った。
(……ふぅ。これが限界だ。あとは、じいさんの『腕』でなんとかしてくれ)
俺は、一番風通しの良い「涼しい床下収納」をパカッと開いた。
「……おお……。ただ乾かすのではない、この絶妙な揺らしと温度加減。……この家は、まるで熟練の薬剤師が手入れをしているような細やかさだ……」
カシムは、ようやく希望を取り戻した目で、ミアを見上げた。
そして、先ほどからずっと抑えていた、商売人としての「業」が、ついに暴走を始めた。
「……お嬢さん。お節介を承知で伺いたい。……その服、一体どこで手に入れたのですか?」
カシムの指が、ミアの着ているフリースを、まるで神像に触れるような手つきでなぞる。
「え? これは……その、この家さんがくれたんです。すごく温かくて、軽いのよ」
「家が……!? いや、そんなことはどうでもいい。……お嬢さん」
カシムの目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「この『布』の均一さ、この『縫製』の細かさ、そしてこの『白』。これは、この世界の王族が国を傾けても手に入らぬほどの、究極の贅沢品なのですぞ!」
「無臭……! 獣の油の臭いも、植物の青臭さもない。ただ、陽だまりのような清潔な香りが……はぁ、はぁ……」
「あ、あの、おじいさん……? ちょっと、くすぐったいっていうか、怖いんですけど……」
ミアが引きつった笑顔で、ジリジリと後退りする。
だが、カシムの指先は離れない。それどころか、素材の密度を確かめるように、さらに深く「お触り」を加速させていく。
(……おい。じいさん。ストップだ。恩人に対して『お触り』とは、いい度胸じゃねぇか)
俺の核が、不快感で熱を帯びる。
俺は即座に、ミアの着ているフリースの繊維へ、魔力による微弱電流を「最適化」して送り込んだ。
(くらえ、冬の天敵――『静電気』最大出力だ!)
バチィッッ!!!
「ぎゃああああっ!!?」
カシムが、弾かれたように飛び上がった。
指先から青白い火花が散り、あまりの衝撃にカシムの白髪と髭が、アインシュタインのように逆立つ。
「な、なんだ!? 神の雷か!? 『汚らわしい手で触れるな』という神託か!?」
カシムはガタガタと震えながら、その場に平伏した。
「……あ、ごめんなさい。この服、たまにこうなるんです。家さん、怒っちゃったのかな?」
ミアが申し訳なさそうに自分の袖をパチパチ叩く。
その影響で、彼女の美しい銀髪までもが、静電気を帯びてふわふわと四方に広がってしまった。
(……ふん。いい気味だ。だが、ミア。お前までボサボサにさせちまったのは俺のミスだな)
俺は柱を「カカッ!」と、警告を込めて鳴らす。
そして怯えきったカシムを無視して、ミアにだけ「最高のアフターケア」を開始した。
壁の隙間から、しっとりとした【マイナスイオン・ミスト】を、ふわりと彼女の頭上に降らせる。
「……わあ、涼しくて気持ちいい。あ、髪がすとん、って落ち着いたわ。ありがとう、家さん」
ミアの銀髪が、一瞬で絹のような輝きを取り戻し、しなやかに背中に流れる。
それを見たカシムは、腰を抜かしたまま空いた口が塞がらないようだった。
「……あ、ありえん。雷を放った直後に、精霊の加護のような癒やしの霧……。この家は、間違いなく高位の守護精霊が宿る『神殿』だ……!」
カシムは、もう二度とミアに不躾な手を伸ばそうとはしなかった。
「いいですか。これを『ただの服』だと思って外へ出れば、強欲な貴族が軍を出してでもこの家を奪いに来る。……お嬢さん、あなたは今、世界で最も危険な財宝を纏っているのと同じなのです」
ルカが、ミアの背中に隠れる。
「……僕たち、捕まっちゃうの?」
「……させませんよ、坊や。このカシムが、そうはさせない」
カシムは立ち上がり、俺の大黒柱を力強く叩いた。
「この家は、私を助けてくれた。誇りである荷をも救ってくれた。……ならば、今度は私が、この家とお嬢さん方の『盾』になりましょう」
一度だけ間を置いて、カシムは続けた。
「まずは、この家を『禁忌の魔術師の結界』として偽装し、好奇の目から遠ざける工作をいたしましょう。そして、この『奇跡』を小出しにして、あなた方の生活を支える資金に変えるのです」
(……ほう。じいさん、ただの『お人好しな行き倒れ』じゃなかったわけだ。……元・エリート商人の隠密工作か。悪くないな)
俺は柱をトン、トトトン!と軽快に鳴らした。
(よし、契約成立だ。……じいさん、期待してるぜ。俺の『現代サラリーマン流・マーケット・コントロール』をな)
翌朝。雨上がりの澄んだ空気の中、カシムは修理された荷車と共に、北の開拓村へと旅立っていった。
その背中を見送りながら、俺はBP通帳の数字を眺める。
(……さて、嵐が過ぎて、新しい風が吹き始めたか。……ミア、ルカ。これからは、もっと忙しくなるぞ)
俺は二人の寝静まったリビングを、一番心地よい温度に整えながら、次なる「家」の進化について、静かに、そして熱く思考を巡らせ始めた。




